「わきまえない」宣言が、検閲の免罪符になるとき──トラックバック:「うまくやる」ことが「わきまえる」ことなら、私はその地雷を踏み抜きたい
ある記事が流れてきたので読んだ。
主張の骨子はこうだ。「うまくやる」ための助言(主語を小さくしろ、難しい言葉を使うな、推測形で話せ)は、中立を装った支配であり、弱者に地雷処理を押し付ける道具だ。だから私は、その地雷を踏み抜く──と。
一見、「抑圧への抵抗」という美しい物語に見える。SNSではさぞかし「いいね」が集まることだろう。
だが、私にはこれが、「自分たちの加害性や未熟さを隠蔽するために、『構造』という大きな物語を借用している」ようにしか見えない。
自分のメタ認知の低さを「社会の構造的な歪み」へと変換し、他者からの正当なフィードバックを「弾圧」と呼び変える。今回は、この「物語への逃走」がいかに空虚であり、そして社会的なコストを増大させる「公害」であるかについて整理しておきたい。
物語は便利だが、便利なものほど説明責任を免除する方向に使われるものだ。
表現の自由は、「摩擦ゼロ」を約束する魔法ではない
まず前提として、表現の自由は重要な権利だが、「言ったら必ず好意的に受け取られる権利」ではない。
何かを表現すれば、そこには必ず摩擦というコストが生じる。
人間、金なら納得せずとも渋々払うことはあるが、「いいね」ばかりは腹の底から納得しないと押さないものだ。反発を抑圧と呼ぶのは簡単だが、簡単に言い換えができる言葉ほど現実を変えるのは容易くない。
あなたの言葉が受け入れられないのは、社会が抑圧的だからでも、男たちが意地悪だからでもない。単純にそのアウトプットが、相手を「納得」させるだけの品質や配慮を欠いているからだ。
元記事は、摩擦を避ける作法を「抑圧」と言い換えた。
しかしその瞬間に起きているのは、実際の抑圧に対する告発などではない。単に「自らが引き起こした摩擦」に対するコストを支払いたくないという、幼児的な生存戦略の表明に過ぎない。
「私が気持ちよくなるために、お前らが配慮しろ」と喚くのは、赤ん坊と同じだ。赤ん坊なら愛されるが、いい大人がそれをやれば疎まれる。ただそれだけの話だ。
「主語を小さくしろ」とは、解像度と誠実さの問題だ
元記事は「男」という大きな主語を使うのは構造批判だから必要だと言う。
しかし、現実を直視すべきだ。男性という属性は、能力においても性格においても標準偏差がきわめて大きい。
とてつもない天才もいれば、どうしようもない犯罪者もいる。社会を支える労働者もいれば、ドロップアウトした層もいる。女性が比較的平均値に収束する傾向があるのに対し、男性は両極端に分散する生き物だ。
その多様な現実(リアリティ)を無視して、自分の観測範囲にいる一部の男性の振る舞いだけを取り上げ、「男は~」「男社会は~」と一括りにするのは、単に社会に対する解像度が低いか、あるいは知能が低いかのどちらかだ。
それを「構造批判」などと小賢しい言葉で飾っているが、要するに「個別の事象を分析する知能も体力もないから、ざっくりまとめて処理させてくれ」という怠慢宣言だろう。
主語が肥大化した瞬間、議論は現実記述から政治的スローガンに変質する。
主語を大きく語る資格とは、「弱者の立場」にあるから得られるものではなく、その雑な一般化に耐えうるだけの論証の厚みによって裏打ちされて初めて手に入るものだ。ここを曖昧にしたまま「私の痛みは構造だ」と言い張るのは、無能が自分の無能さを隠すために社会のせいにしているに過ぎない。
「難しい言葉」で武装するのは、所詮ムラの論理だ
元記事は、概念語を「地雷原を歩くための注意書き」だと擁護する。
確かに、内輪の共同体(ムラ)ではそれで通じるだろう。仲間内で「エンパワーメント」だの「ミソジニー」だのと言い合っていれば、賢くなったような気分に浸れるかもしれない。
だが、本当に価値のある思想やコンテンツなら、平易な言葉でも人はついてくるし、評価される。 ブロックス(フランスのボードゲーム)のゲーム開発者を見よ。「遊んでほしい」「楽しんでほしい」という純粋な欲望だけで、子供たちを熱狂させている。そこには小難しい理屈などない。
説明を放棄した瞬間、概念は知性ではなくただの合言葉になる。
対して、外部の人間に理解のコストを転嫁するのは、対話の作法として不誠実だし、それを「翻訳しろと言うのは搾取だ」と拒絶するのは、単に相手を怠惰だと決めつけて黙らせる技術でしかない。
市場価値のない商品を、難解な包装紙で包んで「理解できない客が悪い」と言い張る。それは商売としても、言論としても、三流の詐欺師の手口と変わらない。
「推測形にしろ」は、認識のバグを修正せよという忠告だ
