カシモフの首【小説】 Ⅴ.慰霊祭 ③
美智とナースチャが村に戻ったころには、もうすっかり夜のとばりが下りきっていた。馬は村長の家に返した。二人は川の水音を聞きつつ、廟のほうへと急いでいく。まだ陽のあるうちに一度歩いた道だが、今は淡い月と星明かりだけが頼りだ。
途中、美智はぎゃっと悲鳴をあげ、にわかに足を止めた。真っ暗な夜道の脇から無数の目が、らんらんと光る目が美智を見ていた。それは羊たちだった。先刻は空だった家畜の囲い場に、放牧から帰った数十頭の羊が入れられていたのだ。立ったままのもの、横になったもの、そのそばにくっついている仔羊。彼らはさまざまな姿勢をとりながら、頭はいっせいにこちらへ向けている。
美智がすくみ上がっていると、ナースチャが手を差し出してくれた。彼女は夜目が利くらしい。ふと見れば、その琥珀色の瞳もまたいっそう輝きを増している。
やがて満天の星のもと、行く手に廟のファサードが赤々と浮かび上がった。
建物前の小広場ではかがり火が焚かれ、夜空を焦がさんばかりに火の粉を噴き上げていた。さらに近づくと、それはやはり東京・表参道のギャラリーで見た廟だった。間違いない。展示室に一つだけ模型が置いてあったが、今、目の当たりにしているのはまさにあの廟だ。
廟の本体である墓室は、ざっと十メートル四方、高さ七メートルといったところ。窓は見当たらない。軒蛇腹にはのこぎり歯のようなギザギザのレンガ積み装飾が施されるが、それを除けばきわめて単純な箱型をしている。この四角い箱の上に、椀を伏せたようなきれいな半球のドームが架かる。また、正面には独立した前室が張り出しており、先のとがったアーチ型の入り口がぽっかりと開く。
これらすべてが赤褐色の焼成レンガで造られているが、その表面は長年の風雨にさらされてかなり傷んでいた。
「百五十年以上前に建てられた草原のパンテオンか。いいプロポーションしてる」
美智は笑顔でナースチャのほうを振り向いた。ナースチャは無言のまま、ちらっと建物を見上げただけだった。村長宅で着替えを済ませた彼女は、上品なひざ丈の黒いワンピースをまとっていた。両耳には、東京でもつけていた銀の唐草模様のイヤーカフが光っている。
バチバチとはぜるかがり火のまわりで、十数人の男女が談笑していた。彼らの長い影が廟の外壁にゆらめく。正面入り口のそばに小型発電機が置かれ、ケーブルが中へ延びている。屋内で火を燃やすのは危険だから、電気照明を持ち込んだらしい。少し離れたところに、アスタナから来たランドクルーザーのうち二台が停まっている。短機関銃のようなものを体に掛けた警備員たちの姿も見える。
そこへ頃合いよろしく、廟の中からハミードフ氏が現れた。彼に促され、参列者たちは一人また一人と入り口のアーチをくぐっていった。
美智が続いて建物に入ってみると、内部は想像よりずっと狭かった。トンネルのような前室を通って墓室に至る。ここも幅より高さが勝った、縦長の空間になっている。それを強調するのがドーム天井、そしてその頂部に設けられた円形の開口部だ。ただし、穴の直径はわずか五十センチほどにすぎない。
天井の小さな開口を別にすれば、墓室にはやはり窓が一つもなかった。その代わり、奥と左右の壁三面に、それぞれアーチのついた壁龕があった。装飾的な要素とはいえ、壁の厚みを活かしたかなり彫りの深いものだ。シングルベッド大の祭壇は、部屋の中央ではなく、奥の壁寄りに位置している。これもレンガ造りらしいが、今は青いビロードの布がかぶせてある。両側に一台ずつ、スタンド型の仮設照明──四本組の蛍光灯を縦に配したもの──が置かれ、室内はじゅうぶんに明るい。
カシモフの首は祭壇のちょうど真ん中に据えられていた。ハミードフ邸の応接室で初めて見た時と同じく、上部が半球状になった円筒形のガラスケースに収まったままだ。左右から光を受け、レンガ壁の赤と祭壇の青の対比の中にあって、それはなおのことまがまがしい妖気を漂わせていた。
美智はじっと見やる。ほぼ髑髏といってよい、二つの暗く落ちくぼんだ眼窩を。
──死後一世紀半もたってから、またあちこち引っ張りまわされるなんて……。これじゃ、ケネ君も心が休まらないよねぇ?
