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紫季 やわらかな三日月 第九話


九、書


春休みのある日、園田が学園での作業をする間、安寧は人気のない書道室に立ち寄った。
ガラガラとドアの音が響く。

すると、一人静かに墨を摩る三条さんがいた。
「あ、安寧さん。」
物音に気がついた三条が振り返る。
「あら、三条さん。ごめんなさい、お邪魔しちゃって…。三条さん、帰省はしないの?」
「はい。今、実家がバタバタしてしまってて。でも来週には帰るつもりです。」
「そう。私も、久しぶりに書こうかな、と思って。」
「わぁ。はい、ぜひ。」
三条は手を止め、嬉しそうに硯や筆を用意する。
メンターと寮生として寮生活を共にした二人には、流れる温度や雰囲気で動ける安心感があった。

おかに水を落とし、力を抜いて、のの字を描く。
墨の香り、れる小さな音。三条も安寧も、書に向かう者なら誰もが、この時間を大切にしている。集中が高まり、心がしずまっていく。
二人は静かにその時間を共有していた。
背を伸ばす、というより、腹に重心を置いているという感覚。意識は内へ、内へと沈んでいき、硯の池に濃墨が満たされていく。

三条が半紙に向き合う横顔は凛々しく、一つ呼吸を整え、まっすぐに運ばれる筆。
流れるように書かれたのは、

『礼節』。

幾度となく書いてきた文字に、三条の身に染みついた律儀さを見る。
その隣で、安寧が書いたのは、

『明鏡』。

腹を据え、筆を立て、身体ごと覚えているからこそ、そう描かれた文字に、嘘はない。
三条はクスりと笑う。
やっぱり安寧にはお見通しなのだ。
筆先には真が出てしまう――そう、何度も言われてきた。
書に込めるべきは、まごころ。

乾いた半紙にすっと文鎮を置き、硯で丁寧に筆を整える。三条のまなざし。
彼女は一瞬目を閉じる。
そして、迷いのない筆をおろした。
流れるように運ばれる筆。彼女の視線の先にうつる姿をなぞるように、素直な筆勢。

『心恋』。

そっと筆を置く。

「うん、綺麗。」
「ありがとうございます。」
二人のあいだに、嘘はない。
そして安寧は、二枚目にこう書いた。

『勇気』。

「安寧さん、書、すこしかわりましたね。」
「うん。そうかもしれない。」
――筆先には、まことが出てしまう。
正しいかどうかを考える前に、筆が導く。
三条の想いも、安寧の視野も、半紙の余白の上で、そっと赦される。

「好きでいていい、と思います。規律と秩序の中にも、自由はあると思います。」

礼節と、心恋、そして勇気。
艶のある濃墨と、半紙の余白。

外に出ると学園の木々たちは裸のままで、それでも小さな蕾が強かについている。安寧が三条と居苑まで歩く間、すれ違った部活生の生徒からは「こんにちはっ」とハキハキとした静止礼を受けた。けれども、安寧はそれに微笑み、ゆるく会釈を返しただけだった。

「安寧さん、私、ずっと付属に行こうと思ってたんですけど。」
四月には受験生になる三条からは、安寧がしてきたように付属大学へ通いながら、メンターで寮に残るつもりだと聞いていた。夏にはその意向を固め、学校推薦の準備をはじめる予定だとも。

「私、留学しようと思います。」
三条の長い髪を風が揺らし、それを手で押さえながら、前を向いたまま言った。
「一度、ここから出ようと思って。」

墨を磨る間の、三条の横顔を思い出す。
礼節も心恋も、彼女の中にはちゃんとある。安寧は、彼女の思い悩んだ時を思うと(それは若い彼女の一つのけじめのようで)、止める気にはならなかった。
「うん、自由でいいと思う…。」

三条は、それに、留学先で日本文化の書道を広めたいのだとも清々しく語った。世界でも、日本の伝統的な文化や、その精神はきっと興味深く受け入れられるだろう。それは、いかにも彼女らしい歩み方で、安寧には、その先の景色までうっすらと見えるような気がした。

近くで、ジョウビタキがバタバタッと飛び立つ。居苑の入口には、ふっくらとした茶色毛の猫が座っていた。日当たりの良い安全な場所を知っているのだ。学園内でのペットの飼育は禁止されているけれど、安寧は時々、ここで日向ぼっこしているこの猫と出会っていた。

「あ。春田ハルタさんだ。」
「春田さん?え?安寧さんの猫なんですか?」
「ううん、たまに見かけるの。勝手に私がそう呼んでるだけ。『春田さん』って。おいで。」
春田さんはチラッとこちらを見ただけで、めんどくさそうにくるりと背を向けて、居苑の奥の方へトコトコと歩いていってしまった。

「行っちゃったね。」
三条と安寧は、くすりと笑いながら、歩き慣れた学園の小道をならんで歩いた。

気の早いたんぽぽが一つ咲いていた。



八、安寧             十、中と外

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