紫季 やわらかな三日月 第五話
五、福天
「それでは、一週間後に、また診させていただきますね。姿勢の改善は、継続的にみていくといいと思います。」
三月先生は真新しい診察カードに予約日と時間を書き込み(初診日の日付には月のスタンプが押されている)にこやかに差し出した。
「ありがとうございます。はい、来週木曜日に。よろしくお願いいたします。」
安寧はカードを両手で丁寧に受け取り、ゆっくりと頭を下げた。
「あんねさんって、書道の先生とか、ですか?」
問診票に書かれた文字の美しさが印象に残っていた三月は、思わずそう尋ねた。
「え? いえ。書道は学生のころに、少しだけ。」
「そうですか。いや、お綺麗なので、てっきり。」
三月ははにかんで頭を掻く。その拍子に、一箇所だけぴょこんとはねた髪が揺れた。どうやらいつもの癖らしい。
寒さのせいで強張っていたと思っていた肩や背中は、一時間の施術を終えると荷を下ろしたように軽くなっていた。血の巡りもよくなったのか、まるで温泉に入った後のように、身体の内側からぽかぽかと温まっている。背筋も、意識せずともすっと伸びていた。
「とっても身体が軽くなりました。ありがとうございました。」
安寧はリラックスした笑顔で挨拶をし、天然木のドアを両手で引き、外へ出ようとした。
「あ、あ、ちょっと待って。」
三月は白衣を脱ぎ、壁に掛けてあったカーキ色のコートを羽織ると、安寧と一緒に外へ出る。
「ちょうど、次の予約も夕方まで入っていなくてですね。お昼休憩に入ろうと思っていたところなんです。」
そう言って入口に鍵をかけ、振り向くと、
「あんねさん、このあと、何か予定ありますか?」
と軽やかに言った。
安寧は一瞬、何を言われたのかわからなかった。このあとの予定?安寧の昼間に、家事と白庭会以外の予定などない。まん丸な目で三月を見上げていると、
「お昼ごはん、まだ、ですよね?」
三月は、安寧のお腹のあたりを指さし、もう一度確かめるようにそう言った。
「あ。はい……そういえば、お昼ですね。どうりで、お腹がすいているわけです。」
お腹をさすりながら、少し照れたように安寧は笑った。そう、いつの間にか、夫のための昼食を用意することが習慣になりすぎていて、自分自身の空腹や、何を食べたいかを考えることがなくなっていたのだ。お昼のチャイムは鳴っていたし、夫の食べたいものならすぐわかるというのに。
「この裏の通りに、美味しい中華屋があるんです。よければ、一緒にいかがですか?いつも一人っていうのもですね、なんだか味気なくて。」
そう言いながら、三月はまた頭を掻く。案の定、ぴょこんと跳ねた髪に、安寧は思わず小さく笑った。
「ありがとうございます。今日は帰っても、私も一人ですし……ご一緒させていただこうかな。」
少し後ろを歩こうとする安寧を、三月は少し待ち、隣を並んで歩く。
美味しい中華屋『福天』のランチタイムのピークは過ぎていて、二人はすぐに席に案内された。
「あんねさん、ここね、最後に杏仁豆腐つくんですけど、めちゃくちゃ美味しいんですよ。あ、甘いものお好きですか?」
ランチメニューを見ながら、三月は楽しそうに言う。施術中の『三月先生』の面影はすでになく、デザートを楽しみにする子どものようで、安寧まで楽しくなってくる。
「甘いもの、お好きなんですね。私も好きです。」
にっこりと微笑みをかわし、二人は頭を合わせてメニューを覗き込んだ。
「あんねさん、決まりました?ではですね、せーの、で指さしてくださいね。いきますよ?」
三月はいたずらっぽく「ダララララ」と効果音を発しながら、ランチメニューを上から下へ、下から上へと指を動かす。
「せーのっ!」
と、とっさに安寧は麻婆豆腐セットを指さした。三月の指と、軽くぶつかる。
「わっ!一緒!気が合いますね! すみませーん、注文、お願いします。」
三月は触れた指を特に気にした様子もなく、すぐに店員を呼ぶ。安寧は、三月のその長い指を見ていた。足首から膝、腰、背中へと丁寧に施術をしてくれた手、指。
こんなにも無邪気な面は、あの診察室では想像できなかった。思ったよりも高い声、きれいな顔立ち、男性にしては線の細い身体つき。
「ん?」
じっと見つめる安寧の視線に、三月は首をかしげる。
「あ、いえ。こうして外で食事をすること、なんだか久しぶりで。」
「そうなんですか?だったらもっと、おしゃれなお店とかの方がよかったですね。しまったな。」
ぴょこんと跳ねた髪が揺れる。
「いえ、中華も好きですから。いつもは、主人が昼食をとりに戻るので、外食もほぼなくて。」
「そうなんですか。今日は、その、ご主人のお昼はよかったんですか?」
「木曜は会議が入ることが多いので、そのまま他の先生方と食事にいかれるんです。それで、今日。おかげさまで身体がとっても楽になりました。」
「なるほど。それはよかったです。またお待ちしてますよ。」
会話の流れだとしても、安寧にはそれが子どものころ、学校帰りに遊ぶ約束をするみたいに、ワクワクと楽しい約束に思えた。
熱々の麻婆豆腐が運ばれてきて、安寧は「ありがとうございます」と小さく言いながら店員に会釈をする。そして二人はもわっと白い湯気ごしに目を合わせ、無言の「美味しそう!」を分かち合った。
安寧は箸を持つ前に丁寧に手を合わせ、「いただきます」と言い、それを見て、三月も慌てて箸を置き、同じように手を合わせて、「いただきます」と言って笑った。
居苑へ帰る道すがら、安寧は軽くなった身体や、笑い合った昼食のことを思い出し(杏仁豆腐もプルプルと好きな固さで美味しかった)、確かに浮かれていた。足取りまで、来たときよりもわずかに軽い。遅めの昼食のせいか、夕食の支度にはまだお腹は空いておらず、お浸しや焼き魚のさっぱりとしたメニューになってしまったけれど、焼き魚にはカボスもはじかみも添えた。
食事中(焼き魚はいつも骨まで食べてしまう)園田が、何気ない調子で言った。
「今日は、どこか出かけていたのか?」
ただそれだけの問いだったのに、安寧は一瞬、箸を止めてしまう。責められているわけでも、疑われているわけでもない。それなのに、なぜか胸の奥がぼわっと熱くなってしまった。
「いえ、おつかいの帰りに、ちょっと。」
楽しかっただけ。身体が楽になって、昼ごはんを一緒に食べただけ。次の約束を、しただけ。
「先生、パルムドールいかがでしたか?」
食後にマドレーヌを出し、話を逸らすようにそう聞き返すと、園田は案の定、いつもの調子で話しはじめた。上原先生の、芥川の美意識と、それを経由した太宰の入水への一連を、楽しそうに。
「上原先生もお好きですね。先生の『羅生門』の授業、いまだにみんな覚えてますもの。」
安寧の言葉に、園田は満足そうに微笑んだ。その笑顔に、内心とてもホッとして、安寧は食べ慣れたマドレーヌを頬張った。いつもより甘さが舌に残った気がした。かわいらしい月のスタンプを思い出した。
五、園田先生 六、三条さん
