紫季 やわらかな三日月 第八話
八、安寧
「わがままを、言ってもいいですか?」
安寧がそう言うのを、三月は待っていたのかもしれない。だから、こう告げたのだ。
「あんねさんの気持ちを大切にすることを、私は、わがままとは思いません。」
と。
「三月先生と、もう少し、お話ししていたいです。」
と俯きながら言った安寧に三月は、
「珈琲でも、淹れますね。いい豆があるんです。」
と、ハンドドリップで珈琲を淹れた。
香ばしい香りが包む中、安寧はぽつりぽつりと、自分のことを話しはじめた。
安寧の生まれ育った街は、海沿いにあり、両親は海の幸を扱った地域に根付いた料理屋を営んでいた。二つ歳の離れた兄(大智、父親にそっくりな眉毛をしている)は、明るく社交的で、学校帰りでもいつも友達と遊ぶ約束をしては賑やかに遊んでいた。一方で人見知りで内気な安寧(親戚のおばさんに「ごあいさつは?」と言われるのが苦痛で仕方がなく、大智とは陰で「あいさつおばさん」と呼んでいた)は、その輪には入れず、かといって両親は店のことでバタバタと忙しくしていたため、一人で過ごすことが多かった。本を読んだり(担任の先生が紹介してくれた五味太郎さんの絵本だとか)、絵を描いたり、小さなお人形(クマやウサギの家族)を動かしては、動物園みたいな兄たちの声を遠ざけていた。
通っていた小学校は、一学年三クラスほどの公立で、そこでは地元ならではの簡単には覆らないヒエラルキーが存在していた。元気でクラスの人気者も中心に当たり前にいたし、気の強い視線の鋭い女子も(傍にはサブキャラみたいな何人かが従っていて)斜めに人を見ていた。
おとなしい(と自分では思っていなかったけれど)安寧は、極力そこに関わらないように気をつけていたつもりだったのに、五年生になったころ、運悪く、その一番気の強い女子と同じ班になってしまったのだ。
「ねぇ。口あんのぉ?何か言えばぁ?」
声の小ささや、おとなしすぎる安寧の態度への最初の罵倒だった。それから、彼女はことあるごとに、安寧を馬鹿にしたような口調で、半笑いになりながら、辛辣な言葉を投げつけるようになった。クラス内がどんどん彼女の強い負のエネルギーに引っ張られていく。彼女の傍にいた女子たちも、同じ視線を半笑いで浴びせてくる。三日もたてば、その空気感はクラス全体の空気感になり、休み時間に話しかけてくれるような子もおらず、他の子も一様に目を逸らし、気がつけば安寧は一人になっていた。
いるのにいないように扱われ、話しかけても、
「なんか声しなかったぁ?今ぁ。」
と無視をされる日々がしつこく続き、安寧の胸の奥はどんどん冷えていった。平日の授業だけであればなんとかやり過ごせていたけれど、体育祭の練習が近づくにつれ、安寧はあからさまに体調を崩すようになっていった。
「お母さん…お腹、痛い…。」
安寧の様子がおかしいことを、母は近ごろの表情からなんとなく気がついていたようだった。
「やっぱり学校で、なんかあったん?そうなんやろ?安ちゃん?」
お店の仕込みを父に任せ、母はじっくりと聞いてくれた。
みんなの睨むような視線が怖いこと、大きな声を出そうとするけれど震えてしまうこと、泣きたくないのに泣けてきてしまうこと。
もう学校へ行きたくない、ということ。
「頑張っとったんやなぁ、安ちゃん。ごめんねぇ、お母さん、よぉ見とってやらないかんかったのに。えらかったやろなぁ。」
すると、コーヒーカップを手に、静かに聞いていた三月がピクリと思わず話しを遮った。
「ん?えらかった?えらかったって何ですか?」
「あ。そうでしたね。『えらい』って、私の地元の方言なんです。しんどいとか、つらいとか、そういうことを『えらい』って言うんです。」
「へぇ。初めて聞きました!えらい。いいですね、えらい。じゃ、今度から『あんねさん、ここえらくないですか?』って聞いたらいいですね。」
と明るく笑う。目の奥があたたかい。
母は、安寧のおとなしい性格を「弱い子」だとは思っていなかった。ただ、まわりよりも少し静かで、人の気配に敏感な子なだけ、と思っていた。
ある日、近所のお客さんから聞いたことのある全寮制の『白庭学園』のパンフレットを取り寄せ、その校風や理念に関心を持った。規律と秩序を重んじ、生活のすべてが学園の内側で完結する学校だという。
