イケメンが好きな醜いフェミニスト──欲望と正義の間の人間讃歌
一部主張を撤回するが、この記事はそのまま残しておくこととする。
フェミニストなのにイケメン好き?「醜い」矛盾を抱える私の告白
私はフェミニストだ。けれど、清廉潔白で、あらゆる人間に等しく愛を注ぐ聖女のようなフェミニストではない。私は、顔の良い男──いわゆる「イケメン」が好きで、そうでない男には極めて冷淡な、実に、どうしようもなく「醜い」フェミニストだ。
こう宣言すると、眉をひそめる人もきっといるだろう。フェミニズムとは、外見による差別やルッキズムに反対するものではなかったか、と。
その通りだ。理論の上では、私は自分の主張と矛盾している。だが、私がフェミニズムに惹かれた出発点は、教科書的な博愛精神なんかではない。もっとドロドロとした、私自身の生きづらさと、利己的な欲望を肯定したいという、あまりに切実な願いだった。
私は自分のこの矛盾を「醜い」と呼ぶ。だがそれは自己卑下ではない。むしろ、理念だけで構築された張りボテの正義よりも、欲望に振り回される生身の人間らしさを信頼しているからこその呼び名だ。
だから私は、私の醜さを誇りを持って直視することから始めたい。

【本音】イケメン偏愛とブサメン嫌悪――私の中にある「残酷な選民思想」
誤解を恐れずに言えば、私の本音はこうだ。「イケメンとだけ楽しく遊んで暮らしたい。ブサメンは私の視界に入らないところで、勝手に、しかし惨めに暮らしていてほしい」。
美しい造形の男とふいに視線が絡み、言葉を交わす瞬間の、あの目眩めくような高揚感は何なのだろう。
視覚から入った快楽は脳髄を直撃し、ドーパミンがとめどなく溢れ出すのがわかる。彼がただ微笑むだけで、自分が全肯定されたような、世界が急に色鮮やかになるような強烈な錯覚。
その時、私の身体は物理的に軽くなり、彼に対してなら無限に寛容になれるし、聖母のように優しくもなれる。
そこにあるのは、理屈を超えた「優れた遺伝子」と時間を共有しているという、動物的な誇らしさと、震えるような歓喜だ。
一方で、好みの範疇にない男性、いわゆる「ブサメン」から向けられる好意や、単なる視線すらもが、私には耐え難い重荷だ。「中身を見てほしい」という彼らの無言の圧力を肌で感じるたび、背筋が粟立つような、生理的な拒絶が走る。
私はその喉元まで出かかった嘔吐感を必死に飲み込み、社会的なマナーという薄皮一枚で笑顔を作る。その徒労感といったら。
なぜ私は、視界に入れることさえ苦痛な相手に対し、善人ぶって愛想を振りまかなければならないのか。
ふとした瞬間、自分でも信じられないほど暴力的な願いが、頭をよぎることがある。
「いなくなればいいのに」。
彼らが私の世界から消滅し、どこか遠くの見えない場所で、私の幸福とは無縁に惨めに生きていてくれれば、私はこんな罪悪感も疲労も感じなくて済むのに。
そんな思考が浮かんだ瞬間、私は自分の中にある深い残酷さに、我ながらぎょっとする。だが、その残酷さは確かにそこにあり、消そうとしても消えないほど根深く、私の身体にこびりついているのだ。

男性の醜さは「社会制度」だった──フェミニズムが告発する構造的優位
もちろん、残酷なのは私だけではない。歴史を振り返れば、男性の「醜さ」は個人の内心にとどまらず、社会制度そのものに組み込まれてきた。
ニュースで流れる性暴力、データが突きつける賃金格差、当たり前のように押し付けられる家事育児。これらは「一部の悪い男」の仕業ではなく、男性という性が社会的な優位性を維持するために、長い時間をかけて構築してきたシステムだ。
男たちは、女性を若さや容姿で値踏みし、選別し、消費してきた。その「醜さ」は、文化や慣習という名のオブラートに包まれ、あたかも自然の摂理であるかのように振る舞っている。
フェミニズムが怒りを向けてきたのは、まさにこの制度化された醜さだ。
「男の醜さは、すでに社会のあちこちに刻まれている」。その感覚は正しい。私が男性に対して抱く警戒心や、時に攻撃的になる感情は、この不均衡な環境を生き抜くための防衛本能でもある。
私のイケメン偏愛とブサメン嫌悪も、無菌室で育ったわけではない。男たちが女性を容姿で選別し、ランク付けしてきたのと同じ冷酷なゲーム盤の上で、私もまた、歪んだプレイヤーとして育て上げられたのだ。