さて、参列者たちは祭壇に向かって横三列に並んだ。ハミードフ氏と村長が最前列の中央に立った。美智とナースチャは、同じく最前列の右端だ。
後ろを向けば、アイベクがごつい体をそわそわと動かしながら笑いかけてくる。二列目に甘んじたことをまったく気にしていないふうだ。憧れのご先祖様と初対面を果たしたのだから、彼の興奮ぶりは当然といえば当然か。その隣では、さらに頭一つ分背の高いロシア大使が前列越しにじっと前を見つめている。
やがてワンガが祭壇の前に進み出た。彼女は黒地に緑で唐草文様をあしらったローブをまとっていた。頭にはいつものように白いスカーフ。だが今夜はその上に、真鍮色のメダルがじゃらじゃらと揺れる髪飾りを重ねている。
美智が気をそそられたのは、祭壇の上の手近なところに置いてある小さな金だらいだった。中になにか赤っぽいものが入っていた。見たところ、それは赤色やオレンジ色の太い飾り紐を束ねたもののようだ。持ち手の部分は一本により合わせてあるが、先のほうは房のようにばらけて水を吸っている。長さは三十から四十センチくらい。
ワンガがたらいを片手に持ち、もう一方の手で飾り紐を振るって、参列者たちに水をかけ始めた。彼女は房の部分をハミードフ氏の肩や村長の胸に打ちつけた。しぶきがあちこちに飛び、人々の口から歓声が漏れる。ロシア大使がまごまごしている。顔にかかった水をぬぐっていいものかどうか迷っているらしい。
お浄め(?)が終わると、ワンガは祭壇上のカシモフの首と正面から向き合った。しわがれた声がその小さな背中から流れだし、いよいよ祈祷が始まった。
脚を開きぎみにして立つ老祈祷師。両腕は脇に垂らしているが、ひじから先を体から離し、手指も外側に向かって開いている。どこか夢遊病者を思わせる姿だ。口の中でなにかぶつぶつと言葉を唱えつつ、時折床を踏み鳴らすようなしぐさをする。もちろん美智には呪文の意味はわからない。ただ、韻が踏まれていたり、くり返しがあったりするのが聞きとれるだけだ。
ほかの参列者が一様に頭を垂れる中、美智はひとり、すすけたドーム天井を見上げた。
目を引くのはドームの支持方法だ。墓室の四隅、壁のそう高くない位置からレンガがせり出し始め、上に向かうにつれて、四角い部屋の輪郭がまず八角形に変化する。それがさらに上段で十六角形、三十二角形へと移行し、ついには滑らかな円となってドームに連続しているのだ。正方形の部屋に丸天井を架けるための単純なやり方は、この建築に土着的な素朴さと力強さを与えていた。まるで手で泥をこねて作ったかのような。
──頂部に穴の開いたドーム建築。これは、当時の遊牧民が持っていた独自のシャーマニズム的宇宙観を示すものです……。
東京の建築展で聞いた音声ガイドの声が、耳の奥で鮮やかによみがえった。あらためて感慨に打たれる。あの円窓、空へと開いたトップライトからカシモフの魂を迎え入れるのだ、と。
人の魂は死とともに肉体から分離する。それは折に触れて墓廟に飛来し、祭壇の下に埋められた遺体との再統合を果たす。展示室の壁に掛かっていた手描きの断面図──。ナースチャが言ったとおり、あそこに描かれていた鳥のシルエットは、天から地上に戻ってきた死者の魂のメタファーだ。
ドームの内側に突き出ている木の竿は、建設時に用いられた足場の名残にすぎない。しかし時代が下ると、天窓から墓室に入った魂が、鳥のごとくこれに止まって休むと考えられるようになった。いわば「聖なる止まり木」として、信仰の対象ともされたという。
カザフ草原にイスラム建築が伝来した時、それはこのような形で中央ユーラシアの遊牧民文化と結びついた。当地の祈祷師や占い師は、イスラム教の神秘主義者に姿を変えながら、土着の霊魂崇拝を保ちつづけてきた。ワンガはそうしたシャーマンの最後の生き残りであるわけだ。
十分ほど過ぎても、祈祷はまだ続いていた。美智は隣に立つナースチャの様子を横目でうかがった。彼女はうつむいて目を閉じていた。が、よく見れば、まぶたがぴくぴくひきつり、薄く開いた唇も小刻みにわなないている。
──どうした、ナースチャ。緊張してるのか……?
