短編:辿る時間
◉風まかせ文芸部【翫味】参加作品
閉じたあと なお消えぬ文字
胸に落ち
余韻辿るも また翫味なり
──大島蓮司
読み終えたあと、しばらく本を閉じられなかった。指先が表紙に触れたまま、動かせない。
窓の外に目をやると雨が降っている。街灯が滲んで、世界が少しだけやわらかく見える夜だった。
ひと息ついて、ようやく本を閉じた。ぱたり、と小さな音で終わるはずだったのに、終われなかった。胸の奥に、まだ何かが残っているからだ。
最後の一文。あの場面の静けさ。言葉にならなかった気持ち。それらが、消えずに残っている。
そして、感情を寄り添わせた登場人物たちと離れていく感覚が、さらなる寂しさを誘う。
「こういうの、なんて言うんだろうな」
思わず独り言がこぼれる。マグカップに手を伸ばし、冷めかけのコーヒーをひと口飲んだ。強い苦味が、さっきの物語とどこか重なる気がした。
もう一度、本に手を置いてみる。開く代わりに目を閉じた。
すると、不思議と続きが見えてくるような気がした。あの人物は、あのあとどうしたのか。言えなかった言葉は、どこへ行ったのか。
答えはどこにも書いていない。だけど、心の中では確かに「続いている」と感じる。
それを辿ってみる。急がず、ゆっくりと。思い出すのではなく、もう一度味わうような気持ちで。
ふと、言葉が浮かんでくる。読み終えたはずの物語が、ページの外で続いている。
あの場面の温度。言葉の重さ。沈黙の意味。それらをひとつずつ確かめていく。まるで、口の中で飴を転がすみたいに。
雨音が少しだけ強くなる。窓ガラスを伝う水滴が、細い筋を引いた。時間はゆっくりと流れている。
何も起きていないはずなのに、どこか満たされていくようだった。
ふっと、小さく息を吐く。
「悪くないな」
本を持ち上げて、棚に戻す。灯りを少し落とすと、部屋がやわらかい影に包まれ、胸の中に残っていたものが静かに深く沈んでいく。
消えるわけではない。ただ、心を形作っている壁になじんでいくのだ。それを確かめるように、目を閉じる。
閉じたあとも、なお消えぬもの。それを辿る、この時間。
──これもきっと、翫味なのだ。