大きな声や、強さだけが通る場所ではない。決められた枠の中で、きちんと振る舞える子が評価される場所なのではないか。
ここなら、安寧の優しさや、真面目さは、欠点にならないかもしれない。
このまま地元の中学に進んでいくのではなく、受験をしてみないか、と母は話してくれた。
それを聞いて、安寧は素直にワクワクした。
『中学受験』という響きにも、全寮制、パンフレットにはリボンのついた制服の溌剌とした生徒たちの笑顔が並んでいる。そこでは何かいいことが起きそうな気がした。
「それからずっと、私は学園で生きてきました。なので、あまり外の世界を知らないと思います。だから、いつもここに来ると、三月先生のお話はとても新鮮で。私にとっては、すごく刺激的なんです。」
安寧は、自分自身のことを、こんなふうに人に話したことは初めてだった。
「そうだったんですね。私にとっても、あんねさんはとても新鮮です。でもなぜか知っている気もするんですよね。なんていうか…、そう、白文鳥みたいに。」
「白文鳥?」
「昔、家で飼っていたんです。真っ白で、クチバシだけが綺麗な桜色で。とてもよく懐いていて、私の手のひらや肩に、さりげなく寄ってくるのがとっても可愛かったんですよ。頭を撫でると、その羽毛はツルツルしていて、目を閉じるんです。」
「わぁ、かわいいですね。」
「かわいかったんです。私は子どもながらに、その小さな小さな白文鳥を守ってやらないとって、大事に大事に撫でながらいつも思ってたんです。」
とても優しい目をして、三月は記憶を辿っている。
「三月先生の子どものころも、かわいいですね。優しい男の子だったでしょうね。」
「………男の子…?」
三月は、一瞬かたまる。
そして、そのまま両手で顔を覆って笑い出した。しばらくして、どうにか落ち着きを取り戻し、
「あの。あんねさん、すみません。私、こんな格好をしているもので、よく間違われるんですが。さすがにこれだけ会っているので、気がついているものだと思ってました。すみません。これでも私、戸籍上は、女性なんです。」
三月はそう言って、頭を掻いた。ぴょこんと一箇所だけが跳ねる。
「えっ!?ごめんなさいっ!私、てっきり……。
でも、そうですよね。どうりで。やっぱり。そうなんですね!?あぁ、ごめんなさい。私…。」
と、今度は安寧が顔を覆い、顔を真っ赤にして明らかに動揺している。それを、落ち着かせるように、三月は隣に寄り添って座り、肩を抱くようにそのまま背中をさする。
「あんねさん。あんねさん、気にしないでください。こんな外見をしているのも、私は、自分の性別をあまり意識せずに生きていたいからなんです。」
安寧の背中を大きくゆっくりとさすりながら三月は、穏やかに言った。
そして、
「どちらでもなくて、どちらでもいいんです。」
と。
「もしも、同じ小学校だったなら。絶対に、あんねさんを一人にしなかっただろうなって思います。」
ぽつりと言った。
安寧の手が三月の手に重なる。
感覚にさらわれていく。
「私も…。三月先生が、いてくれたらよかったなって、思います。」
そう言う安寧は、まっすぐに三月を見つめる。
「あんねさん……。ずるいな。」
「…不思議な気持ちです。」
「あんねさん…。目を…閉じてもらえますか?」
少しだけ遅れて、三月の唇から感じる珈琲は、ベリーの香りがふわりと香り、優しい夜に溶けていった。
その夜、居苑に暮らして初めて門限を越え、
安寧は施錠後の正門をくぐった。
守衛室の明かりが、いつもより近く感じられたが、それが正しいのかどうか、判断はつけなかった。立ち止まる理由も、急ぐ理由も、今は見当たらない。
ただ、背中が軽かった。
コート越しに、まだ誰かの手の温度を覚えているような。
羽が生えたような軽さではなく、
長くそこにあった重さを、
一晩だけ預けてきたような軽さだった。
顔を上げると、星がたくさん瞬いている。
それは、学園に来て間もないころ、
この生活に期待を抱きながら、
寮生たちと並んで見上げた星と、同じ光だった。
星は変わらず、
安寧も、変わってはいない。
ただ、戻る道順を、思い出しただけのようだった。