元記事は、推測形を求められることを「自己検閲だ」と嘆いてみせる。
だが、断言が許されるのは、「事実」と「覚悟」がある時だけだ。断言は信用のレバレッジだ。元手が薄い人間ほど、断言で盛ろうとして破綻する。
「努力できないのは怠けてるだけ」というのは、偉大な先人が血の教訓から導き出した価値観だが、低能な人間ほどそれを「差別だ」と否定し、根拠のない妄想を事実のように語りたがる。
お前の主観的な不快感を「社会の構造的欠陥」だと断言するなら、それ相応のデータと論理を持ってくる必要がある。
それができないなら、それは単なる「お気持ち」であり、ノイズだ。自分の認識と客観的な事実の区別がつかない状態を、我々は通常「メタ認知能力が低い」と呼ぶ。それを「男社会の規範のせい」にしたところで、お前の認識の歪みは矯正されない。ノイズを垂れ流しておいて「耳を塞ぐな」と社会に要求するのは、甘えでしかない。
「看板を下ろせ」と言われる理由、それは生存戦略として下策だからだ
元記事は「看板(フェミニスト等の肩書き)を下ろせ」という助言を「痴漢に遭いたくなければ派手な服を着るな」という被害者非難と同一視する。
だが、看板とは、すなわち「私はこういう人間です」という宣言に他ならない。看板は権利ではなくシグナルだ。そして、シグナルには必ず反応が返ってくる。
お前が「フェミニスト」という看板を掲げている時、周囲は「ああ、この人は話が通じない面倒くさい人種だな」と判断して距離を置く。それは差別の結果ではなく、過去のフェミニストたちが積み上げてきた「実績」のたまものだ。
なりたくない人間に似てくるのは、生き方が「無計画」だからだ。
「看板を下ろすな」と喚くのは勝手だが、その看板がもたらす社会的コスト(嫌われる、避けられる、まともに相手にされない)を支払う覚悟がないなら、文句を言う筋合いはない。
コストは払いたくない、でも看板は掲げたい、評価もされたい。そんな虫のいい話が通じるのは、ママの腹の中だけだ。
最大の欺瞞、それは自らの加害性に対する無自覚だ
フィクションを作る自由と、現実の相手に踏み込む自由は別物だ。この区別を崩した側が一番強い顔をしがちだ。
今回、私が最も看過できないのは、元記事の筆者が「腐女子」を自称しながら、男性向け表現を弾圧する側に回っていることだ。
ここには決定的な非対称性がある。
彼女たちは、男性向け表現(萌え絵や美少女ゲーム)を「女性蔑視だ」「性的客体化だ」と叩く一方で、自分たちは男性同性愛をファンタジーとして消費し、時には現実のゲイ男性を搾取してすらいる。
かつての「やおい論争」を思い出せばいい。ゲイ男性からの「差別的表象である」という批判に対し、愛好者側はどう振る舞ったか。批評を拒否し、「これはファンタジーだから」と逃げ込んだのではなかったか。
自分たちは「ファンタジーの自由」を享受し、男性のセクシュアリティを消費する「加害者」の側面を持っているにもかかわらず、男性が自分の欲望のために絵を描くことは許さない。
ポルノと性犯罪の関係についての科学的な知見(相関がない、あるいは負の相関がある)には目もくれず、「私が不快だから」という理由だけで他人の娯楽を焼こうとする。
これは「弱者」の顔をした「略奪者」の論理だ。
自分では何も生み出せず、他人が命がけで作ったパイを「配慮しろ」と喚いて食い荒らす。男性のセクシュアリティを搾取しているという自らの加害性には無自覚なまま、自分が攻撃されたときだけ「被害者」の物語に逃げ込む。
そのダブルスタンダードこそが、最もクリエイターや表現の自由を脅かしているのだ。
物語から醒めて、鏡を見ろ
「わきまえない」だの何だの言っているが、要するに「私の未熟さを社会が受け入れろ」と言っているに過ぎない。
だが、社会は巨大な相互扶助のシステムであり、お前のママではない。
競争に負けたなら、素直に負けを認めろ。能力がないなら、謙虚になれ。 自分の感情の処理もできないなら、他人に迷惑をかけるな。
「わきまえる」というのは、抑圧に従うことではない。
自分の市場価値と、社会における立ち位置を正しく認識する(メタ認知する) ということだ。
それができない人間が、被害者面して「差別だ」「抑圧だ」と騒ぎ立てる。そのコストを払わされているのは、真面目に働いて税金を納めている我々なのだ。
あんまり「呪い」とか「構造」とか、壮大な物語に逃げ込まないことだ。
自分たちの不手際やメタ認知の低さを、社会のせいにする物語で糊塗するのは、もうやめにしたほうがいい。 結局のところ、語られているのは権利ではなく、コストの転嫁なのだから。
物語から醒めて、鏡を見る。鏡に映る等身大の自分を直視すること。本当の「生存戦略」は、そこからしか始まらない。
