小田原北条氏についてまとめてみました 関東100年戦争 北条五代VS旧勢力~覇権をめぐる記録~
はじめに
小田原北条氏について、お店でもよくお話するのですが、鎌倉時代の執権北条氏と混同されたりすることが時々あるので、一度簡潔にまとめておきたいなと思っていました。
そこで小田原北条氏がどうやって関東の覇者となっていったのかを中心に、北条五代を私なりにまとめてみたいと思います。それでも多少長くなりますが、小田原北条氏の入り口として五代を中心に一本の縦線でつながるイメージでお話を進めていきたいと思いますのでご了承ください。
写真は、八幡山古郭東曲輪から見た小田原城です。戦国時代の遺構の一つです。ちなみに現在の小田原城は江戸時代の城を復元したものです。
鎌倉時代が終わった後の関東
鎌倉時代が終わった後の関東は、足利将軍家が、京都の幕府(室町幕府)と連携して、鎌倉に公方(鎌倉公方)を置き、関東管領(上杉氏)が補佐をしました。
ただし、関東管領は、幕府からの独立を図ろうとする公方に対しての監視役も兼ねていました。上杉氏は、山内・犬懸・扇谷・宅間などいくつかあり、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は、相模・南武蔵を基盤とし、家宰(筆頭重臣)は、太田氏でした。山内上杉氏は、上野・北武蔵を基盤として、家宰は、長尾氏でした。
山内が本家のような存在で、関東管領に就くこと多かったようです。この公方と関東管領の争いが、初代北条早雲がやってくるきっかけになりました。
北条五代とは
小田原北条氏は五代約百年にわたり続きました。その五代とは誰か簡単にまとめておきます。そのあとに、それぞれの時代ごとに詳しく書いていきたいと思います。三代目北条氏康で戦国大名小田原北条氏としてのピークを迎えます。
初代 北条早雲(1456頃~1519)
もともと岡山出身で室町幕府政所執事を務めた伊勢の一族で文明年間(1470年代)に駿河今川氏の家督争いを収めるために、駿河に下向しました。
後、伊豆・相模に侵攻し、韮山城(現静岡県伊豆の国市)を本拠とし2か国を支配しました。名は伊勢宗瑞(早雲庵宗瑞)でした。北条早雲は亡くなってからの名前ですが、ここでは以後、北条早雲の名で統一することとします。
二代 北条氏綱(1486~1541)
氏綱は、小田原城を本拠地として大永3年(1523頃)に姓を「北条」に改めました。また武蔵川越城まで侵攻し、武蔵南部まで支配を拡大しました。小田原北条氏の関東での基礎を確立しました。
三代 北条氏康(1515~1571)
氏康は、武蔵北部に侵攻し、天文15年(1546)川越合戦の勝利によって、武蔵国のほぼ全域を支配しました。まさに天文末年頃からさまざまな制度を整備し、領国支配のしくみを整えました。
川越合戦の勝利が関東支配の一番のターニングポイントでした。小田原北条氏の存続をかけた戦いでした。又、甲相駿三国同盟(武田信玄・北条氏康・今川義元)を結び、強固な和平・軍事同盟を結びました。
今川義元が亡くなり、武田の駿河侵攻で崩壊することなり、その後、武田に対抗すべく上杉謙信と越相同盟も結びますが、さほど効果はありませんでした。
四代 北条氏政(1538~1590)
氏政は、南関東地方全域をほぼ支配下に治め、さらに上野・下野等北関東方面へと侵攻しました。一方天正14年(1586)以降は、豊臣秀吉との対立に備え、領国内の軍事強化を図りました。
五代 北条氏直(1562~1591)
北条氏直は、豊臣秀吉が約20万の大軍でやってきた天正18年(1590)小田原合戦後、高野山に追放、その後病死。
その後の小田原北条氏は、四代氏政の弟氏規の子、氏盛(1577~1608)が後を継ぎ、石高1万1千石で狭山藩(河内国丹南郡、現大阪府大阪狭山市付近)の祖となり、狭山藩北条氏は、幕末まで存続しました。
北条早雲が関東進出となった土台は何か?
