早川駅前の日常から戦国へ。姫君『早川殿』と私のお店を結ぶ縁
せっかくお店が早川駅前にあるので、これもご縁なので早川殿の由来について書いてみようと思います。早川に訪れた際は、歴史に思いを馳せていただければ幸いです。
ざっくりと早川殿とはどんな人
さっくり言うと、今川氏真の妻で、小田原北条3代目北条氏康の娘で4代目北条氏政の妹です。正式な名前は、蔵春院殿です。甲相駿同盟(武田・北条・今川)の時に、今川家に嫁ぎました。ちなみに今川家は、小田原北条初代の北条早雲の姉が嫁いでおり元々親戚です。
今川義元が亡くなって、同盟に反し武田信玄が駿河に攻めてきたため、掛川城に逃げ籠城するも徳川家康に攻められます。その後、家康と和解し今川氏の同盟相手で妻の実家である相模の小田原北条氏のもとへ夫婦で移ることとなりました。小田原北条氏は、武田氏とは同盟を破棄し越後の上杉謙信と同盟を結ぶことになります。
どうして早川殿に
では、本題のなぜ早川殿かというと、武田信玄から逃れ早川に住んだからです。そのまま名前の由来になっています。早川には、今川氏真夫妻の屋敷があっただけでなく、今川氏真(以後氏真で統一)の家臣やその家族も早川の寺院に分宿していたそうです。いうならば、早川一帯は、駿河・遠江から逃れてきた今川家臣団の難民キャンプと化していたそうです。屋敷の場所は今となっては、わからないそうです。

1番左側青の看板下あたりに久翁寺があります。
1番右白い観音様が、魚籃観音の東善院です。
この話を知ってびっくりしました!早川駅一帯が今川家の難民キャンプ!
早川は、北条一族の長老たる北条幻庵宗哲の所領であったらしく、以後、氏真は、宗哲の後見を受け北条の一門として遇されたそうです。氏真の順位は、氏政・氏照に続き3位であったそうです。そして氏真はこの時、駿河奪還にまだ望みを捨てていませんでした。
またびっくり!
さらに私がびっくりしたのは、元亀3年(1572)5月19日に、氏真が早川の久翁寺にて、父である今川義元の13回忌法要を行っていたことです。ちなみに今も久翁寺ありますが、無人です。また、今川氏や今川義元の13回忌についても説明はありません。ちょっと残念。


もとは真言宗の心明院というお寺だったそうです。小田原北条2代目北条氏綱も参加して連歌の会が催されていたようです。その後廃寺となり、天文15年(1546)北条幻庵の許可を得て家臣が久翁寺を建立したそうです。
氏真と早川殿その後は?
氏真と早川殿は、その後小田原を離れて家康のいる浜松に行ったそうです。
早川殿の父である北条氏康が亡くなり跡を継いだ氏政は、あまり効果のなかった上杉謙信との同盟を破棄し、再び武田信玄と同盟を結ぶことになります。駿河奪還を諦めていない氏真夫妻は、小田原を退去し浜松に渡り、徳川家康と織田信長の下へ行くこととなります。
この際のことは小田原では、内密のものとなってたそうです。北条氏は、当時武田氏と同盟を結んでいたので、氏真の相模退去を公に援助できなかったと思われます。
今川氏は、戦国大名として復活することはありませんでしたが、その後、名家である今川氏は徳川家に優遇され、早川殿は最後まで氏真とともに過ごしました。
小田原脱出逸話
この小田原退去話には、いくつかのお話がありますが、すべて作り話のようです。
武田信玄が北条氏政に氏真を討つ計策をもちかけ信玄が刺客を派遣し、このことを聞きつけた氏真・早川殿は子供や家臣を連れ、小田原から浜松へ向かったとか、さらには、武田氏と同盟を締結したことにより、北条氏が武田氏に気を使い、氏真を小田原から追い出したとする話があります。
いづれも氏真が小田原を出国した当時、巷間に流布していた話のようです。
おわりに
早川は石垣山一夜城が有名ですが、今川氏真と早川殿が武田から逃れ一時期いたということも、大事な歴史の一ページとして一夜城を訪れた際はセットで早川めぐりをしていただけたら嬉しいなあと思ってます。
この話を知った時、こんな貴重なお話、早川駅前に看板でてたらおもしろいのになあって思いました。おもしろい散歩コースができそうです。同じ道を今川家の人達も歩いていたのかと思うとまた違う感覚になれそうです。

最後に早川殿の由来になった早川の写真を載せます。ここから氏真と早川殿は、浜松駅へ脱出したのだろうかと思ったりします。

小田原は、豊臣秀吉の一夜城あり、源頼朝の石橋山があり、歴史の交差点だなぁと思います。最後まで読んでいただきありがとうございます。


参考文献
北条氏康の子供たち 黒田基樹 朝倉直美 編 宮帯出版社