イケメンは社会の強者か?「顔はいいが金はない」男と遊ぶ搾取の構造
けれど、ここで一度立ち止まり、冷えた頭で考えてみる。私が「遊んで暮らしたい」と願うイケメンたちは、果たして社会的な強者なのだろうか?
労働経済学の分野では、確かに「ビューティー・プレミアム」という言葉がある。容姿が優れている人が、採用や賃金において有利な扱いを受ける現象のことだ。
これだけ聞けば、イケメンは社会の勝ち組で、私は勝ち組に尻尾を振る権威主義者のように思える。
だが、肌感覚としての実感は少し違う。
私が実際に親しくなり、関係を持つ「アクセス可能なイケメン」たちは、必ずしも高収入なエリートではない。
非正規雇用だったり、夢を追うフリーターだったりと、経済的な基盤は脆弱なことが多い。彼らは「顔」という強力な資本は持っているが、それ以外の社会的リソース(安定した職、高い年収、社会的地位)からは疎外されている場合がある。
社会学的に見れば、彼らは「時間的余裕はあるが、経済資本は少ない」層に属していることが多い。
だからこそ、平日の昼間からデートができたり、深夜の長電話に応じたりしてくれる。夜明けの白々しいファミレスや、散らかった狭いアパートの一室で、私は彼らの美貌と時間を貪るように消費し、そして楽しむ。
だが、そこに「将来の安定」や「責任ある関係」の匂いはしない。

つまり、ここで起きているのは単純な「強者への崇拝」ではない。
「顔はいいが社会的には不安定な男」と「それを選んで遊ぶ女」という、もっと複雑で、ある意味では搾取的な関係だ。
彼らがイケメンゆえに許されていることは多いが、同時に彼らもまた、「男なら稼いで一人前」という規範からは外れた場所で、見た目という一点突破でサバイブしているのかもしれない。
この「なんとなくの不公平感」や「満たされなさ」は、単なる恋愛の愚痴ではない。資本主義社会における「魅力」と「階層」の不一致が生む歪みだ。
このことに気づいた時、私の個人的な恋愛観は、社会構造を分析するためのサンプルへと変わった。

「尻軽女」の汚名と、エロティック・キャピタルの復権という生存戦略
もう一つ、私を苛立たせ、結果としてフェミニズムへと背中を押した要因がある。それは、欲望を口にした瞬間に貼られるレッテルだ。
男性が「若い美人がいい」と公言しても、「男の本能だから仕方ない」「英雄色を好む」と苦笑いで済まされる。対して、女性が同じように「顔のいい男とやりたい」と語ると、途端に空気は凍りつく。「軽い」「男好き」「ふしだら」「尻軽」──。
これは社会学やジェンダー研究で「スラット・シェーミング(Slut-shaming)」と呼ばれる現象だ。直訳すれば「売春婦(のような女)への辱め」。女性が性的に奔放であったり、自分の欲望に忠実であったりすることを、「恥ずべきこと」として攻撃し、管理しようとする社会的な機能だ。
この機能によって、女性は「選ばれるのを待つ慎ましやかな性」であることを強制され、主体的に選ぶ権利を奪われてきた。

そんな時、私の助けになったのが、社会学者キャサリン・ハキムが提唱した「エロティック・キャピタル(Erotic Capital)」という概念だ。彼女は、美貌、性的魅力、愛嬌、着こなしといった要素を、経済資本(金)や人的資本(学歴・資格)と同等の「第四の個人資産」だと定義した。
この理論に出会った時の、あの雷に打たれたような衝撃と、深い救済感を、私は一生忘れないだろう。もし性的魅力が「資本(資産)」であるなら、それを使ってより良い相手を選んだり、人生を有利に進めたりすることは、学歴を使って良い会社に入るのと同じくらい正当な行為ではないか?
私がイケメンを求め、自分の魅力を磨いて彼らにアピールすることは、「ふしだらな遊び」ではなく、自分の持つ資産を運用する合理的な生存戦略なのかもしれない。
もちろん、この考え方には「すべてを商品化するのか」という批判もある。
だが、「女の武器を使うな」と禁じられてきた私にとって、「これは私の正当な資産だ」と定義し直すことは、強烈なエンパワーメント(力づけ)になった。私は、自分の欲望を恥じる必要なんてなかったのだ。

