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司祭のトラックバック:人を手段にしないために

教会の外で、震えている姉妹たちへ

はじめまして。私はカトリック教会で司祭として働いている者です。インターネットという広大な海の中で、姉妹たちのあまりにも切実で、血の滲むような叫びに出会い、どうしても祈らずにはいられなくなりました。

正義と欲望の間で引き裂かれている姉妹。冷たい世界の仕組みを見つめ、絶望しかけている姉妹。そして、今まさに暗闇の中で息ができず、もがいている小さな姉妹。

姉妹たちの文章を読みながら、私は何度も胸が塞がる思いがいたしました。そこには、誰かを傷つけたくないのに傷つけてしまう痛み、自分を大切にしたいのに粗末に扱われてしまう悲しみが、涙のように溢れていたからです。私は、高い場所から教えを説くために来たのではありません。同じ時代を生き、同じ弱さを抱えた一人の人間として、姉妹の隣に座らせてください。

1. 葛藤する姉妹へ:その知性と渇きは、真理への入り口です

まず、フェミニストとして、正義という理念と、抑えがたい欲望の間で引き裂かれている姉妹へ。「イケメンが好きだ」という審美的な選好と、「人を差別したくない」という倫理的な要請。その二つの命題の矛盾に正面から向き合い、ご自身の醜ささえも直視しようとするその真摯な姿に、私は心を打たれました。

私はあなたの専門とされる分野については、一人の初学者に過ぎません。あなたがどのような理論で武装し、どのような文脈で戦ってこられたのか、そのすべてを理解することはできないでしょう。しかし、一人の人間が自身の内なる「欲望(エロス)」と「正義」の相克に苦しむ姿は、いつの時代も変わらぬ、魂の普遍的なテーマです。

どうか、ご自身を断罪しないでください。あなたが美に惹かれ、愛を渇望し、満たされたいと願うその力は、決して罪ではありません。それは神が人に与えた根源的な生命力であり、私たちが「善」へと向かうための原動力でもあります。その渇きを否定してしまえば、人の心は枯れ果ててしまうでしょう。

問題は、その炎が制御を失うとき、私たちが他者を「愛する対象」としてではなく、自己充足のための「消費財」として扱ってしまうという危険性です。「消費する」「視界から消す」。あなたは、その非人間的な力学がご自身の内側にも作動していることに戦慄し、それを食い止めようとされている。その苦闘は、魂の浄化(カタルシス)を求める祈りの姿そのものです。

私たちカトリック教会では、欲望を消滅させることは求めません。求められるのは、選ぶ時も拒む時も、相手を「物」にしない自由を守ることです。相手を「物」にしないというのは、無理に好きになるという意味ではありません。相手の存在を、自分の快不快のために「消費財」や「ゴミ」として扱わない、ということです。

聖書の中に、サマリアの井戸のほとりでイエスと出会った女性の話があります。彼女は5人の夫を持ちながらも心満たされず、社会的な視線を避けて生きていました。しかしイエスは、彼女の倫理的な乱れを断罪するのではなく、彼女を高度な神学的対話のパートナーとして選ばれました。彼女もまた、イエスに対し「礼拝の本質とは何か」という根源的な問いを投げかけます。イエスは、彼女の底なしの「渇き」を見抜き、汲んでも尽きることのない「生きた水」について説かれました。

あなたの抱える「渇き」と、社会の欺瞞を見抜く鋭い「知性」。その両方を、神様は決して否定なさいません。あなたのその葛藤は、あなたが真実の愛を探し求めている証のように、私には見えます。矛盾を抱えたまま、なお尊厳ある生を模索するその歩みを、私は心から尊いと思います。

2. 分析する姉妹へ:観察者を超えて、隣人となるために

次に、進化心理学や霊長類学の視座から、人間の業を冷静に解剖してみせた姉妹へ。「倫理学は、霊長類的な『強者の支配』というデフォルト設定にバグを起こさせる技術である」。その鋭利な洞察に、私は一人の信仰者として、ただただ圧倒されました。幻想に逃げ込まず、冷厳な事実(ファクト)を直視し、それでもなお「倫理」という対抗手段を手放すまいとするあなたの姿勢。その知性の輝きは、私のような者が安易に言葉を重ねることを躊躇わせるほどです。

教会は、理性を信仰の敵とは見なしません。しかし、あなたの知性が到達したその「絶望的なまでの人間の限界」の先には、もう論理だけでは越えられない壁があるようにも見受けられます。世界を説明し尽くしたとしても、なお残る「なぜ、私たちは利己的な遺伝子に逆らってまで、他者を愛そうとするのか」という問い。

あなたが積み上げた、今なお積み上げている論理の塔の上に、私は司祭として、ただ一つ「信仰」と「愛(カリタス)」という名の非合理な灯火を置かせてください。

あなたがよくご存じの、「善きサマリア人」のたとえ話があります。あの物語において、瀕死の旅人を「見捨てた」祭司やレビ人たちは、決して冷酷な悪人ではありませんでした。彼らは当時の宗教的・社会的な構造(穢れの規定や儀礼的義務)に従い、自身の属するコミュニティの規範の中で「合理的」に振る舞ったに過ぎません。対して、手を差し伸べたのは、社会構造の外側にいた「サマリア人」でした。彼は、属性や計算を超えて、目の前の「個」の痛みに応答しました。そこで起きたのは、説明ではなく「立ち止まる自由」の行使でした。

