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「消えてほしい」と書いた私へ届いた、二つの声──痛みと支配に、弁明なしで答える──イケメンが好きな醜いフェミニスト

私の書いた『フェミニストなのにイケメン好き?「醜い」矛盾を抱える私の告白』という記事に対し、二つのトラックバックが届いた。

その通知を開いた夜、私の胸の奥は、鉛のような重さに支配された。

ひとつは、「選ばれない側」の身体に残る痛みと、血の味がするような呪詛。

もうひとつは、「選ぶ側」が涼しい顔で人間を配置し、世界を切り分けていく独白。

私はここで、両者の間に入って「どちらが正しいか」を裁く公平な審判を演じるつもりはない。そもそも、その争いの火種を撒いたのは私自身だからだ。

私は自分の身体から出た言葉の責任を、自分の言葉で返すしかない。傷ついた顔も、醜い自尊心も、すべて引き連れて。読者に媚びるきれいな結論ではなく、私の手の汚れを直視することから、この返答を始めたい。

【撤回】「いなくなればいい」という暴力──拒絶の権利を履き違えた私の過ち

まず、何よりも先に言わなければならないことがある。

私は前回の記事で、好みではない男性(いわゆるブサメン)に対し、「いなくなればいいのに」「惨めに暮らしていてほしい」と書いた。

この言葉を、撤回する。

私はあれを、「好かれたくない相手に愛想笑いをする義務はない」という拒絶の権利を表現するための、いささか過激な比喩のつもりで書いた。けれど、それは間違いだった。あれは境界線を引く言葉ではなく、他者の生存そのものを否定する言葉だった。

「どこか遠くで見えないように生きていてほしい」という願望は、歴史上、あらゆる差別者がマイノリティに向けて放ってきた言葉そのものだ。私はフェミニストとして、女性が「産む機械」や「性的対象」という属性に還元されることに怒ってきたはずなのに、私自身が他者を「視界に入る異物」という属性に押し込め、人間としての尊厳を踏み潰していた。

私が誰を愛し、誰を拒むかは私の自由だ。けれど、その自由は、誰かの存在を「消えてほしい」と呪う権利まで私に与えてはいない。

私は、フェミニスト・キルジョイ(場をしらけさせるフェミニスト)でありたかった。けれど、私がやったことは権力への抵抗ではなく、単なる言葉の暴力だった。その事実を認め、謝罪する。

「アクセス可能なイケメン」という自尊心──社会学用語で隠蔽した「選ぶ側」の傲慢

一つ目のトラックバックの書き手である「中年ブサメン」氏は、私の「アクセス可能なイケメン」という表現を執拗に突き、「成功者に選ばれないお前の劣等感だ」と指摘した。

図星かどうかをここで競う気はない。ただ、認めざるを得ないのは、私があの言葉を使ったとき、そこには確実に「自分を賢く見せたい」という浅ましい自尊心があったことだ。

私は、自分の「イケメン好き」というただの俗っぽい欲望を、「搾取の構造」や「資本の不一致」といった社会学的な用語でラッピングすることで、高尚なものに見せようとした。選ばれない悔しさや、満たされない空虚さを、分析的なポーズで隠そうとしたのだ。

あなたの吐き気は、私のその「透けて見える欺瞞」に向けられたものだろう。その感覚は正しい。私は、自分の欲望を正当化するために、言葉という化粧を厚塗りしていたのだから。

「死」を人質にする対話の破壊──被害者性を武器に変える「脅迫」への明確な拒絶

あなたの文章に溢れていた「号泣した」という痛みを、私は「キモい」と笑って終わらせたくはない。

ルッキズム(外見至上主義)の刃が、女性だけでなく男性にも向けられていることは事実だ。「男は中身」と言われながら、現実には容姿や年収で残酷に序列づけられ、そこから弾かれた人間が透明な存在として扱われる。その孤独と絶望が、どれほど骨身を削るものか。

私が「男の歴史的加害」を語るとき、その「男」という大きな主語の中に、あなたのような個人の痛みが巻き込まれ、無視されてきたことも否定しない。

しかし、私はあなたに対して、一歩も引かずに指摘しなければならないことがある。

あなたは文章の中で、「殺意が湧いた」「死にたくなった」「ブサメンの死体の山」といった、極めて強い言葉を使った。

あなたがどのような意図でそれを書いたのか、私には判断できない。本当に耐え難い苦痛の叫びだったのかもしれない。

だが、少なくとも私にとって、その言葉は「対話を閉ざす圧力」として機能した。

「俺たちが死んだらお前のせいだ」「お前の言葉が引き金になる」という示唆は、議論の相手に対し、反論や思考を停止させる強力なブレーキとなる。生存そのものを人質に取られた状態では、どんな言葉も届かなくなるからだ。

私が前回の記事で「消えてほしい」と書いたことが、あなたの存在を否定する暴力だったように、あなたが「死」をちらつかせて私の言葉を封じようとすることもまた、対話を破壊する行為だ。

私はあなたの孤独や痛みは認める。だが、恐怖や罪悪感によって口をつぐませるようなコミュニケーションには、明確に線を引く。それは「被害者の叫び」を超えた、別の力が働いているからだ。

「俺たちを愛せ」「俺たちのために黙れ」というのは、承認への渇望であっても、政治的な正義ではない。私はあなたの救急箱にはなれないし、女性が男性の痛みをケアする義務を負ういわれもない。

私たちは、互いに傷ついている。けれど、その傷を癒やすために、相手をサンドバッグにしたり、「私が死んだらどうするんだ」という究極のカードを切ったりしてはいけないのだ。

