カシモフの首【小説】 Ⅴ.慰霊祭 ②
草原での慰霊祭の日が来た。
抜けるような秋晴れの空のもと、参列者たちはハミードフ邸本館の車寄せに集まった。今回の催しは公には伏せられているので、慰霊団の規模は必要最小限のものだ。その顔ぶれはハミードフ家の面々と美智、それに──。
「やあ、はじめまして。あなたが美智さんですか。おうわさは伺っておりますぞ」
遅れてそこへ現れたのは、豊かな銀髪を揺らした、見上げるように大きなロシア人男性。高級そうなスーツを着込み、黒いタイをきっちり締めている。彼は駐カザフスタン・ロシア大使、ミリューチンと名乗った。なれなれしく手を取ってくる大使に美智が面食らっていると、後ろでカリムがいかにもいまいましげに舌打ちをする。
一行は三台の黒塗りのランドクルーザーに分乗し、正午過ぎにアスタナを出発した。先頭の車にはハミードフ氏、ワンガ、カリムが乗り込んでいた。カシモフの首はおそらくこの車に積まれている。二台目には美智とナースチャ、ロシア大使が乗っている。三台目の車は後部座席をすべて折り畳み、儀式の際に使われる器材を満載していた。
先頭車と二台目の車の運転手は、美智が初めて見る男たちだった。灰色の迷彩柄の戦闘服というものものしい格好。いずれも三十前後で、中背ながらたくましい体つきをしている。一人はロシア系、もう一人はカザフ系だ。彼らが慰霊祭の警備を務めるらしい。カリムとはタメ口で話していることからも、特段の信頼を得た者たちだとわかる。
二十分と行かないうちに、車列は市境検問所に差しかかった。それを通り過ぎると、真っすぐな道路の左右にだだっ広い平原が開けた。文字どおり三百六十度、地平線の彼方まで見晴らす眺望だ。
今年の秋は例年になく暖かい、とカザフ系の運転手が言った。美智は後部座席から窓外を見まわし、はしゃいだ声をあげた。
「わああ、草がまだ緑色! 夏の名残さえ感じられる」
隣に座る大使がにこやかに応じる。
「アマテラスの国から来られた美智さんのおかげではないかな、太陽の恵みがこれほど長続きするのは」
助手席のナースチャはといえば、スウェットシャツのフードを目深くかぶり、むっつり黙りこくったままだ。
車はひたすら南西へと向かった。途中、いくつか小さな集落を走り過ぎた。まず、道沿いのねじ曲がった防風林の向こうに、さびついた給水塔が見えてくる。次に、白い木柵に囲まれたレンガ造りの家がちらほらと続く。そして荒れ果てた役場前広場に出れば、小さなレーニン像がぽつんと忘れられたように立っている──そんな集落だ。
都市から遠くなるにつれて道路の舗装は悪くなった。ランドクルーザーはいつしか深いわだちが刻まれた砂利道を走っていた。前の車両が土煙を巻き上げる。それを避けようとして運転手は速度を落とす。夕刻近くになって、慰霊団はようやく奥クルガルジノの寒村に到着した。
──ここ、ほんとに地球?
