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紫季 やわらかな三日月 第二話

二、居苑人きえんじん

安寧の女子寮での生活は、ごちゃごちゃとカオスな気配はありながらも、かろうじて整えられた引き出しのようで、賑やかで、楽しかった。

起床時間から消灯時間まで、1日の流れは定刻に決められていたけれど、その合間には、洗面台の混み合いがあり、隠した流行りのファッション雑誌があり、制服用のアイロンでコソコソと焼いたホットケーキは秘密の甘さに思いの外おいしくて、泣きながら恋心を赤裸々に話す友につられては頬を赤らめ、泣いたり笑ったり、情緒はトランポリンのような日々だった。

入学して間もないころは、個々のやり方や意見がぶつかり合い、生活はどうしてもぎくしゃくした。そんな空気はとても居心地の悪いものだったけれど(どうにも些細な順番にこだわってごちゃごちゃ言い出したり、生理的なイライラがそのまま言動に出てしまったり)けれども、学園の卒業生であるメンターが間に入り、寮での過ごし方(報連相は大切)を、そしてこの学園で生きるための距離の取り方(首をつっこまない、荒立てない)を、少しずつ学んでいったのだ。

そんな共学の中高一貫校、白庭はくてい学園の卒業生である安寧は、今も、学園内にある「居苑きえん」で暮らしている。
古典を教える園田先生と結婚したのだ。

ここでの生活は、静かで穏やかだ。
生徒たちは礼儀正しく、学園関係者やその家族の居苑での暮らしを、礼節を持って営んでいる。

安寧はいつも通りの朝を迎えた。
とはいえ、季節は一年のうち一番冷え込むとされる一月の中ごろ、窓から見える学園内の樹々たちは、凍えて霜が降り、まるで凍てついた冬の国の物語を綴る絵本のように、メルヘンチックに白く染まっていた。

「寒ぃ……。」

隣のベッドで眠る園田先生は、姿勢のよい寝相で、すぅすぅとまだ寝息をたてていて、それは上品なすぅすぅで、安寧は園田先生の眠りを妨げたりしないよう、そっと起き出し朝の支度を整える。冷たい水でうがいを、そして靴下をはく。
この白庭学園での習慣は、地元の小学校を卒業してから全寮制で暮らしてきた時間のなかで、すっかりと身についている。
自分のことは自分ですること。
規律を守ること。
礼を重んじること。
安寧はいまも、人とすれ違えば立ち止まり、
一礼をして挨拶をする――
静止礼の癖が抜けないままでいる。

園田先生がようやく起き出すころには、温かな赤味噌のお味噌汁と、大根やら胡瓜やらのお新香や、香り豊かな海苔などをならべ、朝餉あさげとする。
「おはようございます。先生。」
「おはよう。」
結婚して三年が経っても、夫への何気ない挨拶も会話も敬語なまま、彼が先に箸をつけるのを待っていた。

安寧の学生時代。
園田先生の古典の授業は穏やかで、効率重視のせかせかした理系の生徒たちにとっては絶好の内職(次の授業の予習や小テストの準備をこっそりと進める)の時間でもあった。けれども読書好きで、どちらかと言えばおっとりした性格の安寧(根っからの文系で、物事をすすめるにもそれなりに多めに時間を費やす)にとって先生は、何よりも今までの秩序を脅かさない、安心で安全な存在だった。今もその穏やかな印象は変わらず、手間を惜しまない彼女を、腕を組みながめながら、根気よく待っていてくれるのだ。

「今日のお昼は、どうなさいますか?」

学園の敷地内の居苑で暮らす教員たちは、担当の授業の具合によっては、家族と昼食をとることもある。あまり社交的ではない園田先生も、学園のカフェテラスでのランチより、安寧と二人で簡単な手料理とることを好んでいた。

「今日は国語科の会議で外に出るから、きっとそのまま中央亭だな。そのあとは、パルムドール。」

『中央亭』というのは、昭和からある洋食屋で、熱々の鉄板で出てくるナポリタンには卵が敷いてあり、グツグツと美味そうな音をたてながら出てくるのを想像すると、いつでもお腹が空いてくる。そして、その向かいにある喫茶パルムドールは、国語科で漱石フリークの上原先生(彼の出す通信の名前も「道草」だ)が、ことあるごとに薦めるカフェだ。

かの文豪たちが文学談義で盛り上がっていたことで有名な銀座カフェーパウリスタに似ていると言い張るのだが、実際彼らはパウリスタに足を踏み入れたことなどない。
けれど、香り高いコーヒーと、品の良い雪塩のチーズケーキも、甘すぎたりせず、小洒落た店内で語られる近代文学や古文の話題には、惹かれるものがある。帰りにはそれぞれ、洋菓子を買って帰るのが“谷崎流”だと気取って、マドレーヌを細君へのお土産にするのを洒落としていた。

家に残る安寧にとってもその時間は、ちょっとした息抜きになっていた。朝からパタパタと午前の家事を終えるやいなや、二人分の昼食を用意して待たなくてもよいということ。ほとんど、おさんどんのような日々のなかで、束の間、時間を預けられたような気がするのだ。

