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紫季 やわらかな三日月 第六話

六、三条さん

ガラガラと久しぶりに書道室のドアを入ると、懐かしい墨の匂いに、ツーンと胸の奥が揺れて、学生のころの記憶が静かにほどけていく。
「安寧さんっ!」
三条さんの澄んだ声に、部員のみんなが一斉に筆をとめてこちらを見た。

「こんにちは。すみません、お邪魔して。みなさん、どうぞ続けてください。」
安寧がそう言って恐縮そうに軽く頭を下げると、室内は再び、筆の擦れる音に包まれた。姿勢を正し心地よい集中、紙の音、おのおのが一筆一筆に向き合っている。安寧もこの空気がとても好きだった。

三条さんの書は、夏の全国高校書道展で大賞を取り、先月の展示会でも特選に選ばれている。安寧が寮のメンターをしていた頃の寮生で、この書道部のOBでもある安寧を、歳の離れた姉のようにいまだ慕ってくれていた。
「安寧さん、お忙しいところ、ありがとうございます。今度の壮行会の横断幕をどうしても見ていただきたくて。上原先生からも、一度は安寧さんにと勧められました。」

白庭学園から一般受験で大学へ進学していく生徒たちのための壮行会は、学園にとっても大切な伝統行事の一つだ。合唱部(全国大会レベルで力を入れている)の合唱や、応援団のエール、最後は下級生全員による花道はなみちで受験生を送り出す。その中でもひときわ目を引くのは書道部の手掛ける大きな横断幕である。かつて安寧が書いた一枚は、今もなお、部員たちの手本として使われていた。

「私でよければ、ぜひ拝見させて。でも、三条さんの書、展示会で見て、私すぐにわかったの。わぁ、いいなぁって。ひたむきでまっすぐで、でもどこかあなたらしい素直さもあって、気持ちのよい筆勢だったわ。」
そう言うと三条さんは、愛くるしく笑い、
「ありがとうございます。安寧さんはやっぱりわかってくれてる。」
と、安寧の手を両手で包んだ。

色の白い指。艶のある黒髪ストレートの彼女は、背も伸びて、普段は凛として見えるけれど、中等部の寮でのあの夜更けの相談や、泣き腫らした目を安寧は知っている。この年代特有の日々揺れ動く感情、瑞々しい感性、息づかい(時として生命力すら感じる)、彼女たちの見る高い解像度の景色に、自分の過去を重ねた。ふわっと香る三条さんの使っているシャンプーは、あのころのままだ。

横断幕は別室にあり、床一面に広げられていた。
 『飛翔  夢を追う君へ』
大筆で大胆に書かれたその文字に、安寧は三条さんのわずかな迷いを感じとる。その迷いはけれど決して作品を損なうものではなく、むしろ夢を追う者の不安を肯定するかのような筆画だった。

「すごくいい。力強さと…健気さ、とっても素敵。勢いだけではないもの。迷いも不安もちゃんと感じる。描けてる。」
二人で広げられた大きな横断幕を見ながら、そのまましばらく沈黙していた。紙の端が、風もないのにわずかに空気を吸って揺れる。

「……上原先生も、気に入ってくださいました。」
三条さんが、ぽつりと言った。
その名前を聞いて、安寧は、筆を持つ上原先生の節張った手の感触を思い出した。
放課後の書道室で、言葉の余白について語っていた人。結論を急がず、いつもどこかで言葉を止めるような話し方だった。
書道部の主顧問として、静かに、けれど確かな目で部員たちの字を見てきた人。褒めるでも否定するでもなく、ただ「そのままでいい」と言うように視線を置いていく。
上原先生には、進路に迷っていたあの頃、安寧自身も、何度となく話を聞いてもらっていた。今でも夫婦ともどもお世話になっている恩師だった。答えをもらった記憶はない。それでも、話したあとの帰り道だけは、少し呼吸が楽になった。

「先生、あなたの字、前から評価していたものね。」
そう返すと、三条さんは小さく頷いたが、そのまま視線を横断幕から離さなかった。

「……安寧さん。私、先生のことを、尊敬してるんです。」
言葉を選ぶように、間が置かれる。
「……書のことも、生き方も。私……。」
その先を、すぐには続けられない様子だった。

