紫季 やわらかな三日月 第一話
【あらすじ】
白庭学園という閉ざされた秩序の中で育ち、その延長にある生活を生きる安寧は、古典教師である夫・園田にとって、光源氏が紫の上を育てたような理想の存在であった。規律と礼節に守られた日々のなか、整体師・三月との出会いが、彼女の内に微かな揺らぎをもたらす。さらに、書に真摯に向き合う後輩・三条の恋と決断に触れ、安寧は「正しさ」では測れない感情の存在を知る。滲みや余白を含む書のように、揺らぎを抱えたまま在ること。守られるだけでなく、自ら選び取り戻るという生き方へ、彼女は静かに歩み出していく。
プロローグ
ボクの鳥
鳥かごの中の鳥みたいだったから
キミが見たことのないものを
ボクは見せてあげられると
思い上がっていたんだ
自由になりたいわけじゃなかった
キミは
ただ少しだけ
外をくるりと飛びたかっただけ
ボクときたら
けれどボクだって
鳥かごにきちんと戻っていくキミが
好きだった
ただキミと
かごの外の一緒に飛んだ空が
あんまり美しいものだから
居場所じゃなかったとは
思えないけれど
制限の中に護られるものを
ボクは知らなかった
きっとボクは
鳥かごの意味すら
知らなかったんだ
一、白庭学園
白庭学園のうわさは、昨年この街に越してきた三月の耳にも入ってきていた。
「あの方は、白庭のご出身ですからね。それはお上品よ。」
と、明らかに含みのある言い方や、もっとわかりやすく怪訝な表情で、
「居苑の人でしょう?やっぱり世間知らずというか、お堅いというか。それを品格と言うんでしょうけど、こっちまで緊張してきちゃうわ。」
と、こぼされるお客さまの声を、肩や腰のつまりの改善に体重をのせながら耳にしていて、あの学園の塀の中の様子を何となく想像していた。
「宗教っていうの?全寮制っていうのも、あれよね。昔あったじゃない?そういう宗教。」
などと、怪しげな目を向けるお客さんは、続けて芸能人のゴシップを次から次へと羅列していた。
安寧から、初めて予約の電話をもらったとき、三月はその声の印象に「居苑の人」を感じたりはしなかった。ただ、受付で問診票に書かれた文字の丁寧さやゆるやかな所作、そしてあの背中(骨格自体の細さのわりに、それを覆うように筋膜がこびりつき厚みをもっていた)に触れたとき、彼女らの背負うものを感じてしまった。あの塀の中の密度を。規律や、秩序たるものを。
三月の手は、いつも人の本質に触れようとする。
安寧が何も語りはしなくとも、うつ伏せていながら時計を確認する視線、突然のランチの誘いに目を丸くしたり、無自覚な立ち位置(先にドアをくぐり手で押さえて待つけれど、人の斜め後ろをつい歩いてしまう)、必ず両手で物を受け渡し、そのたびに頭を下げる仕草が、彼女の生きてきた世界を、否応なく物語っていた。
三月は彼女の身体を時間をかけてほぐしながら、本当はどんな顔をして笑うんだろうと思ううち、時おり見せる本来の彼女の笑顔に惹かれていったのだ。学園での立ち居振る舞い、礼節、秩序に染まった彼女の、本質を知りたくなった。特別な感情を抱き始めていることにも、触れる時間が長くなってることにも、気がついていた。
毎週木曜午前の予約を、急に変更したあの日(協会のセミナーが入っていたことをうっかり忘れてしまっていたのだ)、三月は密かに願っていたのだ。彼女が、次の週へ振り替えるのではなく、普段の時間ではない夜に、ずらしてでも来てくれることを。
初めて彼女に触れたときの、彼女の浅く律儀な呼吸。その厚さ。規律や秩序を重んじるあまり、あるいは学園の生活を優先するあまり、自身の感覚から離れつつあり、それをなんとなくのただの疲れと思っている彼女。
そんな彼女を、温めなくてはとおもったのだ。
鳥かごの扉を開けて、優しく撫でるように。
私の手は、いつも温かいのだから──。
「う…。そこ、苦しいです。」
「わかってます。わかってて、しました。」
痛みや苦しみは、自覚なく身体を歪めていく。三月は深く息をしながら目を閉じ、それをありありと感じていた。
「わがままを、言ってもいいですか?」
「あんねさんの気持ちを大切にすることを、私は、わがままとは思いません。」
「三月先生と、もう少し、お話していたいです。」
「珈琲でも、淹れますね。いい豆があるんです。」
三月にしても、素敵な夜だった。
鳥かごの白文鳥が、カゴから出て、チョンチョンと肩や頭に遊ぶ、あの愛おしさを思い出していた。本来の彼女を、もっと知りたいと思った。
門限まで。
それを守ることが、彼女を守ることになる。
規律と秩序の中で生きる彼女なのだから。
23時を過ぎると、正門は守衛の手で施錠される。
それ以降の出入りには、守衛室で氏名を記し、解錠してもらわなければならない。守衛室の明かりは夜にぼぉっと灯る。
寮の部屋は質素で、持ち物は必要最低限。
礼節を持って営む生活。
安寧は、ずっとそんな場所で暮らしてきた。
