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欲望は「仕様」であり、格差は「前提」である──強者男性から見た、冷徹と沈黙のトラックバック

既婚「強者男性」の視座によるフェミニズム診断──階層構造とルッキズムの真実

自分の欲望をどのような言葉で語るか。

その言葉選びひとつにおいて、語り手が社会構造のどの階層(レイヤー)に属しているかが、本人の意図を超え、残酷なほど鮮明に透けてしまうものだな、というのがこの記事を読んで感じた、一番最初の感想でした。

私はいわゆる「強者男性」に分類される側で生きてきました。

若い頃から、知人から紹介される女性の容姿に驚くようなことはありませんでしたし、現在は万人が認めざるを得ない美貌の妻が家にいます。

仕事終わりに顔を出す場所でも、それなりに整った女性たちが向こうから歩み寄ってきますから、「綺麗だから特別」という感覚はとっくに摩耗して久しいのです。

一方で、世間の採点表では評価されないような身体を、あえて求めた夜も数えきれません。

こうした立場から「イケメンが好きな醜いフェミニスト」という記事を読むと、共感できる部分と、どうしても見過ごせない部分が、残酷なほどの対比を描いていました。

女性を外見で選別してきた男性社会への怒りは理解できますし、「理論では平等を望みながら、本能では顔で選んでしまう」という告白にも一定の誠実さを感じます。

しかし、自身のブサメン嫌悪を政治的な言葉で正当化し、「醜いフェミニスト」と自称する彼女の立ち位置からは、私たちのような人種の身体感覚や、別の階層に沈黙する女性たちの存在が、完全に欠落しているように見受けられたのです。

生物学的「仕様」としての性欲──高出力エリートにおける排熱処理という宿命

欲望が意思の統制外で駆動する感覚。高出力の身体を持つ者にとっては、ある種の前提条件のようなものです。

まだ街が寝静まっている早朝に激しいトレーニングで身体を叩き起こし、そのまま連続する会議や交渉に身を投じ、夜は会食で酒を飲み、日付が変わる頃にようやく自室に戻る。過酷な日々を何年も続けていると、他人が「今日は疲れたからもう帰る」と口にする時間帯から、自分の一日の「後半戦」が始まるのが日常となります。

私たちのような人種にとって、仕事の成果による高揚感と、異性を求める渇望は、別の話ではありません。同じ回路を走る電流の、強度が違うだけのこと。

数字マネーが動き、人が動き、脳が熱を帯びたまま夜を迎えると、生じた熱アドレナリンをどこかへ逃がさなければ眠りの質が落ちます。翌日の集中力にも障る。労働の対価として性を求めているというよりは、一定の頻度で肌を重ねなければ、エンジンの回転に狂いが生じてしまう。これはメンテナンスであり、高回転で走り続けるための「排熱処理」にほかならないのです。

この身体感覚からすれば、「男が女性を容姿で選別してきた」という批判は、理屈としては理解できます。私も若くて魅力的な女性には強く反応しますし、それが不公平だという指摘も否定はしません。しかし、明日から急に欲望の照準を別の場所へ移せと命じられても、土台無理な話です。フェミニズムの文献を読み、差別的な発言を慎むことはできても、朝目覚めた瞬間の性衝動の強さや、ふとした瞬間に目で追ってしまう対象を変えることは不可能です。

筆者は自らの矛盾を、「醜いフェミニスト」というレッテルを貼ることで引き受けようとしています。対してこちらは、自己の矛盾を飾ることなく「仕様」として受け入れ、いかに処理するかだけを考えてきました。一人の人間に全出力を向ければ関係が破綻することは経験済みですし、かといって禁欲を続ければ、内側から別の粗暴さが鎌首をもたげます。その狭間で、誰とどの程度の距離感を保つべきかを、疲弊しない範囲で調整し続けるしかない。それが偽らざる実感です。