と、そこで突然明かりが消え、墓室の中が真っ暗になった。参列者たちの間から大きなどよめきが起こった。喧噪に紛れて、ワンガの祝詞はふつりと立ち消えた。
「一同、静かに! その場から動くな」
カリムの声が響いた。
美智は精いっぱい目を凝らしたが、ほとんどなにも見えなかった。ドーム頂部の開口は、星明かりが入るには小さすぎた。外のかがり火の光が前室を通してわずかに漏れてくるものの、それもおおかたは後列の参列者の体に遮られている。
人々をかき分け、カリムは墓室を出ていったらしい。気がつくと、それまでずっと聞こえていた小型発電機のエンジン音が途絶えていた。彼は発電機の様子を見に行ったのだ。機械本体の故障か。ケーブルが断線したか。いずれにせよ、予定外の問題が生じたのは明らかだ。
暗闇の中、みなは外へ出たくて、背後にばかり注意を奪われていた。一方、美智は祭壇のほうを向いたまま、身じろぎせずに立っていた。しばし息苦しい時間が流れる。
不意になにかがすぐ前をかすめて通る気配があり、美智ははっとたじろいだ。暗がりに乗じて動くおぼろな影。それは素早い身のこなしで祭壇の向こう側へ回り込んだようだ。警戒心にかられ、とっさにナースチャの腕を取って後ろに下がらせようとした。が、伸ばした右手は、ただむなしく虚空をつかんだだけだった。
美智が思わず息をのんだその時だ。廟の入り口からまばゆい閃光が射し込み、耳をつんざくすさまじい轟音がとどろいた。
地震のように建物が揺れ、室内の空気が震えた。続いて天井からモルタルがばらばらと落ちてきた。いくつもの悲鳴が同時にあがり、参列者たちは前室に向かって殺到した。まさに恐慌状態だ。体と体がぶつかり合い、切羽詰まった声が飛び交う。一人か二人が転倒したらしく、混乱はいっそう激しくなった。
「戻れ、戻れ! 誰も建物から出るんじゃないッ」
カリムの声が入り口のほうから聞こえてきた。我先に外へ出ようとする人々を、力ずくで押し返しているようだ。暗い墓室にはもうもうとほこりが立ちこめ、息もできないほどだった。美智はなんとか前室へ逃れ、人だかりの後ろから背伸びした。
入り口のアーチを通して、炎上するランドクルーザーが見えた。正面広場の端に停まっていた二台のうちの一台だ。濃い黒煙が噴き上がり、ごうごうとうなりを立てている。警備員たちが駆けつけ、消火器で火を消し止めようとしている。
「あの車は? なにが起こったの?」
美智は人の間を縫い、カリムに歩み寄って尋ねた。カリムが炎に包まれた車に目を釘付けにしたまま言う。
「前触れもなく、いきなり爆発した。爆弾が仕掛けられていたんだ、車体の下に」
「ばば、爆弾って……、そんな、いったい誰が──」
「いったいこれは何事だ、カリム!」
そこへハミードフ氏が人を押しのけて割り込んできた。早口のロシア語でのやりとりが続く。まるで聞き取れない。美智はあきらめて、その場にいる参列者たちの顔を見わたした。彼らは建物から離れることも、屋内に戻ることもできず、玄関アーチの下で身を寄せ合っていた。
──あれ、ナースチャは?
