カシモフの首【小説】 Ⅴ.慰霊祭 ➀
【前章までのあらすじ】
工事たけなわの世界平和宮殿で、原因不明の火災が起こった。続いて、建設中の建物に首なし戦士の亡霊が出るといううわさが広まる。いらだつハミードフ氏。事件の背後でちらつく怪しげな若い男の影。美智は不安にかられ、ナースチャの行動に対しても疑念を持ち始める。
ケネサリー・カシモフについて読み返すうち、十年前に亡くなったある歴史著述家が美智の関心を引く。やがてハミードフ家の過去の悪行、そして敵対者の存在が浮かび上がる。
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今日だけでいったい何回繰り返しただろう。美智ははたと足を止め、また同じ愚痴をこぼした。
「ほんとにこのまま竣工式をやっちゃうのか……」
空気のこすれるような音が建物じゅうに響いていた。試験運転中の空調設備がたてる音だ。世界平和宮殿の各階を順々に回りながら、美智はあらためてがくぜんとさせられた。竣工式まであと十日を切っている。ところが、内装工事はざっと見積もって八割方しか完成していない。
並んで歩いていたオルハンが肩をすくめてみせた。
「そう心配しなさんなって。アスタナじゃ、政治的建て前がなにより大事なんだ。よくあることだよ、このくらいの段階で『竣工した』と先行発表するのは」
平然とした調子で彼は続ける。
「要は、出席者たちの目に入るところさえ出来てりゃいいんだ。式当日、大統領は正面玄関から建物に入り、大階段をのぼってアトリウム1階に現れる。奥の演壇でスピーチをする。そのあとは側面のエレベーターで地下2階まで降り、バー・エリアを通ってまた玄関から出ていく。この動線沿いのインテリアはすっかり仕上がってる」
「ほかの出席者やジャーナリストたちは? 式典が終わって内覧が許されれば、みんな最上階の小会議場まで行きたがるでしょ?」
「彼らには反対側のエレベーター・ホールを使わせる。6層目まで一気に上がるから、中間階は見せなくて済む。6階に着いたらスロープに誘導し、すぐ小会議場へのぼってもらう。会議席の輪っかの真ん中からアトリウムを見下ろしてワーワー、キャーキャー、みな大はしゃぎして満足するって寸法さ」
「アトリウムの内側は完成しているから問題ないと。でも6階でエレベーターを出たら、誰もが自然とアトリウムまわりの回廊を歩くんじゃない? そしたらフロア自体は出来ていないのがばれちゃう」
「うーん、そうだなぁ。じゃ、回廊沿いに石膏ボードを立てて、有り合わせのドアをいくつかはめ込んでおくよ。それでうまくごまかせるだろ」
美智はめまいがしてきた。この町は張りぼて以外の何物でもないという、ケネサリー・ハン報恩会のアイベクの言葉が思い出される。
さて、美智とオルハンが上階からアトリウム1階まで降りてくると、正方形の大広間の奥に十数人の黒スーツ姿の男たちが見えた。彼らはいずれも背が高く、遠目にも屈強な体つきをしていた。ある者は歩幅で距離を測るようにして歩いている。別の者は立ち止まって手帳になにか書き込んでいる。
「オルハン、あの人たちは? ずいぶんものものしい感じだけど」
「大統領警護隊の連中だよ。竣工式当日に備えて下見に来てるんだ。午後に警備のリハーサルをやるとかで、オレたちにも呼び出しがかかりそうだぜ。先にお近づきになっておくか?」
「正直うんざり。いいよ、そんなの後回しで!」
美智は首を横に振ると、その場でオルハンと別れ、ひとり大階段を降りていった。
正面玄関から外へ出て、小雨がぱらつく中を歩いた。建物の背後で造成中の庭園を見に行くためだ。設計変更によって西側出入り口がなくなったので、こうやっていったん参道を戻り、それからピラミッドがそびえる丘をぐるっと迂回しなければならない。なんともちぐはぐなことだ。
やがて砂利道の先に西側の大庭園が開けた。一番の見どころは、宮殿が立つ高台からイシム川の川べりまで真っすぐに下っていく中央園路だ。この幅広の園路に沿って、さまざまな刺繡花壇や高木の並木、カスケード、翼を広げた鳥の形をした噴水池などが配される。今日はあいにくの曇天でパッとしないが、しばらく来なかった間に造園工事は驚くほど進んでいた。
頭にタオルを巻いた中年女性が、ぬかるんだ花壇のあちこちにしゃがみこんでいる。見れば、彼女たちがせっせと植えているのは花をつけたパンジーだ。アスタナの厳しい気候だと、今ごろパンジーなど植えたところで、冬を越せずに枯死してしまうだろう。
美智はますます眉を曇らせる。
──これも儀典用か。なんでこうまでして竣工式やんなきゃならないんだ?
