紫季 やわらかな三日月 第三話
三、月あかり
安寧の運転する軽自動車は、ブラウンとベージュのツートンで(だからショコラちゃんという名前をつけている)、それは唯一、安寧が好んで選んだ色だった。結婚するまで、ほとんど学園の中だけで暮らしてきた安寧にとって、生徒の利用するシャトルバスか自転車での移動が主だったけれど、園田先生との結婚を機に居苑人となれば、自家用車が必要になるのだ。
と言っても、近くのスーパーや銀行へ行くくらいのもので、それでも、小回りのきくショコラちゃんのハンドルを握ると、安寧は信頼できるかわいい相棒と並んでいるような気分になり、束の間のドライブをそっと楽しんでいた。学園の外の景色も、いまだに色鮮やかにうつっていた。
『ほぐし屋整体 月あかり』へは、車で20分ほど。いつも立ち寄るスーパー(火曜がお魚の日、水曜日は野菜市、9のつく日はお肉の日の)よりも少し先、四階建てマンションのテナントが並ぶ一階のいちばん端にあった。塗り壁のシンプルな外装に、木目の看板、入り口にはアンティーク調のランプが下がっていて、夜にはきっと温かな灯がともるのだろう。「整体院」というよりも、まるでカフェのような佇まいに、
「わ、かわいい。」
と安寧は思わず口に出していた。
安寧が店のドアを両手でそっと開けたのは、予約時間の10分前。天然の木でできたドアは、見た目ほど重くはなく、真鍮のアイアンのドアベルがカランカランと乾いた可愛らしい音を鳴らした。
「こんにちは。」
中へ入ると『スリッパをどうぞ』という札と、下駄箱が目に入る。安寧は白のコンバースを脱ぎ、用意されていたミントグリーンのスリッパに静かに履き替えた。
受付のカウンターに人気はなく、『ご用の方はこちらを鳴らしてください』と呼び鈴が置かれていた。安寧が小さく、その呼び鈴をチンッと鳴らすと(それは大きすぎて慌ててしまうほど響いた)、パーテーションの奥で、
「あー、はいはいっ。」
と明るい返事が返ってきた。
あの電話口の「ほぐします」の声だ。
返事の主はそのまま、「はいはい、はいはい」と言いながら、ひょっこりと現れた。スラリと背の高い、白衣を羽織った細身の男性に見えた。
にこやかに、
「はい、こんにちは。11時の、ご予約の?」
と、受付表をきれいな指でなぞりながら安寧を見る。
「こんにちは。はい。11時の、です。」
栗色のやわらかな目をしたその方は、色白で鼻筋が通っていて、安寧は返事もそこそこに、一瞬見惚れてしまうほど整った顔立ちをしていた。
「では、えっと。こちらにですね、簡単で結構ですので、ご記入をお願いします。」
安寧はサラサラと個人情報と問診票を記し、差し出す。
「あんね、さん。」
問診票をなぞる指が、一瞬、とまった。
「へぇ、素敵なお名前ですね。肩と、背中…。はいはい。ではですね、こちらへ、どうぞ。」
手で奥へと案内しながら、白衣の方は軽やかに身を翻し、歩き出した。続く安寧は、そのショートカットの後ろ髪が一箇所だけぴょこんと跳ねているのが気になって、じっと見つめてしまう。
パーテーションの奥は、ベージュを基調としたシンプルな施術室となっていて、全身の骨格模型(理科室で見るよりは不気味ではなかったけれど)と施術台というサッパリとしたものだった。それでも、脇には本棚がならび、漫画や雑誌、小説が、たくさん並んでいた。漫画本は100巻まであるようなシリーズ(海賊の話やバスケットボールの話)、「わたしの一人時間」や「隠れ家カフェ特集」などの雑誌も目に入る。村上春樹、江國香織、原田マハ──安寧も好きな作家の単行本もあり、その本棚を眺めただけで、自然とくつろいだ気分になっていくようだった。
「あんねさん、あらためまして。院長のみつきと言います。三つの月と書いて三月です。よろしくお願いします。」
施術台に腰掛けると、白衣の方は柔らかな笑顔のまま、思ったよりも高い声で自己紹介をした。
「三月先生。よろしくお願いします。」
そういえば、1Q84では二つの月だったな、などとふと思ってしまった。
安寧も、つられて笑顔で挨拶をする。初めての場所で、初対面の人を前に、こんなにも自然でいられるのは不思議で、それがこの部屋のせいなのか、三月先生のやわらかな雰囲気のおかげなのかわからなかった。
「肩と背中がお辛いということですよね。少し見させていただきますね。ほぅ、初めてで…。なるほど。はい、では私の施術の仕方をまずご説明させていただきます。」
三月先生は問診票に目を落としながら、骨格模型を手に取って、手指の動きも丁寧に説明をはじめた。骨格模型には「ホネ子さん」という名前がついていた。
「ですので、肩や背中に痛みがあっても、直接そこが原因とは限らないんです。これから足首、膝、腰、と順に配列を確認しながら、あんねさんの背中や肩に負担がかかっている理由を探していきます。ここまで、大丈夫ですか?」
整体といっても、いきなり身体を触られて、ゴキゴキと鳴らされるわけではないこと、これから何が行われるのかがわかって、安寧は勢いで来てしまったのはいいけれど、やはり自分が思っていた以上に緊張していたのだと気がついた。
先生に言われるまま、施術台の上で「検査」のため安寧は何度か姿勢を変え、そのたびに
「はい、上手です。」
と優しく言われるたび、嬉しくなり、なぜか生徒に戻ったような気分になった。
「では、順に整えていきますね。楽にしていてください。バキッとかしませんから。」
緊張をほぐすように背中に先生の温かい手が触れ、そのままその体温がうつってくるまで当てられる。ゆっくりと安寧は目を閉じ(なぜかぽっかりと月が浮かんでくる)、身体をだんだんと委ねていた。自分の呼吸が大きく感じられる。
施術が終わるころ、遠くで正午を報せるチャイムが聴こえた。反射的に安寧は、目だけで時計を探していた。
それは、もはや彼女の癖のようなものだった。