車を降りた時、美智は生まれて初めて、手つかずの空気というものをかいだ。
わずかに起伏する荒野に、トタンぶきの平屋が三十軒ばかり散らばっている。地面は白っぽい葉色の草に覆われているが、あたりには木が一本も生えていない。そばを流れる川のほとりにも灌木すら見当たらない。たまたまその低い場所に水が集まっているだけ、といった感じ。寂しいを通り越して、もはや超然とした風景だ。
たわいない空想が浮かぶ。かつて故郷である太陽系を追われた人類。うち一部は銀河をさまよったあげく、とある辺境の惑星に流れ着いた。ここはその末裔が細々と暮らす隠れ里なのだ──。
村長だという初老の男性が現れ、慰霊団一行を自宅へ招き入れた。今晩の祭儀には、彼をはじめ、村の代表者も何人か参加するとのこと。上がりかまちがあるわけではないが、日本のように玄関で靴を脱ぐ。廊下の壁の傾きに目が留まる。自分たちの力だけで建てた家なのだろう。平らではない床には、擦り切れたじゅうたんがつぎはぎに敷かれている。
通されたのは、客間兼用の居間らしかった。長くつなげた座卓の一方の端に、地元の人々が五、六人着いていた。がやがやと騒がしい中、見覚えのある顔を目にして美智は驚いた。向こうも美智に気づき、会釈を送ってくる。がっしりした体躯に四角い頭を載せた五十男。ケネサリー・ハン報恩会のアイベクだった。
その場で一同にお茶とちょっとした軽食が振る舞われた。ひと息ついたのち、みなは二人三人と連れ立って外へ出た。徒歩で川下のほうへ向かう。儀式が行われる廟を見に行くのだ。
「美智さん、お久しぶりです」
アイベクが後ろから追いついてきて、美智の横に並んだ。「実は私、このあたりの出身なんですよ。今日は慰霊祭の準備を手伝うため、朝からこっちに戻っておりました」
「手伝う? そんな、それではまるで他人事みたいじゃないですか」
なんの気なしに言ってから、美智は慌てて口をつぐんだ。アイベクは大きな体をこごめるようにして歩きながら、
「共同主催者として列席させていただくことになりましてね。ハミードフ氏の思慮深い取り計らいで」
美智はにわかにアイベクが気の毒になった。考えてみればおかしな話だ。本来ならカシモフの正統な子孫である彼こそ、祭事の主役となるべきだろう。その座をハミードフ氏に奪われ、くやしい思いをしているのではないか。こっそりと横目でうかがったが、穏やかな顔から特にそういう感情は読み取れない。
ほどなく家並みが切れ、村はずれの草地に立つ廟が遠目に見えてきた。十九世紀前半に建立されたというそれは、小ぶりで素朴なレンガ造建築だった。ホールケーキ用の箱を思わせる真四角の躯体、その上に載った半球形のドーム屋根、正面につけ足された玄関ホール、あるいは前室。
はたと思い出したのは、ナースチャとともに訪れた東京・表参道での建築展だ。今、目にしている廟は、あの展覧会で紹介されていた建物の一つによく似ている。
あたりを見まわせば、すでに半壊したものも含め、似たような古廟がいくつか距離を置いて立っていた。不思議なものだ、と美智は心打たれた。遊牧民たちは移動式の天幕で日々を暮らしながら、死者のためにはレンガで永続的な建物を造ろうとしたのだから。
先を行くワンガほか数人が廟の入り口をくぐるのが見えた。日の入りに備え、建物のまわりにはかがり火をたく用意ができていた。背後の空にうっすらとした三日月が懸かっている。
その時、少し前を歩いていたナースチャがふと立ち止まった。彼女はくねくねした踏み分け道の先の廟をじっと見つめていたが、美智たちが近づくと同時に振り返った。
「慰霊祭が始まるのは、まだだいぶあとになりそう。美智、ちょっと村の外へ散歩に出かけない?」
「散歩って……、これから廟の祭壇のしつらえをするんじゃなかったの?」
「見たところ、人手は足りているようだよ。行こう。近くにきれいな湖があるんだ」
ナースチャは美智のほうだけを向いて話しかけた。まるで隣に立つアイベクが存在しないかのように。美智はアイベクがますます哀れになった。気まずさを取り繕って彼に頭を下げ、そそくさとその場を離れた。
