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本能寺よりも定宿だった・妙覚寺

 京都での織田信長の宿所といえば,本能寺が真っ先に思い浮かぶ。しかし,実際に宿泊した回数は,妙覚寺が最も多く。本能寺の変が起こった時には,息子・信忠が泊まっていたという,織田信長親子ゆかりの寺院だ。(京都府京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町)


織田信長と妙覚寺

 妙覚寺の創建は室町時代の永和4(1378)年だという。創建時には四条大宮にあり,のちに二条衣棚に移転したらしい。織田信長が宿所としていたのは,現在の妙覚寺ではなく,二条衣棚にあった頃の妙覚寺ということになる。かなり大規模な敷地を持っていたようだが,天正11(1583)年の豊臣秀吉による京都改造で現在地に移転している。
 奈良大学の河内将芳教授は「中世本能寺の寺地と立地についてー成立から本能寺の変までー」(立命館文学609号,2008,立命館大学人文学会)の中で,
『信長公記』にみえる信長宿所の変遷を整理している。その上で,「信長は上洛直後の元亀元年(1570)には本能寺を宿所としていたものの、その後は同じ法華宗寺院でも妙覚寺を多く宿所としており、ふたたび本能寺を宿所とする天正八年(1590)までにはおよそ10年のへだたりがあった」とし,妙覚寺が京都での信長の寄宿先となっていたことを明らかにしている。そして,妙覚寺への宿泊が圧倒的に多いのは,足利義昭の旧二条城や御所への近さなど地理的な条件の良さがあったのではないかと推察している。本能寺については,天正8年(1580)に普請がなされて,単なる寄宿先というよりは信長の御座所という位置付けになり,それに伴い妙覚寺には,家督を継いだ長男・信忠が宿泊するようになったのだという。本能寺が御座所となるまでは,信長の宿所として妙覚寺が定宿だったといえるだろう。

現在の妙覚寺(2026.3.22)

妙覚寺と織田家のつながり

 妙覚寺と織田家のつながりについては,BS日テレの「磯田道史の歴史をゆく 京都の真実2時間SP」で初めて知った。斎藤道三自身がこの寺で修行をしていたり,道三の息子が住職を務めていたりで,織田家というよりは,妻である濃姫の実家・斎藤家とのつながりが深かったのか。そして,この寺には,いわゆる織田信長への「美濃一国譲り状」なるものもあるらしい。斎藤道三が,息子・義龍と戦って敗死する直前にしたためたものだとか。まぁ,それも縁なのだろうけど,地理的な条件とか,いろいろなものがいくつも重なって,都合の良い宿所となったのだろう。

本能寺の変と妙覚寺

 前述の通り,本能寺の変が起こった時,妙覚寺には,息子の信忠が泊まっていた。信忠は,妙覚寺では戦わず,隣にあった二条新造御所に移って明智軍と戦っている。二条新造御所は,足利義昭追放後に,関白二条家の屋敷・二条殿を改造し,のちに誠仁親王に献上されたもので,妙覚寺よりは守りが固かったのだろう。のちの天下人のはずだった・織田信忠が討死した場所は,妙覚寺ではなく二条新造御所となる。

聚楽第の遺構

 織田信長にまつわるものではないが,現在の大門が聚楽第の裏門を移築したものであるとの寺伝があるようだ。確かに,柱の太さは城門然としており,扉の様子なども城門を想起させる立派な門である。柱の様子などは,御香宮神社に移築された伏見城の大手門に通じるものがあるように感じる。寺伝が確かであれば数少ない聚楽第の遺構として貴重なものだろう。他にも,すばらしい庭園や寺宝があるらしいが,通常は非公開。信長・信忠親子の宿所だった妙覚寺とは異なるわけだが,特別拝観などが叶う日に訪れてみたいものである。

妙覚寺大門の柱(2026.4.22)
妙覚寺大門の扉(2026.3.22)

妙覺寺大門
 妙覺寺は北龍華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具足山屋び京都十六本山の一つである。
 南北朝時代の1378年、龍華院日実上人により、信徒で豪商の小野妙覚の四条大宮の邸に創建され、その後、二条衣棚に移ったが、豊臣秀吉による大規模な都市改造の際に、この地に移建された。
 一時は、本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所とされ、千利休による茶会も催された。
 この大門は、寺伝によると秀吉が天正18年(1590)に移設した聚楽第の裏門を,寛文3年(1663)に移建したものといわれており、西本願寺の飛雲閣、大徳寺の方丈・唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。城門特有の両潜扉を持ち,梁の上には伏兵が配置できる空間が設けられている。建築史上興味深い建物である。

現地説明(2026.3.22)


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