複雑に絡んだ京都室町幕府足利家と関東の公方足利家及び山内上杉氏・扇谷上杉氏の関係
戦乱で、鎌倉公方(関東の足利将軍)が空き状態になったため、室町幕府は、8代将軍足利義政の弟・足利政知を鎌倉公方として送り込もうとするも、抵抗を受け鎌倉に入れず、伊豆にて堀越公方として御所に住むことになりました。
戦乱勃発から約30年後、室町幕府と、古河公方・足利持氏は和解します。ただし戦乱が続く鎌倉に戻ることはありませんでした。結局この後も鎌倉に将軍家が住むことはありませんでした。(経緯は以下の通りです)
*享徳の乱は、上杉方が、室町幕府と古河公方の和睦を約束して終結したにもかかわらず、なかなか和睦が進みませんでした、最終的に越後上杉氏を通じて、和睦交渉を行い、室町幕府将軍足利義政は、和睦を承認します。しかし関東では、まだ戦乱が続き太田道灌が殺害され、山内・扇谷の両上杉氏の戦乱(長享の乱)が勃発中でした。
*享徳の乱とは、5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことによる関東騒乱。その後、鎌倉公方は、古河に本拠を移し古河公方となり、鎌倉に足利将軍家がいなくなりました。
和解が成立すると、堀越公方が必要なくなるため調整が必要となります。ただし今更、京都に戻す訳にもいきません。山内上杉氏は、幕府と堀越公方とともに戦っていたため伊豆の所領を、堀越公方に引き渡し、堀越公方存続で解決することなります。
茶々丸の乱
しかし程なくして堀越公方・足利正知が亡くなると、家督争いが起き、庶長の茶々丸が、母と弟(実母でないかつ異母兄弟)を殺害しクーデターを起こし、家督を相続しました。
このタイミングで、京都で政変(明応の政変)が起き、将軍が変わります。その将軍とは、亡くなった堀越公方、足利政知の子で茶々丸の腹違いの弟、足利義澄(第11代室町幕府将軍)でした。
当然、実の母と弟を殺害され、怒った将軍義澄は、北条早雲に茶々丸追討令を出し、最終的に追い詰められた茶々丸は自害します。ここに堀越公方は消滅することとなりました。
北条早雲は、伊豆を領土化し韮山を本拠とし、京都に帰ることはありませんでした。茶々丸は山内上杉氏と連携抵抗を続け、北条早雲は、扇谷上杉氏と連携して動いたため、山内上杉氏対扇谷上杉氏の戦いが長引くこととなりました。
その他の北条早雲の働き
北条早雲は、この前にも親戚である今川氏の家督争いを、堀越公方(茶々丸の父)とともに調停し京都に帰っています。この頃の北条早雲は、室町幕府と連携して動いています。
最初、北条早雲は、室町幕府や今川家と連携して行動していましたが、山内上杉氏と扇谷上杉氏による関東騒乱(長享の乱)に参加しながら、領土を伊豆から相模へと拡大し三浦氏も滅ぼし、幕府及び今川氏から独立して戦国大名となっていったようです。
二代北条氏綱が小田原を拠点とし、北条と名乗る。小田原北条氏の始まり
跡を継いだ氏綱が、北条と名乗り小田原を拠点としました。北条氏綱が小田原北条氏の基礎を作りました。
氏綱の偉業
氏綱は、扇谷上杉氏の拠点である川越城を攻略します。当時は扇谷上杉氏が相模の守護だったので、川越城を攻略したことは大きなことでしたが、それ以上に関東で地位を確立することがありました。
古河公方と対立していた小弓公方を氏綱が倒した戦功により、古河公方より関東管領に任命されることとなります。ここに二人の関東管領が存在することとなります。もう一人は、それまでの関東管領である山内上杉憲政です。
この山内上杉憲政が、後に越後に助けを求めて、上杉謙信となる人物に繋がっていくこととなります。
また、氏綱は、自分の娘の芳春院殿を古河公方と婚姻させて正室として認めさせました。更に氏綱は、関東武家から随一の信仰を受けてきた鶴岡八幡宮の修造事業についても一定の成果をあげることに成功し、関東管領、古河公方家の外戚に続き宗教界の外護者としてもゆるぎない地位を築きました。
もはや「他国の逆徒」でなく、小田原北条氏は、関東管領であり、古河公方の外戚であり、また、鶴岡八幡宮の守護者として戦国期関東の新たなる覇者としての道を歩み始めました。
ただし、依然として山内・扇谷の両上杉氏は力を持っており、隙あらば挽回してやろうと虎視眈々と狙っている状態に違いありませんでした。
三代北条氏康が圧倒的な関東の覇者となったターニングポイント
川越城の戦い
この戦いに勝利して、小田原北条氏が自他ともに認める関東の覇者となったといえる戦いです。相手は、山内上杉、扇谷上杉の両上杉氏に古河公方の足利氏。
もともとは川越城は、扇谷上杉氏の本拠で家臣の太田道灌が築城したもので、氏綱の代に攻略したものでしたが、氏綱が亡くなったタイミングで、上杉氏が古河公方も味方につけ、攻撃を仕掛けてきました。
古河公方は、再三に渡る北条氏康からの中立の姿勢の要望を無視して上杉側に付きました。
北条氏康は、駿河今川氏と合戦中でしたが和睦し、川越に駆けつけ勝利します。山内上杉氏の上杉憲政と古河公方足利晴氏は敗走、扇谷上杉氏の上杉朝定は戦死します。合戦後、北条氏康は、すぐに扇谷上杉領国を合併し、さらに山内上杉氏両国への侵攻もすすめました。