「個人的なことは政治的なこと」──愚痴は政治を変える。「意識高揚」で肯定されるドロドロの欲望
だから私は、自分の腹の底にあるドロドロとした欲望や、ブサメンへの冷酷な本音を、もう隠さないことにした。フェミニズムの歴史には、こうした個人の「醜い」語りを肯定する強力な伝統があるからだ。
1960年代後半から70年代にかけて、第二波フェミニズム運動の中で「意識高揚(コンシャスネス・レイジング)」という活動が広がった。これは、女性たちが車座になって、個人的な悩み、性生活の不満、夫への苛立ちなどを赤裸々に語り合う場のことだ。

当初、それは単なる「愚痴大会」に見えたかもしれない。だが、語り合ううちに彼女たちは気づいた。
「私が感じている不満は、私一人の性格のせいでも、夫一人の性格のせいでもない。社会の仕組みがそうなっているから、みんな同じことで苦しんでいるのだ」と。
この発見こそが、「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」という有名なスローガンを生んだ。
私が「イケメンとだけ遊びたい、ブサメンは消えてほしい」と語ることも、この文脈においては立派な政治的行為の第一歩だ。
なぜなら、そこには「なぜ女は選ぶ側になれないのか」「なぜ見た目の良くない男ほど、女にケアを求めてくるのか」「なぜ男の醜さは許され、女の醜さは断罪されるのか」という、社会構造への問いが詰まっているからだ。
私のわがままで残酷な本音は、個人的な欠陥ではない。この社会の歪みを映し出す鏡なのだ。

空気を読まない「フェミニスト・キルジョイ」こそが、社会の欺瞞を暴く
私が自分を「醜い」と呼び続ける理由は、もう一つある。それを支えるのが、サラ・アーメドという学者が提唱した「フェミニスト・キルジョイ(Feminist Killjoy)」という概念だ。直訳すれば「喜びを殺すフェミニスト」「座をしらけさせるフェミニスト」となる。
家族団欒の食卓や、楽しい飲み会の席で、誰かが性差別的な冗談を言う。みんなが愛想笑いをしている中で、一人だけ笑わず、「それはおかしい」と指摘する。その瞬間、場は凍りつき、楽しい空気は台無しになる。指摘した人間は「空気が読めない」「過激だ」「面倒くさい」と疎まれる。これがキルジョイだ。
私は、イケメン好きを公言し、ブサメンを拒絶することで、まさにこの「キルジョイ」になっている。「中身を見てあげなよ」「男は顔じゃないよ」という、表面的なヒューマニズムでコーティングされた「良き場」の空気を、私の欲望がぶち壊すからだ。
アーメドは言う。その「不快さ」こそが重要なのだ、と。場をしらけさせることは、その場に隠されていた暴力や抑圧を可視化することに他ならない。私が「醜い本音」をさらけ出すことで、眉をひそめられるなら、それは私が社会の欺瞞)を突いている証拠でもある。
私は、愛想よく微笑む「わきまえた女」ではなく、欲望をむき出しにして座をしらけさせる「醜いキルジョイ」でありたい。それが、隠蔽された問題をテーブルの上に引きずり出す、もっとも効果的な方法だからだ。