安寧は、三条さんの言う「尊敬」という言葉の輪郭を、すでに知っている気がした。それは、生徒が教師に向ける、最初に選んでしまう言葉。けれど、その奥に別の熱(それは時に胸を締めつけたり、焦がしたりする)を隠してしまう、ということがあるのも。
三条さんのまなざしは、横断幕の文字を越えて、
その先にいる誰かを、まっすぐに見つめていた。



大きな大きな半紙に身体ごと乗り、
大筆を大胆にすべらす。
勢いで墨がほとばしる。
迷いのない点画、筆意。
はっきりとした墨の黒さと艶を、
足を踏みしめ、伸び伸びと、
ぐんぐんと描いていた――はずだった。

じわじわと、墨が、滲んでいく。
水墨画のように淡く広く広く。
やがて文字の輪郭はほどけ、
滲み、見分けがつかなくなっていく。

背後から筆に添えられた指に、見覚えがあった。

メニュー表を指さして触れた、あの指──。



昨日、久しぶりに書道室を訪れ、墨の匂いを嗅いだからか、それとも、三条さんの告白のせいか。安寧は、そんな夢を見て目覚めた。

あれから、毎週木曜に『月あかり』で施術を受けている。
姿勢も、明らかに変わってきている気がした。
肩の重みが薄れ、肺に入る酸素が増え、以前よりも呼吸が楽になっている。強張りがとれ身体の自由がきく──その感覚を思い出してきたように感じてきていた。
きっちりと形を保つことよりも、
掠れや滲みを、許すこと。
──余白、のようなもの。

昨日の三条さんの告白は、とても誠実だったと思う。黒目がちな瞳、おとなしそうに見えて、頑固なところもある彼女。けれどそれは、今や幼さではなく、芯のある女性へと変わりつつある。
夢の余韻をひきずりながら、まだ薄暗い台所で朝食を設えつつ、三条さんのあの潤んだ瞳と、内に秘めた熱を思い出していた。

「安寧さん…。私、上原先生のことが、好きなんです。…わかってます、先生がご結婚されていることも、私は一生徒で、先生は一教師で…、それ以上でもそれ以下でもないこと…。でも、好きなんです。安寧さんにだけは、知っていて欲しくて。」
誰にも言えない、けれど、誰かに言わないと壊れてしまいそうな三条さんの思いだった。

安寧はそっと、三条さんの肩に触れて、
「三条さん…。先生は、そのことを?」
と優しく聞いた。
三条さんは、俯きながらゆっくりと首を横に振った。
「言えなくて。でも、…伝わってしまっていたみたいなんです。」
「伝わってる?」
「大賞を取った授賞式のあと、車で送っていただいたときです。」
一度、言葉を切り、三条さんは小さく息を吸った。
「降りるときに、先生が……
『君は、素敵な女性になる。
僕なんかより、もっと素敵な人が、きっといるよ』って。」

それは、拒絶でもなく、肯定でもなく。
ただ、大人が引いた静かな線、のはずだった。

「安寧さん、でもね。そう言われてから上原先生の態度が、以前よりも優しい気がするんです。この横断幕の打ち合わせで、二人で会ううち、先生のプライベートな話もするようになって…。」

田山花袋の『蒲団』が、ふと脳裏を掠める。
近代文学を愛する上原先生。
その引いた線にも、掠れや滲みが、なかったとは言い切れない。

「どうしても、好きなんです。」  

「どうした?ぼぉっとして。」
突然の寝起きの園田の声に、ふいに現実に舞い戻る。お味噌汁の鍋は沸騰しはじめていて、まだ暗かった窓の外は薄青く明けはじめていた。
「おはようございます、先生。いえ、不思議な夢を見ていたものですから。まだ寝ぼけてしまっているのかもしれませんね。」

園田はいつものように角の揃った朝刊を広げ、安寧は湯気のたつ赤味噌のお味噌汁と、炊き立てのごはんを茶碗によそう。

「春眠暁を覚えず、か。まだ外は冷たいぞ?」
と、園田は忘れたころに返事をして、汁椀に手をつける。安寧もそれに合わせ、
「春が待ち遠しいですね。いただきます。」
と、朝ごはんにした。

新聞のインクの匂いに、引き戻されないように、安寧は熱々のお味噌汁を音を立てて啜った。



五、福天          七、夜の月あかり

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