見出し画像

私はフェミニストの看板を降ろした──元・連帯の端くれからのトラックバック

私は元フェミニストです。今はもう、そう名乗っていません。

普段の私は、近所でも「声のデカいおばちゃん」として通っています。スーパーで半額シールを待ったり、居酒屋でガハハと笑って世間話をしたり。難しい理屈より、今日の晩ご飯をどうするかのほうが大事な、もうすっかり、どこにでもいる中年女性です。

看板を下ろして久しい人間が、現役で走っている人の話に口を出すのは野暮かもしれません。それに、今の私には外野から点数をつけるような体力も残っていません。

それでも、あなたの書いた二つの記事──特に二本目の「撤回します」という記事を読んで、どうしても反応せずにはいられませんでした。普段なら「また誰かが議論しているわ」と通り過ぎたはずなのに、今回は指が止まりませんでした。

それはあなたが「消えてほしい」という言葉を取り消したからではありません。あなたが、取り消さなかった部分に、目が止まってしまったからです。

あなたは、あれだけ燃えて、ひどいことを言ったと突きつけられても、「私はフェミニストだ」という看板を下ろしませんでした。

矛盾を抱えたまま、欲望を生々しく残したまま、その名前で喋り続けることを選んだ。「きれいな言葉で塗り直して、いい人になりました」という顔をせず、醜さを抱えたまま走ると決めた。そして、記事を消さずに残した。

その姿を見たとき、私は自分がなぜ看板を下ろしたのかを、嫌でも思い出してしまったのです。

昔は私も、あなたのように──いや、今のあなた以上に──大きな声で「正しさ」を叫んでいた時期がありましたから。

私がフェミニストを辞めたのは、考え方が変わったからではありません。続けるための「ガソリン」が切れてしまったからです。

今の私の頭は、こういう比喩しか出てこないくらい散らかっています。でも、散らかったまま書きます。きれいに整える体力も残っていないから。

あなたもこれから思い知ると思いますが、「正しさ」を維持するのは、思想というより、ものすごい重労働なのです。心を使う重労働です。

私がいた場所では、いつしか話の中身よりも、その場を回していくことのほうに、大変な気力が使われるようになっていました。

いつの間にかその界隈を仕切るようになって、顔役みたいになってしまった人が、明らかに筋の通らない理屈を言い出したりする。あるいは、昨日までみんなで「ダメだ」と言っていたことを、身内がやった途端に「あれは仕方ない」とかばい始めたりする。

そんな時、私たちの間に回ってきたのは「どちらが正しいか」なんて話ではありません。「まあまあ、今回はあの人の顔を立ててやってよ」という、根回しの空気でした。

誰の機嫌を損ねないか。誰のメンツを守るか。誰の言葉を「もっともらしい説明」として通して、誰の言葉を「ヒステリックな感情」として片付けるか。そんな根回しが、「配慮」とか「連帯」なんて立派な名前で行われていく。

誤解しないでほしいのは、これは「女の集まりだから」起きたことじゃないってことです。

人が集まって、外から攻撃されて、内側で守りを固めようとすれば、どんな組織でも起きる「悪い癖」みたいなものです。でも、その癖を直すより、合わせるほうが楽になってしまった時、そこで削れていったのは、正義感というより、もっと体の芯にある「反応する体力」のようなものでした。

そうやって内側ですり減った状態でも、世の中の出来事は待ってくれません。

ニュースを見れば、ひどい性差別が流れてくる。職場に行けば、化石のようなおじさんが偏見を撒き散らす。

そのたびに、フェミニストとしての私は「何か言わなくては」となります。怒らないといけない。説明しないといけない。訂正しないといけない。

さらに、あなたのように「味方だと思っていた女性」がひどいことを言えば、それに対しても「ここまではOKで、ここからはダメ」と線を引かないといけない。

毎回、自分の言葉を点検して、波風を予想して、誰が傷つくか考えてビクビクする。

その「チェックリスト」は、真面目にやればやるほど膨れ上がって、ある日、私にはもう抱えきれない重さになってしまったのです。

最近は、何か言い返す前に、胸の奥がギュッと固くなるようになりました。言葉が出るより先に、ため息と疲れが出てしまうのです。もう、今の私には、その怒りを正しく整えて出力する体力がないのです。

そしてもう一つ、私を辞めさせたのは「飽き」です。

どうでもよくなったわけではありません。同じことの繰り返しに、飽きてしまったのです。誰かが失言して燃える。さらに油を注ぐ人が出てくる。かばう人と、叩く人に分かれる。

「勉強して出直せ」というお決まりの文句が飛ぶ。 謝罪があって、その謝罪が何点か採点される。

その流れが、まるで再放送のドラマのように見えてしまったとき、私の心はスッと冷えてしまいました。「またこれか」と。

飽きたと言うと、冷たい人間に聞こえるかもしれません。でも私にとっては、その冷たさが逆に防寒具でした。心を凍らせておかないと、毎日が痛すぎたからです。

でも、本当に苦しいのはここからです。

「飽きた」と思いながら、それでも完全に知らんぷりはできないのです。ひどいニュースを見れば胸は痛むし、変な発言には腹が立つ。けれど、もう声を上げて戦うための元気がない。

「どうでもよくはないのに、体が動かない」

この中途半端な状態というのは、自分が自分を見捨てていくようで、じわじわ自分が嫌いになるものです。私はその罪悪感に耐えられなくて、静かにフェミニストの看板を下ろしました。名乗りを外せば、「もう関係ないし」と言い訳ができるからです。今こうやって大きな声で笑っているのは、その静けさを誤魔化すためかもしれません。

だから、私はあなたを見て、少し怖くなったのですよ。あなたは、私が放り出したその重たい荷物を、もう一回背負い直して走ろうとしているから。「欲望のルール」を作って、点検し続けると書きましたね。

それって、完璧な正義を目指すのではなくて、泥臭く続けていく覚悟を決めたということでしょう。

あなたはまだ走れている。だから書ける。その体力と、矛盾を引き受ける腹の括り方は、素直にすごいと思う反面、見ていて正直ヒヤヒヤもします。

あなたは「女版・強者男性」だったかもしれないなんて書いていましたが、その強さは、誰かを踏みつけるためではなく、自分のカッコ悪さを認めるために使っている。それは尊いけれど、私が逃げ出した火事場に、あなただけが残って火を消そうとしているようにも見えるからです。

ただ、元走者として、一つだけおせっかいを言わせてください。あなたが作ろうとしている「ルール」は、あなたを守る道具にしてくださいね、ということです。真面目な人ほど、ルールで自分を縛りすぎてしまうから。

点検を続けるのは立派ですが、それって自分を燃やし続けることでもあるのです。

もし、いつかそのガソリンが切れる日が来ても。点検することに疲れて、名乗りを下ろす日が来ても。それは「負け」でも「裏切り」でもないのだと、誰かが言っておくべきだと思いました。

走るのをやめることは、逃げたのではなくて、生活を守るためにブレーキを踏んだだけかもしれないからです。

あなたの文章は、スカッとする解決策ではありませんでした。でも、だからこそ、燃えた跡地に残った杭のように、妙に心に刺さりました。ここまでは燃えたけれど、ここから先へは戻らないための印みたいに。

私はもう走りませんが、おせっかいな元走者として、あなたがその杭を打った場所を遠くから覚えておきます。

この記事にはトラックバックが1件ついています


いいなと思ったら応援しよう!