美智とナースチャは来たばかりの道を引き返し、村長の家に戻った。ナースチャは裏木戸を開け、誰に断ることなく勝手に中へ入っていった。美智はわけもわからぬままあとに続く。なにやら鼻をつく動物のにおい。見れば、人けのない庭の隅に粗末な馬小屋があり、一頭の栗毛の馬がつながれている。
「ナ、ナースチャ、まさかこれに乗って行こうと?」
「ここは幹線道路から遠く離れている。ガソリンも軽油も簡単には手に入りにくい。車より馬のほうが身近な移動手段なの」
上下左右に動く栗毛の頭を器用によけながら、ナースチャはその長い首をなでさすった。それから小屋の奥へ行くと、大きな鞍を持って戻ってきた。シートが前後に連なった二人乗り用のものだ。彼女は鞍を馬の背に載せ、順を追って革製の腹帯を締めていく。
「この子はとても力持ち。女二人なら一緒に乗せても心配いらない。うまい具合に私たち、今日はスカートじゃないしね。これでよしっと。さあ、まず美智が前のシートに乗って」
「ええっ、私が前? ムリムリ! これまで一度も馬に乗ったことないんだよ?」
うろたえる美智をよそに、ナースチャは馬を小屋の外へ引き出した。
「素人は前。あなたのほうが背が高いから私は視界を遮られるけど、まあ、どうってことないでしょ」
すべらかに光る馬の毛艶。触れるより先に伝わってくる体温。美智は覚悟を決め、大きな馬体の横に立った。言われたとおり、片手でたてがみをつかみ、もう片方の手を鞍の上に置いた。なんとかあぶみに足を掛ける。が、位置が高すぎてうまくよじのぼれない。ナースチャが残ったほうの足の靴底を両手でよいしょと持ち上げてくれた。
鞍にまたがって周囲を見まわし、美智はうわわっ、と悲鳴をあげた。怖いほどの視点の高さだ。ナースチャがくすくす笑いながら馬を引いていく。通りに出たところで、彼女は地面を蹴って勢いよく後ろのシートにのぼってきた。
美智を背後から抱くようにして手綱を握るや、ナースチャは廟とは反対方向に馬を向けた。彼らは閑散とした村の中通りを一気に駆け抜けた。川沿いの土手道を上流へと進む。いくらも行かないうちに、流れが幾筋かに分かれ、川底がところどころあらわになっている場所に出た。馬はざぶざぶと水に入り、しぶきをあげて浅瀬を渡り始めた。
「ちょ、ちょっとナースチャ、私、落ちる。落ちるってば!」
「美智! 両脚のふくらはぎで馬の体をしっかり挟んでっ」
川を越えてからしばらくの間、陽が傾いた草原を走った。鞍の前の突起をつかみ、背中をナースチャに支えられていても、美智の体は絶えず大きく揺れつづけた。やがて緩やかなのぼりに差しかかると、馬の速度がようやっと落ちてきた。
どっちを向いても短い草が生えているばかりの荒野。その波のようなうねりの、ひときわ高くなったところをのぼりつめる。突如として眼下に開けた眺めに、美智はあっと目を見張った。浅いすり鉢状のくぼ地の底に、大きな湖が鏡のごとくぎらぎらと輝いていた。
二人を乗せた馬は、なだらかな斜面を回り込みながらゆっくりと下っていく。
「さっきさ、村長の家でお茶と一緒にパンが出たじゃない? あれ、すごくおいしかったな」
美智は砂の上に脚を投げ出し、後ろ手で体を支えつつ言った。そのひざを枕に、ナースチャが仰向けに寝そべりながらつぶやいた。
「あの場でそう言ってあげれば、みんな喜んだのに。彼らがここで自分たちのために作ってるんだ。パンも、バターも」
二人は湖のほとりの、ちょうど草地が切れて砂の斜面になるところにいた。後ろから最後の夕日が射し、穏やかな湖面を斜めに照らしている。美智が眺める向こう岸の平原は、すでに濃紺の夜空と溶け合いつつある。
「やっぱりワンガ様が祭祀を取り仕切るんだね。さすがに今回は男の人が出てくるかと思ったけど」
「もちろん、彼女はイスラム教の聖職者とは違う。でも、誰も文句を言わないのは、あの村が父の援助を受けているから。こんなへんぴなところなのに携帯電話が使えるのもそう」
なるほど、と美智は腑に落ちた。どうりでアイベクがハミードフ氏に頭が上がらないわけだ。
「それにしてもワンガ様、ずいぶん顔色が悪いように見えた。足元もますます危なっかしい感じ」
「おばあ様にとって、今夜の仕事が祈祷師人生の締めくくりとなる。本人もそう思っているはず。彼女が唯一望むのは、カシモフの魂を安息の場までエスコートすること。それが自分に与えられた務めだと……」