扇谷上杉氏は滅亡し、古河公方足利晴氏は、北条氏康の監視下に置かれることとなります。氏綱の娘である芳春院殿を正室とさせ、子の義氏を古河公方とさせます(氏綱時代に正室になったはずでしたが、足利晴氏には、もう一人の妻と子がいたため争いが絶えなかったようです)。
山内上杉氏のその後
山内上杉氏の山内憲政は、その後も北条氏康との戦いに敗れ、越後に逃れ、長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲ります。上杉の姓と関東管領を譲ります。一応、上杉謙信が山内上杉氏を継いだことにはなりますが、事実上の山内上杉氏の没落です。ただ、ここから長尾改め上杉謙信の小田原攻めへと繋がっていくのです。
室町幕府の始まりから続いてきた、関東の支配体制(足利公方と関東管領上杉氏という支配体制)が完全に崩れることになります。江戸城・川越城を支配下に置く北条氏康が、関東の覇者として存在感を増していくこととなります。
小田原北条氏の中で北条氏康がスター的存在で語られることが多いです。ちなみに北条氏康は、上杉謙信と武田信玄と同じ時期に覇権を争った人でした。
四代北条氏政・五代北条氏直
小田原合戦へ
北条氏政は、北条氏直に家督を譲っても最後まで権威を持ちつ続けたため同時期に併記しました。司令塔が二人いるため、最後までもつれていた感が色濃いです。
先代北条氏康亡きあと越相同盟を破棄し再び武田と同盟を結ぶも、上杉謙信亡き後の家督争い絡みでうまくいかず、今度は織田信長と同盟を結ぶも本能寺の変で消滅。徳川家康と同盟を結ぶも家康が秀吉の支配下になったためこれもうまくいかず。この頃に、武田信玄も上杉謙信も亡くなり、関東の支配情勢も変化してきます。
小田原北条氏としては、領土は最大になりますが、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らの関東登場により、関東だけで事が済む争いでなくなってきます。
この部分については、歴史としては見応えありますが、どうやって関東の覇者になったのかという観点から外れてくるので、このくらいにしておきます。
今川氏、武田氏が滅亡し、そして、あの有名な石垣山一夜城が登場する小田原合戦と繋がっていきます。豊臣秀吉率いるおよそ20万の大軍相手に、籠城するも、なすすべなく降伏することとなります。北条氏政は切腹を言い渡され、北条氏直は高野山へ追放となります。
戦国大名としての小田原北条氏250万石が滅亡することとなり、ここで事実上の戦国時代が終焉を向かえることとなります。
終わりに
どうやって関東の覇者になったかに焦点を当てているため、最後は駆け足で締めることとなり物足りない方もいらっしゃるかと思いますが、小田原北条氏は、掴みどころが今一つという方には、大まかに捉えられるのではないかと思っております。
関東の戦国時代をお話する時どうしても、鎌倉公方と関東管領のいざこざを避けて通るわけにはいきませんが、初めて聞く方もいらっしゃるのではないかと思います。次回以降は、焦点を絞って記事を書いていこうと思っています。
関東の動乱を巻き起こした山内・扇谷の両上杉氏を没落させ関東に安定をもたらしたのは小田原北条氏だったと思います。争いごとの絶えない公方足利家を支配下に置いたのも小田原北条氏でした。
鎌倉公方は、古河公方、堀越公方、そして古河公方から小弓公方が分裂し、争いが絶えませんでしたが、最終的に一つにまとめあげたのも小田原北条氏の功績だと思います。
室町時代以降、関東を支配してきた鎌倉公方(関東公方)と関東管領の体制を崩壊させたのは、小田原北条氏の出現があったからではないでしょうか。
これだけのことをやり遂げることができたのは、小田原北条氏は、珍しく家督争いがなかったことが大きかったと思います。また、通常6公4民、よくて5公5民のところ、4公6民で民に安定をもたらした点も他と違うところでした。兄弟姉妹達の貢献度も優れています。
もし、古河(関東)公方、山内上杉氏、扇谷上杉氏が健在で、関東大騒乱であったなら、後の徳川家康も関東の支配はすんなりいかなかったと思います。
そして徳川家康が今川家(足利将軍家の親戚でもあり、小田原北条氏とも親戚)で人質として過ごし、かつ同じタイミングで北条氏規(北条氏康の4男)も人質として同じ時間を過ごしたのも、何かを感じざるを得ません。
氏規は家康との親交があったので、小田原合戦の開城交渉の窓口となりました。未来への準備がなされているように感じます。
この時代の動きすべてが、江戸を中心とする江戸時代を迎えるために、繋がっているような気がします。徳川家康が関東を作ったと言われがちですが、私は本当の基礎を築いたのは小田原北条一族だと思っています。
他の武将ほど派手さはありませんが、しっかり関東をまとめ上げ次に繋いてくれた功績は素晴らしいものだと思っております。
至らない点もあったかと思いますが、最後までお読みいただきありがとうございました。
参考文献
後北条氏と川越城 著 川越博物館
敗者の日本史⑧ 享徳の乱と太田道灌 著 山田邦明 吉川弘文館
対決の東国史⑥ 古河公方と小田原北条氏 著 石橋一展 吉川弘文館
歴史街道 戦国合戦・関東100年の争乱 2024/4 PHP研究所
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