#FeministBut 世界中で共鳴する「イケメン好きフェミニスト」の叫び
そして今、私はさらに確信を深めている。私のような「醜いフェミニスト」は、決して私一人ではない。それどころか、世界中に溢れているのだと。
2025年現在、SNSを開けば、世界中の言語で、私と同じ「矛盾」を抱えたフェミニストたちの叫びがリアルタイムで流れてくる。検索窓に「feminist but handsome」や「フェミだけどイケメン」と打ち込めば、そこには「醜いフェミニスト教」の聖典とでも呼ぶべき、赤裸々な本音の奔流がある。
英語圏では、"I'm a feminist but..."(私はフェミニストだけど……)という書き出しが、もはや一種の定型句(テンプレ)になっている。
「フェミニストだけど、有害なイケメン(toxic hot guys)が大好物なの」
「ルッキズムには反対だけど、正直に言って醜い男には嫌悪感しか湧かない。私がデートするのは美少年だけ」
「イケメンなら何でも許しちゃう自分が許せない。でも事実なの」
これらの言葉は、英語圏特有のユーモアを含みながらも、切実な事実を射抜いている。
"Feminist killjoy but hot men make me melt instantly"(喜びを殺すフェミニストだけど、イケメンを見ると一瞬で溶ける)という投稿などは、理論と本能の分裂を自嘲しつつ、それでもなお欲望を手放さない強さを感じる。
一方、日本語圏のポストは、より内省的で、痛切な響きを持つことが多い。
「フェミを自称してるけど、正直ブサメンは生理的に無理」
「理論武装してるけど、結局は顔面偏差値で男を選んでる自分に絶望する」
「私みたいな醜いフェミニストは、イケメンとだけ遊んで、ブサメンにはどこか遠くで惨めに生きててほしいと願ってる」
韓国語圏でも「페미인데 잘생긴 남자한테 약해(フェミだけどイケメンに弱い)」という呟きが見られ、スペイン語圏でも「Soy feminista pero los hombres guapos me pueden(フェミニストだけどイケメンにやられる)」という嘆きが聞こえる。
これらは単なるダブルスタンダードの露呈だろうか?
いや、違う。これこそが現代の「意識高揚(コンシャスネス・レイジング)」そのものだ。
かつて車座になって語り合った「個人的な悩み」は今、SNSという広大な広場で、「#FeministBut...」というタグと共に共有されている。
「理論では平等を目指しているが、本能では選別をしている」という、人間としてあまりにリアルな「醜さ」。それを世界中の女性たちが同時に告白し合っているこの状況は、私たちが抱える矛盾が、個人の性格の欠陥ではなく、社会構造の中で生きる女性共通の「生存戦略の歪み」であることを証明している。
「ブサメンは視界に入れたくない」
「イケメンならクズでも許す」
「美女は叩けないから、嫉妬隠しで男を敵認定する」
これらの、あまりに身勝手で、あまりに人間臭い本音たち。それらが国境を超えて共鳴し合っている事実は、私を勇気づける。「そうか、みんなそうだったのか」と。
私たちは清廉潔白な聖女になる必要などなかった。泥臭い欲望を持ったまま、それでも社会を変えようとする「醜い連帯」が、ここには確かにあるのだ。

矛盾こそが人間らしさ。女性の「醜さ」を讃えるフェミニズム的賛歌
私は「醜いフェミニスト」だ。差別心も、嫉妬も、残酷な選民思想も捨てきれない。イケメンを消費し、ブサメンを切り捨てる自分の残酷さに、夜中にひとり怯えることもある。
だが、この矛盾こそが人間そのものではないか。清らかな心を持った聖人だけがフェミニズムを語れるのなら、この運動はとっくに死に絶えていただろう。世界中のフェミニストが毎日リアルタイムで吐露しているように、私たちは「理論では博愛、本音は顔面至上主義」という引き裂かれた場所を生きている。
男性の醜さが歴史によって作られたものなら、女性の中にあるこの醜さもまた、抑圧の歴史が生んだ副産物であり、同時に生きるためのエネルギーでもある。「個人的なことは政治的なこと」であるならば、私たちのドロドロとした欲望こそが、最強の政治的リソースになり得るのだ。
「イケメンと遊びたい」という欲望も、「ブサメンを遠ざけたい」という冷酷さも、私は否定しないし、美化もしない。その醜さを抱えたまま、それでもなお性差別のない社会を求め、構造的な不平等に怒り続ける。その引き裂かれた状態を歩き続けることこそが、私にとってのフェミニズムの実践であり、女性の醜さを肯定する、歪で愛おしい人間讃歌なのだ。

