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短編:花の宵にて

◉風まかせ文芸部【花見】参加作品

叢雲むらくもに  月影こぼす  春の風
夜桜揺れて 花あかりゆく

                 ──大島蓮司        

 その男が名を名乗ることはなかった。呼ばれれば振り返るが、自ら語ることはない。
 どこの生まれか、どこへ帰るのかも知れぬまま、季節のように現れては、音もなく去っていく。

 人はそれを、粋だと言った。

 その夜、川沿いの桜はちょうど見頃を迎えていた。
 春の風が吹き、叢雲がゆるやかに流れた。隠れていた月がふと顔を出す。
 こぼれるような光が、水面に淡く広がっていった。
 夜桜が揺れ、花びらが静かに舞い落ちる。
 そのひとつひとつが光をまとい、川の上にやわらかな灯りを落としていく。

 男は、ただそれを見上げていた。手にした扇を、ひらりと一度だけ開き、すぐに閉じる。
 その仕草さえ、どこか芝居がかって見えるのに、不思議と嫌味はなかった。
 風はやさしく、春の匂いを含んでいる。まるで、何かを思い出させるように。

 ──昔、ここに誰かと立ったことがある。
 
 ふと、そう思った。同じように月を見上げ、同じように花の下に立ち、言葉を口にしないまま、並んでいた夜が。
 だが、その顔は思い出せない。名前も、声も、輪郭さえも。ただ、失ったことだけが、静かに、それでいてはっきりと残っている。
 男は小さく息をつき、川面へ視線を落とした。流れていく花びらが、光を受けて揺れている。
 掬おうとすればできるほどの距離にありながら、指先でそっと触れるだけにとどめた。
 やがて男は、何も言わず歩き出す。その背を、月だけが黙って見ていた。
 花あかりはなおも揺れ、夜は静かに流れていく。風があとを追ったが、振り返ることはなかった。
 そこに何もないことを、知っているからだ。

 ただひとつ、確かなことがあるとすれば──あの夜もまた、同じように美しかったのだろうということだけだった。

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