名ばかりの竣工式だけが問題なのではなかった。例の幽霊話はようやく収まったが、つい先日も作業員の負傷事故が起こるなど、現場では不吉なことが続いている。一方、ちまたでは、平和宮殿の用途変更についておおっぴらに語られるようになった。あのピラミッドはなにかの宗教施設になるらしいよ、と。アスタナの首都開発の奇天烈さを示す例として、在留外国人の間で話題にのぼることも多い。
宮殿の竣工式が近づくにつれ、市内一円で得体の知れない重圧が高まっていくようだった。
*
「美智、この木、どうしたの? いったいどこから……」
窓辺に立ったナースチャがつぶやいた。うわずった声で、いかにもあっけにとられたというふうに。
ケネサリー・カシモフの慰霊祭を数日後に控えたある晩のこと。ナースチャがしばらくぶりに屋敷の美智の部屋へ来た。その目はさっきから窓台に置かれた鉢植えに釘付けになっている。光沢のある葉をさわさわと茂らせたか細い木。上の枝は大きく伸び、背の高い窓の上端に届きかけている。
「ああ、それ、前にも見せなかった? たまたま種を拾ってさ、ダメ元でまいておいたんだ」
美智はネットで慰霊祭の開催場所を確かめていたが、ラップトップの画面から顔を上げて口元をほころばせた。ナースチャのそばへ行き、枝を一本つまんで手前にしならせる。その葉陰には緑色の小さな実が鈴なりになっている。
「すごいでしょ。春に植えたばかりなのに、水をやってたらぐんぐん大きくなって」
「種を拾った? どこで?」
「イシム川沿いの遊歩道。ほら、カシモフ像の近く。それにしてもなんの木だろう。この実は食べられるのかな。庭師のおじさんが言うには、ナツメの葉によく似てるって」
「そ、そう……」
青りんごに似た、甘くさわやかな香りが室内に漂った。ふと見ると、ナースチャはなぜかうつむいて両手をぎゅっと握りしめている。
「……美智、奥クルガルジノでの慰霊祭だけどね、あなたは参列を辞退してほしい」
「えっ、なんで? ぜひ来てくれって、お父さんには言われたよ?」
「アスタナから百数十キロも離れた草原の奥地なんだ。水洗トイレもないところに一晩泊ることになる。しかも、こっちへ戻ってきて、すぐ翌日が平和宮殿の竣工式。そんな強行軍につき合うなんてばかげてる」
「ナースチャ、私、アスタナから一歩も外へ出たことがないんだよ。遊牧民の古建築にも興味あるし、奥クルガルジノ、行ってみたいよ」
「とにかく黙って言うとおりにするの」
「またそうやって頭ごなしにやり込めようとする。……決めた。せっかくの機会だもん、必ず参列する」
美智がムキになって言うと、ナースチャはすっと懐に入り込んできた。気づいた時には彼女に両腕をつかまれ、壁に強く押しつけられていた。
「何度も念を押したよね、美智? これ以上深入りしないでって」
その琥珀の瞳に火が入り、黄金色に輝き始める。
「あなたはアスタナに残っていなさい」
「嫌だ。行くったら、行くんだ。あ、痛たたたっ」
手首をねじられ、美智は高い声をあげた。実際には、痛いというよりむしろ驚いたのだが。ナースチャが白い上下の歯をきしらせる。
「私はあなたのためを思って──」
「ちょっと、どこからそんな力が出てくるわけ? やめて! いくらナースチャでも怒るぞ。やめろってば!!」
美智はばたばたともがき、やっとのことで身を振りほどいた。鼻をすすり上げつつ、断固として言う。
「私、カシモフの慰霊祭にはなにがなんでも出席するから。ああ、楽しみぃ。今から待ちきれない」
「もう! どうしたら言うことを聞いてくれるの?」