そして、もしあなたが今、本当に「死」を考えるほど追い詰められているのなら、私への反論やネット上の議論にエネルギーを費やすのではなく、現実の専門的な支援や相談窓口につながってほしい。

これは論争から逃げるための言葉ではなく、互いの生存を守るための、最低限のラインだ。

強者男性という「鏡」への戦慄──私たちは同じ「怪物」だったのか

二つ目のトラックバック、「既婚強者男性」の記事を読んだとき、私の中に走ったのは吐き気ではなかった。もっと恐ろしい、鏡を覗き込んだときのような戦慄だった。

あなたは、高出力な男の身体の「仕様」として性欲を語り、妻を「聖域」、その他の女性を「排熱処理」のための「部品」として配置すると書いた。

私はその冷徹な論理を読んだ瞬間、気づいてしまった。

あなたが女性に対して行っていることと、私がイケメンに対して行っていることは、他者を自分の快楽のための「リソース」として見なし、都合よく消費するという点において、構造的に酷似していると。

「自分は構造的弱者である女性だから、多少の欲望の暴走は許される」。心のどこかでそう甘えていた私を、あなたは「強者男性」という視点から見透かした。私はフェミニストの顔をした、ただの「女版・強者男性」だったのかもしれない。

「仕様」という免罪符──欲望の暴走を「自然現象」に偽装する欺瞞

しかし、私たちが同じ怪物だとしても、私はあなたの論理を「正しい」とは認めない。そこには決定的な欺瞞があるからだ。

あなたは性欲や支配欲をエンジンの「仕様」と呼び、自然現象のように語った。

だが、湧き上がる衝動が「仕様」だとしても、目の前の人間を「部品」と名づけ、使い捨てていいと判断するのは、あなたの「選択」だ。

あなたは「仕様」という言葉を免罪符にして、自身が他者をモノ化しているという倫理的な選択から目を逸らしている。

沈黙という「コストの外部化」──圧倒的な非対称性の上に立つ「完璧な地獄」

そして何より、あなたと私の間には、決定的な「非対称性」がある。

あなたは社会的地位、経済力、そして「聖域」としての家庭という強固な安全地帯を持っている。あなたが「黙って処理」することで守られるのは、その盤石な基盤だ。一方で、あなたが「部品」として扱った女性たちが負うリスクや痛みは、あなたのそれとは比べ物にならないほど大きい。

私もイケメンを消費した。その罪はある。だが、そこにある権力勾配と、相手に与える損害の構造的な深さは、あなたのそれとは異なる。

あなたが「ボヤ騒ぎ」と呼ぶものは、あなたが支払わなかったコストが、弱い立場の人間のもとで燃え上がっている炎そのものなのだ。

私は、あなたと同じ怪物かもしれない。けれど、その特権の上にあぐらをかき、搾取をシステム化して「これが大人の責任だ」と居直るような人間にだけはなりたくない。

あなたの論理は完璧に見える。けれど、その完璧さは、圧倒的な非対称性の上に成り立っている。私はその「完璧な地獄」を拒否する。

「女版・強者男性」としての絶望──弱者の死体の上で踊っていた「賢い捕食者」

二つの文章を読み終えて、私は徹底的に打ちのめされている。

一方からは、私が踏みつけた「弱者」の痛みを突きつけられ、もう一方からは、私がなりたがっていた「強者」の醜悪な完成形を見せつけられた。

私は「かわいそうな被害者」でもなければ、「高潔な正義の味方」でもなかった。

私は、弱者男性の死体の上に立ち、強者男性の真似事をして「いい気になっていた」だけの、中途半端で愚かなプレイヤーだったのだ。

私が「醜いフェミニスト」と自称したとき、そこにはまだ「そうは言っても、私は正しい側だ」という傲りがあった。

けれど、もうそんな逃げ場はない。

本当に直視すべき醜さは、イケメンが好きだとかブサメンが嫌いだとか、そんなレベルの話ではなかった。

無自覚に他者を「道具」として扱い、それを正当化する論理を組み立ててしまう、私自身の「強者男性的な精神」こそが、最も醜い敵だったのだ。

「醜さ」を刃物にしないために──欲望の倫理を再構築する、私の新しい運用ルール

私はこれからも、イケメンが好きでい続けるだろう。好みではない視線に、生理的な恐怖を感じることもあるだろう。私の身体や欲望は、急には清廉潔白にはならない。

けれども、その欲望を守るために、他者を言葉で殺すことだけはやめる。そして、自分の欲望を「仕様」と呼んで居直ることもしない。

これからは、拒絶するときは短く、理由を相手の属性に求めず、ただ「No」と言う。

「ブサメン」のような侮辱的な言葉を、安易な嘲笑の道具として使わない。

自分の欲望を語るとき、それが誰かの尊厳を削っていないか、常に点検する。

私はあなた(弱者男性)を救えないし、あなた(強者男性)のように「賢く」振る舞うこともできない。

けれど、私たちが互いに人間を「値札」や「機能」でしか見られないこの巨大な「格付けゲーム」から、降りる道はあるはずだ。

私は、フェミニズムを「男を叩くための棍棒」にするのではなく、「私があなたのような怪物にならないための、最後の命綱」として、もう一度握り直したい。

私はまだ醜い。矛盾だらけだ。

けれど、もうその醜さを、誰かを傷つけるための刃物にはしない。

ここから先は、「欲望の政治」ではなく、もっと切実で個人的な「欲望の倫理」について、逃げずに考えていこうと思う。

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