滑らかに曲がっていく湖岸線に目を凝らしても、やはり低木はおろか、水草のたぐいさえ見当たらなかった。貝殻ひとつ落ちていない清潔な砂浜がどこまでも続いていた。まるで、ランドスケープの3Dモデルを作ろうとして、地形と水面だけ仕上がったところで放り出したかのような風景だ。静かな波が寄せては引いている。
「昔、ここで、ロシア帝国の軍隊が夜営をしたことがあった」
ナースチャが半ばまぶたを閉じたまま言った。
「陽が沈む間際、指揮官がふと湖の対岸を見ると、白い建物がたくさん立ち並んでいた。大きな町を発見したと思って、次の朝早くに攻め込んでみた。けど、そこにはなにもなかった。ただ草原が広がっていただけ」
「一夜にして消えた遊牧民の都市か。ふふ、天幕の群れを町と勘違いしたわけだ」
「ステップではね、目の前にはっきり見えるものだって、けっして当てにはできない。一陣の風によって、あっという間に様相が変わる。今、あなたが眺めているこの湖も、実をいうと幻みたいなものなんだ。これは流れ込む川を持たない、雨水と伏流水だけで出来た水たまり。だからある時期が来ると消えてしまう」
「消える、この大きな湖が? えーっ、ほんとに?」
「そう、跡形もなく。言ったでしょ。目の前にあるものは、目に映るとおりとはかぎらない。このあたりには、こういう湖がたくさんある」
ナースチャは思いのほかよくしゃべった。砂の上に手脚を伸ばし、いっそう暗くなった空を見上げながら。日の入りから時間がたつにつれ、湖面の向こうから一つ、また一つと星がのぼり始めている。
ひと晩で天地の間にかき消える町、そして湖の話は、美智に新首都アスタナの定かならぬ将来を思わせた。不動であるはずのものが、そんなにもはかないなんて。では、人はいったいなにを頼りに生きていくというのだ。
ナースチャの頭の重みをふとももに心地よく感じていると、今度はなぜかあの若い男のことが脳裏をかすめた。かつて東京・歌舞伎町で、そして火災直後の平和宮殿で見かけた背の高い男。いつもかいま見るばかりで、はっきりと姿をとらえられない謎の男。ナースチャはこうして自分の懐の中にいる。今なら彼のことを話してくれないだろうか。
迷ったあげく、美智は言った。
「ナースチャ、好きな人がいるんだね」
ナースチャは質問には答えず、例の冷ややかな調子で返した。
「美智、アスタナに残るよう、父に勧められたんでしょ。いけないよ。竣工式が終わり次第、なるべく早く東京へ戻ったほうがいい」
何度聞いたか知れない彼女の決まり文句。それはあらためて耳にしても、胸がきりきりと痛むことに変わりはなかった。人に体を預けながら、こういう言い方ができるところがこの子の真骨頂だ。
美智は顔をしかめてつばを飲み込んだ。
「また、それ? で、続けて言うんでしょ、『あなたはここで建築家としてのキャリアを無駄にしている』って。もう聞き飽きた。そんなに、そんなに私が迷惑?」
「違う、そうじゃない」
ナースチャが体をねじって美智の手首に触れ、下から真っすぐ見つめてきた。
「聞いて、美智。建築ってたぶん、『悪』と関係している」
「……悪? 悪って、善悪の悪?」
「そう、私たちの手に負えないほど深い悪。避けられるなら、ぜひとも避けるべき。ここにいると、それと関わらずにはいられなくなる」
「急にどうしたの。なにか具体的なこと? あっ、あの家政婦長さんの事件、あれはもしかすると──」
「うむ……、私が言いたいのは建築の悪について。建築の中に初めからある暗い面というか、力というか。日本ではね、そんなこと考えなくていいんだ。少なくとも今のところ、その力は眠らされているから。でも、この地では、それは解放されていて……」
ナースチャの声がいったん途切れる。淡く黄色い瞳が夜風に揺れる。「美智、アスタナで世界平和宮殿のような建物を造るということは、たとえば東京で美術館を設計するのとはまるで違う。それは知らないうちにあなたを変えてしまう。あなたがあなたでいられなくなる」
いったいなんの話かと美智はいぶかった。悪、建築の悪、悪の建築……。ナースチャが言わんとしているのは、文明が抱える宿痾とか、そういうたぐいのことだろうか。環境破壊や、富の偏在といったような?
