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紫季 やわらかな三日月 第七話


七、夜の月明かり

学年末が近づくころから、教員たちは途端に忙しくなる。師走はなにも十二月だけではない。
受験生への対応や学科の報告が重なり、学園の年度末には、園田にも出張と称した一泊の研修が入った。安寧がそのための着替えやスーツの支度をしていると、珍しく電話がなった。

三月からの電話だ。毎週木曜の午前に取れていた『月あかり』の予約が、急きょ今日は都合により取れないとのことだった。

「申し訳ありません。夜でしたら、空いているんですが…。」
安寧の肩や背中の辛さは、三月の施術を受けはじめてからというもの、明らかに改善されていた。視野が明るくなり、呼吸もしやすくなった。
けれど、居苑に暮らす安寧にとって、外の人――三月との会話は、新鮮で、安寧にとって大切な時間になってきていた。三条の話を聞いて以来、安寧も誰かと話したくなっていた。

次の週に振り替えることも可能だったはずだ。
それでも安寧は、どうしてもと、普段とは違う時間帯――「それでは、夜に」と予約を入れていた。園田の出張のタイミングも、何かの縁なのかもしれないと、21時に。安寧が一人で、そんな時間に学園の外へ出ることなど、しばらくなかったことだった。

部屋の明かりを消し、鍵をかけるその音がやけに大きく響いた気がする。いつものハンドルを握っているのに、流れていく夜の景色に、どこか知らない場所へ向かうような気がした。いつものスーパーもすでに閉店していた。

そこに、
『ほぐし屋整体 月あかり』の入り口のランプが、まさに夜の中でポッと穏やかに灯っていた。

「こんばんは。」

「こんばんは、あんねさん。すみませんでした、急なお時間の変更、ありがとうございます。お待ちしておりました。」
「いえ、今夜は私も時間がとれたものですから。」

施術中の三月は、静かに人の身体の声を聴く。丁寧に骨格のわずかなズレや、筋肉の張りや違和感をまさに手探りで(陶芸家が目を閉じて指の感触だけで厚さや形を整えていくのに似ている)感じ、何気なく漏らした会話とも当てはめながら、その理由に辿り着く。

「あんねさん、何かありました?」

まさに頸椎から腰椎までを人差し指と中指で辿る間、三月は感じたままにそう言った。安寧の呼吸がいつもと違っていることにも触れる。
「何かって、なんですか?」
「いえ、言いたくなければいいんです。ここ、少し気になったもので。」
三月の指が触れる胸椎の脇がジンと痺れる。
「そこ、痛いです。」
「……痛いですね、ここ。」

昼間の診察にはない静けさのせいなのか、三月の触れる手は、いつもよりも内側に触れるようで、それは何かを見透かされてしまっているようで、安寧はつい話してしまっていた。元々、安寧は嘘がつけない。先生の「あんねさん」と呼ぶそのひらがなのような呼び方にも、どんな言葉もにこやか受け止めるやわらかさにも、自然と導かれている気がした。

「彼女の目を見ていたら、『正しい』とか『正しくない』とかは言ってはいけない気がして。」

姉のように慕ってくれる後輩のあの告白は、ずっと安寧の心に引っかかっていた。
三条はとても真面目な子だ。寮での生活を見ていても模範的で、白庭学園の「清廉、礼節、調和」の教えは、彼女の中にたしかに息づき、それは彼女の立ち位置振る舞いや、書を見ればわかることだった。そんな彼女の秘めた思いを聞いてしまった安寧もまた、悩んでいた。彼女の純粋な思いがわかるだけに、そして上原先生の滲みに、安寧の内はゆらゆらと揺れていた。

返事の代わりに、肩甲骨の間に、三月はグーッと体重をかけて押す。

「う…。そこ、苦しいです。」
「わかってます。わかってて、しました。」

そう言ってから、三月は指先の力をゆるめ、手のひら全体で大きくさする。まるで背中に描いた文字を消すかのように、なかったことにするように。

「決まりを守ることは大切です。私もそう思います。『正しい』『正しくない』は、もちろん、あることだとも思います。けれど、その決まりというものは、人をむやみに傷つけたりしないようにと生まれたものだったはずです。」
三月の手のひらの温かさとともに、言葉がやわらかに入ってくる。
「大切な人を大切にしたい、それだけなんだと思います。」
三月の手が背中でとまる。

「好きでいていい、と思います。規律や秩序の中でも、自由はあると思います。」


安寧はうつ伏せのまま、トクンと鼓動を聴いた。

好きでいていい。

その言葉は、三条さんに向けてというよりも、安寧、そして三月自身へのようにも響いた。

軽々と、人の荷物をひょいと担ぐみたいに無邪気なのに、こうしてスッと本質に触れてしまう三月といると、自然と呼吸が楽になってくる。
施術のおかげだけではなかった。もう少し話していたいと、安寧は、自分のことをもっと知ってもらいたい、と思うのを止められない。

「わがままを、言ってもいいですか?」


三月の淹れてくれた珈琲は、一口飲むとベリーのようなフルーティーな香りが立ち上がり、酸味も少なく、すっきりとした甘さが残った。
安寧の言った「わがまま」に、三月は、
「あんねさんの気持ちを大切にすることを、私は、わがままとは思いませんよ。」
と言って、
「珈琲でも、淹れますね。いい豆があるんです。」
と、本当に美味しい珈琲を淹れてくれたのだ。

「美味しい。こんな珈琲、初めて飲みました。」
「でしょう?いい珈琲屋さんを見つけたんです。店主の自家焙煎だそうで。」
「三月先生はいろんなことを知っているんですね。私は…、学園でばかり生きてきましたから。」と、安寧は珈琲を一口飲む。

そして、カップを見つめながら、ぽつりぽつりと自分のことを話しはじめた。



六、三条さん            八、安寧


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