整った顔をみるみるゆがめ、ナースチャは力なく腕を下ろした。彼女は美智の肩に額を預けると、しばらくの間はあはあとあえいでいた。Vネックセーターの広い襟ぐりからうっすらと汗のにおいが立ちのぼる。
美智は壁に背をもたせてじっとナースチャを抱きとめた。ぐったりしているにもかかわらず、その体躯はバネのような弾みを伝えてきた。引き締まった背中の真ん中を一本の縦筋が走っているのが感じ取れる。それは弓なりに反って腰のくぼみまで下りていく。
「あっ、ごめん」
はたとそこで我に返り、美智はナースチャの体から両手のひらを浮かせた。ナースチャがもそもそ身をよじり、気だるげに顔を上げた。
「ううん、すてきだよ、そうやって手を添えるの。その背骨の付け根あたり」
熱っぽくかすれた声で言うと、ナースチャはほおから胸、腹、ひざまで、ぴったり密着させてきた。
「美智、聞いて。お願いだから奥クルガルジノ行きはあきらめて、アスタナで待っていて。そうしたら、そうしてさえくれたら……」
その甘い言葉は美智の頭にじかに響いてくる。
──ねぇ、平和宮殿の竣工式が終わったら、二人きりで海外へ遊びに行こうよ。イスタンブールとか、どう? 誰も知らない町で、ひと月くらい羽を伸ばそう。アヤソフィアやブルーモスク、巨大な地下貯水池……。ううん、観光なんてしなくてもいい。ただ毎日、ベッドの上でごろごろして過ごすんだ。
きっとすごく楽しいよ。人目を気にせず、したいようにできるよ。美智の思うまま、どんなことでも。さあ、もう難しく考えるのはやめなさい。ただただ私の言うとおりに従えばいい……。
脳の中に手を突っ込まれ、意識をまさぐられるような感覚があった。一つ一つ心のタガが外れていく。でも、理性ではわかっていた。ダメだろ、これは。
ふと思い浮かんだのは、あの歴史の本に描かれたカシモフの人生最後のひと幕だ。捕虜となった彼に言い寄る美しいキルギスの娘。亜麻色の澄んだ瞳をした彼女は、実は敗軍の将の子を宿すことを命じられている。政治的目的のために、意に添わぬまま演技をしているのだ。もちろん、カシモフにはそんなことはすっかりお見通しで──。
美智はナースチャの体を抱きしめながら、穏やかに、しかしきっぱりと言った。
「ナースチャ、一緒に慰霊祭へ行こう」
美智の首に腕を巻きつけたまま、ナースチャがびくりと痙攣した。彼女は肩を落とし、今にも消え入りそうな声で尋ねた。
「美智、私のこと、欲しいんじゃなかったの?」
「もちろんあなたが大好き。心から欲しいと思う」
「じゃあ、どうして? こっちではね、『もらえるうちにもらっておけ』って言うんだよ」
「ハハ、身も蓋もないな。"Бери, пока дают"だっけ? でもナースチャ、あなたにふさわしくないよ、こんな取り引きみたいなのは。私、あなたの世界をもっと深く知りたい。だから一緒に奥クルガルジノへ行こう」
「も、もっと深くって……」
「それで、ここに帰ってきてから今晩の続きしよ。心置きなく、たぁ~っぷり時間をかけて。ね?」
ナースチャはゆっくりと体を離し、小首をかしげるようにして美智の目をのぞき込んだ。それから不意に人差し指で美智の鼻頭を弾いた。
「痛っ」
美智は顔を押さえて目をしばたたいた。今度こそ本当に痛かった。ナースチャは無言できびすを返すと、そのまま真っすぐ部屋を出ていった。
──でかした、美智。よく言ってやった……。
内心でひそかにささやき、美智は壁に背をつけたままずるずると床に座り込んだ。
☞ 次回へつづく
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