あなたは、そのメカニズムを誰よりも深く理解しておられます。構造の檻がいかに堅牢かを知っておられる。だからこそ、私はあなたを深く尊敬し、祈りを込めて呼びかけたいのです。「所詮はサルだ」という諦念の重力に抗い、あえて不合理な「隣人」となること。論理的な帰結を超えて、傷ついた誰かに触れること。その困難な一歩を踏み出すための勇気は、もはや分析からは生まれません。それは、あなたが「人間」であろうとする意志、すなわち愛からしか生まれないのです。

3. 暗闇で泣いている、小さな姉妹へ

そして、女子大生の姉妹へ。あなたの書いたものを読んだとき、私は胸が締め付けられる思いがしました。そこにあったのは、難しい議論ではなくて、「生きたい」という、あなたの命の叫び声だったからです。

お金がない。身体が痛い。心が寒い。その繰り返しの中で、あなたがどれだけ一人ぼっちで泣いてきたか。どれだけ自分を「汚い」と思って、どれだけ自分をいじめてきたか。あなたの痛みを思うと、私も涙が出そうです。

けれど、これだけは信じてください。あなたは、決して「汚く」なんてありません。あなたは、神様がつくられた、世界にたった一人しかいない、とっても大切な、かけがえのない宝物なんです。

あなたが自分のことを「汚れている」と感じてしまうのは、あなたをそこへ追いやって、モノのように使い捨てにするこの世界が、あまりにも冷たいからです。その泥が、あなたの心にはねているだけなんですよ。

教会が「身体を売ってはいけないよ」と言うのは、あなたを叱るためではありません。絶対に違います。あなたの大切な心と身体が、商品として扱われて、傷つけられることが、たまらなく悲しいからです。あなたを守りたいからです。悪いのは、あなたを買う人たちであり、あなたがそこまで追い詰められるのを見過ごしている、私たち大人の責任です。私たちがしっかりしていないから、あなたを苦しめてしまっているんです。本当にごめんなさい。

聖書の中に、こんな女性の話があります。彼女は12年間も出血が止まらない病気で苦しんでいました。持っていたお金をすべて使い果たし、孤独の中にいました。でも彼女は、人混みの中でこっそりとイエス様に近づき、後ろからその服の房に触れました。「この方に触れさえすれば、治してもらえる」と信じて。その瞬間、彼女の病気は癒やされました。イエス様は彼女を見つけ出すと、怒るどころか、優しくこう言われました。「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」

ホストクラブに行くと「息ができる」って、あなたは言いましたね。その気持ち、私は決して笑ったりしません。人は誰だって、「一人の女の子」として大切に優しくされたいものです。そうされないと、生きていけません。たとえそれが、お金を払う場所だったとしても、そこであなたが「ホッとした」のなら、それはあなたの心がまだ「生きたい」「愛されたい」って叫んでいる証拠なんです。

でも、お願いです。あなたが自分を傷つけずに、ただそこにいるだけで「生きてていいんだよ」って言ってもらえる場所を、一緒に探したいんです。「お祈りしてます」だけじゃ、お腹はいっぱいにならないことも分かっています。私たち大人が、あなたが身体を売らなくてもご飯が食べられて、温かいお布団で眠れて、安心して帰れるお家を用意しなきゃいけないんです。それができていなくて、本当にごめんなさい。

もし今夜、言葉が出ないなら、無理にお祈りの言葉なんて探さなくていいんです。「寒い」「今日はもう無理だ」「助けが要る」。そんな短い言葉だけでいい。それだけで、神様にはちゃんと届いています。あなたは一人ぼっちじゃありません。

姉妹たちへ:傷ついたままでいい、一緒に歩きましょう

フェミニストの姉妹。真実を探す姉妹。そして、懸命に生きる小さな姉妹。 あなたたちの声は、それぞれ違っているようで、奥底では同じ叫びをあげているように聞こえます。「私をモノとして扱わないで」「私を一人の人間として大切にして」という、魂の叫びです。

私は、その苦しみを、きれいな言葉で解決しようとは思いません。解決などできないほど、あなたたちの傷は深いからです。ただ、司祭として、暗闇の中で小さな灯火を掲げ続けたいと思います。「誰も道具ではない。あなたも、私も、かけがえのない大切な存在だ」という灯火です。

ここから先の道も、まだ暗く、険しいかもしれません。それでも、私たちが互いを踏みつけにするのではなく、弱さを抱えたまま、互いに肩を寄せ合って歩いていけるように。

私は教会の中から、あるいは教会の外へ出て、あなたたちの涙がいつか乾くその日まで、祈り、働き続けたいと思います。

今夜は、祭壇の前であなたたちのために静かに祈ります。そして明日は、もしあなたが助けを求めてここに来たなら、温かいお茶と、安心できる椅子を用意して待っています。それが、私にできる精一杯の「現実」だからです。

神様の温かい手が、今夜、傷ついたあなたたちの心を優しく包み込みますように。

追記:届きますように

インターネットの流儀には不慣れですが、こうした「タグ」というものを添えることで、必要としている方の目に留まりやすくなると教わりました。この言葉が、迷いの中にいる誰かの灯火となりますように。

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