美智が黙っていると、ナースチャはなにか思い出したように声の調子を変えた。
「ねえ、去年の夏、平和宮殿の国際コンペが行われた時、どんなふうにして美智の設計案が選ばれたと思う?」
「えっ、ナースチャ、コンペの審査に立ち会ったの?」
「私、あの時、父に言われてサンクト・ペテルブルグから一時帰国していた。彼と一緒に首都開発公団主催の審査会へ行くと、各国から送られてきた数十の図面パネルや模型が並べてあった。父はね、会場に入ってすぐ、あなたの出展作品のほうへ歩いていったよ。ごく自然と、まるで吸い寄せられるみたいに。そして図面をひと目見るなりこう叫んだ。『これだ。ああ、これだ』って」
宮殿の国際設計競技の選考過程について聞くのは初めてだった。東京事務所のボス、アレックスも知らないだろうその舞台裏とくれば、おおいに興味をそそられる。
「審査は十五分かそこらで終わった。議論されたのは美智の作品だけ。ほかのは見向きもされなかった。あなたの設計案と父の意志が出会った時、そこに誰もあらがえない強い流れが生まれたんだ。建てるべきはこのピラミッドだ、っていう流れがね。私はとても怖い。そんなふうにあなたが選ばれたことが。父に選ばれるということは──」
「待って待って。ハミードフ氏の鶴の一声で、私たちの事務所の案が選ばれた。彼の強引さを示す話だと思うけど、それが『建築の悪』とどうつながるの?」
「前にも言ったとおり、あなたの設計はハミードフのような権力者を引きつけるんだよ。建築は人間の手によって、人間のために造られる。でも、時には廟としての平和宮殿のように、人を超えたなにかに供されることもあるでしょう? あなたは幾何学を形而上学的なやり方で用いるから、とりわけそういった課題に向いている」
「私は一介の建築家としてこの計画に参加しているだけ。お父さんの政治目的に奉仕してるわけじゃ……」
「あなたが悪いとは言っていない。そもそも、人間を超越したスケールを扱うことは、古くから伝わる建築の美の核心だものね。でも、場合によっては、それがアダとなる。父のような者、許される基準から外れて他人を支配しようとする者たちと関われば、結果として悪と結びついてしまう。連中の秘めた願望に、目に見える形を与えてやることで」
息急くような調子でナースチャは続けた。
父は才能のある者を巻き込み、大きな事業を動かすのがうまい。官僚、ビジネスマン、学者、芸術家、はては祈祷師。これまでさまざまな人々が父に協力し、そして消耗していった。どれほど大きな見返りを得たにせよ、最後に彼らを襲ったのはきまって後悔の念だ。だから美智、いつまでも長居してはいけない。父に選ばれるということは、まったく別の世界に入り込むということ。知らず知らずのうちにそれまでいた場所から踏み出して──。
ナースチャの言うことは、美智にはわかりそうで、やはりよくわからなかった。別の世界とは?
「……たしかにこっちへ来てからは、びっくりさせられることばかり。でも、新興国の現場で実務に触れるのも、私みたいな駆け出しにはいい経験だよ」
美智はできるだけ明るく答えたが、その言葉はいかにも安っぽく響いた。ナースチャはがっかりした様子だった。彼女が寂しげにほほえむ。そういうことじゃないんだ、というふうに。
残照が消え、あたりはますます暗くなっていた。星々がビーズをまいたように大空に散らばっていた。さわやかな微風が肌をなでる。二人を乗せてきた馬は、少し離れたところでのんびりと草をはんでいる。
ナースチャが美智のふとももから体を起こし、湖面に向かってひざを抱えた。
「美智がうらやましい」
「私? 私のどこが?」
「だって、あなたはやりたい仕事に就いて、自由に生きてるでしょ。自分の運命を自分で決められる。うらやましいよ。私はここでがんじがらめだもの」
「そんな立派なものでもないんだけど、私の実情って。それよりナースチャこそ設計の才能があるよ。望めばなんだってできる。どこでだってやっていける。がんじがらめだなんて、ただの思い込み。心の持ち方次第で変えられるはず」
「私は変わることはできない。むしろ変わってはならないんだ、とにかく今は」
「どういう意味? なにもそこまでかたくなにならなくても」
ナースチャは静かに首を振った。
「あなたと東京で働いていた時、私は幸せだった。たぶん、これまでの人生でいちばん……。あれは必ずしも本当の私じゃなかったけどね。ときどき思い出しては、ひとりでにっこりする。あの時間がずっと続いていればよかったのに」
驚きのあまり、美智の胸は痛いほど高鳴った。
──なぜ今ごろになってそんな告白を? だったら一緒においでよ、ナースチャ! そして私と、私と二人で暮らそう……!!
美智が両手を握りしめ、あごを震わせているうちに、ナースチャはさっさと立ち上がってしまった。服に付いた砂を払いながら彼女が言う。
「時間だよ。行こう」
☞ 次回へつづく
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