居苑に暮らす主婦たちの昼間は、『白庭会』主催の茶話会や「家庭セミナー」と呼ばれる隔週の集まりに出ることが、暗黙の了解となっている。
集会所で催される茶話会をはじめ、料理教室や、お茶やお花の講座など。園田先生との結婚を機に居苑人となった安寧も、例に漏れずそれらに顔を出していた。

そこで求められる立ち居振る舞いは、学園での学生生活ほど厳密ではないにせよ、どこか通じ合う秩序がある。安寧は学園の卒業生であるため、『白庭会』の常識にも自然と身を委ねることができたが、「外の人」出身の人々は、何かと勝手が違うらしかった。
挨拶の間合い、手土産の相場、声の大きさ。
そうした細部にまで、居苑人としての空気が、確かに存在していたのだ。

先日の茶話会でのこと。
居苑の新春の茶話会には、春めいた色合いの訪問着の方々が、集会所の畳敷きの部屋に集う。低い机が等間隔に並べられ、白い布巾の上に湯のみと小ぶりな菓子皿が置かれていた。
安寧は時間の10分前には、最前列から三列目の窓よりの端に座り、背筋をのばし、両手を重ねて待っていた。
幹事の方がご挨拶を始めたころ、
「失礼します。」
と、まるで生徒が職員室に入るときのような、場にそぐわないほど律儀な声がした。遅れて入っていらした方はグレーの訪問着で、畳の上を歩く音には、わずかにかかとが残る。
誰も振り向こうとはしなかったけれど、隣の方が一瞬だけ俯き、抑えきれないようにクスリと小さく笑った。そのわずかな歪みは、誰の口にも出なかった。幹事の方は、そのまま挨拶を続け、湯呑みの位置が音を立てずに揃えられていく中、安寧はその不協和音を無意識に感じ、身を固くしてしまっていた。

「ありがとうございました。」
と衣擦れの音まで揃って一礼をし、会は、お開きになった。

ふと緊張が解けるころ、安寧は肩や背中に違和感をおぼえながら、集会所をあとにする上原先生の奥様を見つけ、そっと近寄った。

「上原先生の奥様。」
「あら、安寧さん。」
「先生にはいつも主人がお世話になっております。本年もよろしくお願いいたします。」
「こちらこそ。園田先生にはよくしていただいて。上原からも先生や安寧さんのこと、よくお聞きしているの。本年もよろしくお願いしますね。」
上原先生の奥様は、しっとりとお辞儀をし、幹事の方へも労いの会釈をしてから、ご自宅へと歩いていかれた。淡い桜色のお着物の、背筋の伸びた後ろ姿は、歩幅も乱れず、周囲の視線を受け止める必要すらないように見える。学生のころ『ミス白庭』に選ばれた人だという事実が、そのまま現在まで途切れずに続いているかのようだった。

安寧は、その凛とした華やかさから、目を離すことができずにいた。
気付くと隣には、先ほどのグレーの訪問着の女性が立っていて、上原先生の奥様の姿をため息まじりに見送っていた。自然と目が合い、軽く挨拶を交わす程度だったけれど、女性は笑窪の浮かぶ、愛嬌たっぷりの笑顔を返した。内に巻いた前髪、揺れて光に反射するピアス、学園の内側ではあまり見かけない、どこか無防備な明るさ──「外の人」だと、安寧は理由もなく思った。

丁寧に会釈をして別れ、自分の家へと帰ると、腰を落ち着ける前に、足袋を脱ぎ、帯に手をかけた。
新春らしく、久しぶりに袖を通した優しいクリーム色の訪問着は華やかで、お気に入りの吉祥紋様の帯に、確かに、気持ちも新たに引き締まった。けれど一人、家で帯を解くと、それは身体に絡みつくようで、思わず、深く息を吸い込んでいた。

鏡に映るいつもと変わらない自分の姿と、あのキラキラと揺れるピアス、あの不協和音、トーンの違い。安寧はそれらから目を逸らすように、鏡の前から冷たく去った。

その後も厳しい寒さが続き、安寧は身体が強張っていたのか、いっそう肩や背中が重たく固く感じていた。園田先生がパルムドールへ出かけるという日、束の間の息抜きに、安寧には珍しく、どこかへ出かけたい気分になっていた。ピアスのあの煌めきが頭を掠める。
夕飯の支度の時間までにもどりさえすればいい。

引き出しにきちんととってあった、昨年近くにできたという『ほぐし屋整体 月あかり』のポスティングを出してきて調べる。かなり人気だと聞いていたけれど、平日の昼間ならば、ひょっとして予約がとれるかもしれない。

「はい、もしもし。」
「もしもし、あの、月あかり…さんでしょうか。」
「はい、月あかりです。あー、えと、ご予約か何か?」
「はい、あの、背中とか肩とかをほぐしていただきたくて。」
「はい、ありがとうございます。……ほぐします。」

案外あっさりと予約がとれてしまったことに戸惑いつつも、せっかく行動にうつしたのだからと、予約時間の1時間前には、安寧はいつもよりも少しだけ丁寧に、眉とリップを整え、少しだけ前髪を内に巻くようにして(イヤリングを手にしながら躊躇して)愛車の軽自動車で正門をぬけた。

ハンドルを握りながら、「ほぐします」という朗らかな声を思い出し、ふっと笑みが込み上げる。守衛の視線を背中にうけながら、久しぶりの自分のための外出に、日差しは柔らかかった。



一、白庭学園          三、月あかり

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