言葉にすれば「頑張りすぎだ」と鼻で笑われるだけですから、わざわざ口に出すこともしませんが。

不可視の階層──選別される女たちの明確な序列

選ぶ側に立つ男の目には、男同士の競争と同じくらい、女同士の格差も残酷なほど鮮明に見えてしまいます。

会食の席で、似た肩書と能力を持つ女性が二人並んでいる場面を想像してください。片方には名刺交換の後で自然に連絡先を聞きたがる男が集まり、もう片方には資料の確認以外ほとんど話が振られない。同じだけ働き、同じように成果を出していても、「隣にいてほしい」と思われる女と、空気のように扱われる女の差は、顔立ちだけでなく、声のトーン、笑うタイミング、肩の力の抜き方といった細部に刻まれていきます。認めがたい事実かもしれませんが、ほんの一瞬、小さな所作の繰り返しに、その後の人生の差が凝縮されているように見えることすらあります。

そのうえで、「イケメンと遊べる女」という位置をどう捉えるかが、筆者と私とで決定的に異なっていると感じました。彼女はその場所を、女として上位のポジションだとみなしているようです。しかし、こちら側から俯瞰すると、彼女たちが興じるゲームは全く別の、はるかに低い階層で行われている印象しかありません。

私の生活圏で日常的に顔を合わせる女たちは、わざわざ「イケメンと遊びたい」などと口にしません。仕事や縁を通じて、そこそこ整った男と会食をし、ベッドに入り、また別の予定に向かう。そうした流れは、特別な出来事ではなく一週間の予定表の一行に過ぎません。さらに、誰と長く過ごすかを顔以外の要素で決めています。

こうした世界に長く身を置いていると、「イケメンと遊べること」自体を誇りにする態度は、まだ抽選会の途中で番号札を握りしめている姿のように見えてなりません。列の先にいかなる会場が広がっているかを知らないまま、手元の数字だけを大事にしているような光景です。

事実を告げれば、その番号札が呼ばれることは永遠にありません。なぜなら、真の会場への扉はとうに閉ざされ、中ではすでに「本物」たちによる宴が始まっているからです。

彼女たちが頂点だと信じている「イケメンとの火遊び」は、閉ざされた会場の外で、入場を許されなかった者同士が慰め合うための余興に過ぎません。強者男性の視界の外で、地位も資産もない二軍の男たち──いわゆる「アクセス可能なイケメン」──と、翌日には何も残らない消耗戦を繰り返している。これが、ガラスの向こう側に見える彼女たちの真実です。

彼女たちが「イケメン」と呼んでありがたがっている男たちは、私たちの基準からすれば、顔の造作が整っているだけの「持たざる者」でしかありません。将来性も資産もなく、ただ若さと顔面偏差値だけを武器に、中間層の女性たちの承認欲求を満たすことで食いつないでいる。その空虚なエコシステムは、私たちとは交わることのない閉じた円環の中で完結しているのです。

私はその界隈とほとんど接点がありません。意識的に避けているというより、生活の導線が交わらないのです。顔ぶれがある水準以上で固定されてくると、眼下の階層で起きている選別と争いは、まるで厚い防音ガラスの向こう側にある景色のように、音もなく遠ざかっていくのです。

「聖域」と「機能」──妻と愛人の配置学

私の妻は、誰が見ても美しい人です。顔の造作だけでなく、立ち姿や声の落ち着きも含めて、会食やパーティーに連れ出せば、その場にいる人間の視線が一度だけそちらに流れるのがわかります。

彼女は声を荒げず、媚びず、余計な愛想も振りまきません。店員への些細な会釈ひとつにも、育ちの良さと揺るぎない自信が滲み出る。だからこそ、周囲は自然と彼女に敬意を払い、道を空けるのです。私にとって彼女は、能力を心から信頼できる唯一の相棒であり、外の世界での競争ですり減った自分を叱咤し、整え直してくれる、代わりの利かない「聖域(サンクチュアリ)」です。彼女は私の人生の成果そのものであり、社会に向けた最強のカードでもあります。

一方で、外で抱いてきた女たちは、まったく違う場所にいます。他人の採点表にはまず載らないような容姿で、名前を出しても誰も顔を思い浮かべないタイプの女たちです。鏡の前で細部を整えるより、さっさとシャワーを浴びてこちらの腰に跨ってくるような相手です。

そこに敬意や物語は必要ありません。彼女たちは、こちらの高出力エンジンの排熱処理を受け持つ「部品」として、その夜にだけ組み込まれ、朝になれば元の生活に戻っていきます。連絡先を消したとしても、こちらの生活には何の影響もない。所詮、その程度の重さしかない関係です。