人々の中にナースチャの姿がないことに気づき、美智は慌てて廟の内部を返り見た。と、ようやくナースチャが奥の墓室から前室へ出てきた。彼女は腰をかがめ、ワンガを抱きかかえるようにして支えていた。髪が汗で額に貼りつき、息も弾んでいるが、その表情は実に平然としたものだ。
「よかったぁ、けがしてない? 私、さっきは建物が崩れるんじゃないかと……」
美智が二人の無事に安堵の息を漏らしたのもつかの間、出し抜けに馬のいななきが響きわたった。あたりの空気をびりびりいわせるほど澄みきった声だ。驚いて振り返り、アーチ越しに黒い夜空を見上げる。
警備員の一人が外から駆け寄ってきて、カリムに向かってなにか叫んだ。カリムの顔色が変わった。彼は警備員について廟の側面へと走っていく。また馬の短い鳴き声が聞こえた。建物の後ろからだ。
美智は男たちのあとを追って玄関を飛び出した。危険だとか、そんなことを考える余裕もなく。
転ぶような勢いで正面ファサードの角を回った。とたんに、すぐそこで立ちすくんでいたカリムの背中にぶつかりそうになった。カリムはあっけにとられたように廟の裏手を見つめていた。かがり火の明かりがほとんど届かない夜の草原。美智がその暗い深みに目を凝らすと、ちょうど何者かが馬を駆って川下のほうへ走り去るところだった。
わああっはっはっは──!
悪魔のような高笑いをあげながら、人馬の影は無限の闇の中に消えていく。
「こ、これはまさか……」
カリムがつぶやき、がくがくと後ずさりした。彼はそのままきびすを返し、廟の正面へ駆け戻っていった。残されたのは、遠くかすかにこだまするひづめの音。それも途絶えてしまえば、不気味な沈黙が草むらの上を漂うばかり。
疑う余地はなかった。つい今しがた、なにかしら決定的なことが起こったのだ。
美智が廟内へ引き返し、再び墓室に入った時、カリムは奥の祭壇のそばにひとりぼうぜんとたたずんでいた。その手には懐中電灯が握られ、壇上へ円い光を投じていた。青ビロードの覆い布には一面ほこりが積もっている。先ほどまでそこに置かれていたカシモフの首は、ガラスケースもろともこつぜんと消え失せていた。
肩を震わせてカリムがうめく。
「どうして、どうしてこんなことになるんだ。ここは密室だったはずだ! そうだろう、あんた?」
美智はカリムの手から懐中電灯を取り、祭壇のまわりを調べてみた。隅々までなめるように床上を照らした。が、やはり首はどこにも見つからなかった。小さな手がかりのひとつすら。
混乱した頭で考える。
──あの馬に乗った男がカシモフの首を奪っていったというの? でも、どうやって?
停電の直前まで、首は間違いなく廟の最奥部、つまり墓室内の祭壇の上にあった。停電が起こってからは、カリムが前室の玄関アーチの下に立って参列者たちを封じ込めた。誰も何一つ外へ持ち出すことはできなかったはずだ。しかも、美智とカリムが初めてその姿を見た時、くだんの男は建物の後方、つまり入り口の反対側にいたではないか。
カリムは憤怒の形相で墓室を出ていった。彼が大声で警備員を呼び、指示を出しているのが聞こえてくる。
全員の点呼とボディー・チェックが行われる間、美智はほかの参列者とともにまたもや前室に留め置かれた。ワンガはひどく疲れているようで、床に座り込んで小さな背を壁にもたせかけていた。目は固く閉じられ、半開きの口からよだれが垂れている。ナースチャが老婦人の前にひざをつき、ハンカチで口元をふいてやっていた。
砂ぼこりで汚れていても、ナースチャの横顔は端正だった。そこに見てとれたのは、なんとも不思議な穏やかさだ。血の気の失せた唇には淡いほほえみさえ浮かんでいた。
☞ 次回へつづく
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