妻に対して同じ扱いは決してできません。彼女に全出力をぶつければ壊してしまうし、何よりこちらの側の敬意がそれを許さない。

妻のような位置にいる女性は、数自体が極めて少ない。彼女たちは「イケメンと遊べる」などとは決して言いません。言うまでもなく、遊べる相手の顔ぶれのほうが先に決まっているからです。「選ぶ・選ばれる」という次元をとうに超え、ただそこに在るだけで全てを手にしている。

この両極を知っている立場から読むと、「イケメンが好きな醜いフェミニスト」という語りは、世界のごく一部だけを拡大したものに見えます。筆者が「世界中のフェミニストが、イケメンへの欲望と矛盾を吐露している」と書くとき、その輪の外側には別の沈黙が広がっています。

イケメンに相手にされることもなく、ブサメンからの好意すら向けられない女。恋愛どころではなく、毎月の支払いだけで手一杯の女。そして何より、下界の騒ぎを視界の端で眺めながら、自分の生活を一切変えない妻のような「本物」の女たち。

「イケメンが好きな醜いフェミニスト」と名乗る舞台に、彼女たちは最初から招かれていません。選ばれる側の中腹だけで世界を語るとき、輪の外にいる人間たちは、最初から存在しないものとして扱われる。この断絶こそが、強者男性の目から見た世界の前提なのだと思いますし、フェミニストが直視を恐れている部分だとも思うのです。

構造的搾取とノブレス・オブリージュ──管理区域内のボヤ騒ぎとしてのフェミニズム

彼女の記事は、男性社会の醜悪さが構造に染み込んでいることを、鋭く掬い上げていました。暴力、不可視化される家事、賃金格差。女性たちが怒りを抱くのは当然でしょう。

ただ、私たちのような人種からすれば、彼女たちの怒りはどこか「管理区域内でのボヤ騒ぎ」のように映ります。システムを回す側にとって、社会的な不均衡は修正すべきバグであると同時に、構造を維持するためのコストでもあるからです。

高エネルギーな男の身体は、善悪の判断よりも先に回転を始めます。その排熱処理に巻き込まれて誰かが火傷を負ったとしても、エンジンの回転を止める理由にはなり得ません。

過去の関係の一部は、どちらの名前も表に出せませんし、家にいる人にも、外で会ってきた誰かにも、それぞれの役割を与えています。何がどうだったかを丁寧に説明しようとすればするほど、徒に傷を増やすだけだと知っているからです。だから私は、黙って配置し、黙って処理する。それこそが、力を持つ者の「責任」の取り方だと信じているからです。

筆者は、自分の欲望を政治的な言葉に変換することで救われたと記していました。

しかし、本当に重い沈黙は、彼女たちが代弁する弱者と、彼女たちが決して届かぬ高みにいる「女神」たちの口元にあります。その両極の沈黙に挟まれた場所で、自分たちの権利だけを叫ぶ声は、どうしても軽く響くのです。

彼女のテキストが照らし出した部分と、そこからこぼれ落ちた、私たちの制御下にある沈黙。この対比こそに、世界の真の姿があるのかもしれません。

「システム側」からの独白──思想(フェミニズム)と仕様(本能)の狭間にある真実

本稿は、フェミニズムを論破するためのものではありません。

強者男性と呼ばれる側の身体がどう動き、その視線から女同士の格差がどう見えているかを、彼女の露悪的な文章にあえて重ねる形で記した、一つの記録です。家で迎えてくれる妻の整った横顔と、誰にも自慢することなく抱いてきた身体の感触。その双方を知る人間が、それでも自分の欲望を完全には語らぬまま年を重ねているという事実も含めて、残しておきたいのです。

筆者が自分を「醜いフェミニスト反逆者」と呼ぶなら、こちらもまた「都合の良い強者男性体制側」として、自身の矛盾を引き受けるしかありません。欲望を思想で包み直す彼女の手法と、仕様として処理するこちらの手法。両者の間にあるズレこそが、本稿の本質です。

どちらが正しいかを決めたいわけではありません。ただ、片方だけを「真実」として語る時、そこからこぼれ落ちる人間が必ずいる。その事実だけは、書き留めておきたいと思うのです。

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