カシモフの首【小説】 Ⅴ.慰霊祭 ④
がたがたと鳴る窓辺に立ち、美智はカーテンの隙間から外の様子をうかがった。夜半の草原では、急に天気が崩れだしていた。くすんだガラスの向こうに闇が渦を巻く。砂混じりの雨風が吹き始めている。
美智が留まっているのは、村のとある有志の家。アスタナから来たカシモフ公慰霊団のために貸し切りになっているものだ。慰霊祭のあと、村長宅でするはずだった夕食会は中止され、代わりに料理を盛りつけた大皿が何枚もここへ届いた。それらは今、ほとんど手もつけられず、配膳台の上に放り出されている。
カシモフの首を奪われたことで、居間に集まった一同は途方もない重圧のもとにあった。
カリムはテーブルの上に身を乗り出し、大きく広げた地図をにらんでいた。隣にアイベクが立ち、村周辺の道路網について説明した。ハミードフ氏は壁際に並べられた椅子の一つに座り、じっと腕を組んだままだ。同じく椅子に腰掛けてうつらうつらするワンガ。ナースチャがそのそばにかがみ込み、寝室へ移るよう諭している。
ロシア大使が美智に近づいてきて、熱い紅茶をついだ茶碗を手渡してくれた。
「美智さんもあっちの椅子で休まれてはいかがですか。さすがにお疲れでしょう」
遠慮がちに大使が言った時だ。警備員の一人が息を切らして外から戻ってきた。
「まるでだめだよ、カリム。暗すぎて一寸先も見えやしない」
「とことんやってみたんだな? ちくしょう、夜が明けてから追いかけるしかないか……」
カリムは苦しげに言い、地図の上で両手をぐっと握りしめた。ハミードフ氏が後ろからいらだった声をあげる。
「首にはGPSが仕込んであるんだろう? どうしてすぐに奴の居場所がわからんのだ」
「だから父さん、それは──」
カリムが説明を試みた。
カシモフの首が収められたガラスケースの台座には、たしかにGPS受信機が取りつけてある。受信機は人工衛星から信号を受け取り、自らの位置を確認する。ところが、その位置情報をこちらへ通報するのは、受信機に組み込まれた携帯電話モジュールだ。つまり、賊が携帯電話の電波が届かない場所にいる間、GPS受信機とは連絡が取れず、それはまったくの役立たずなのだ。
「そんな言い訳などどうでもよい!」
ハミードフ氏はいっそういきり立った。カリムがむしろ冷めた調子で返す。
「心配ないよ、父さん。道路沿いの少し大きな村なら、どこにでも携帯電話の基地局がある。奴だって電波の網の目から逃れつづけることはできない。すぐに引っかかるさ」
彼らはとても早口で話したので、美智はまたもその内容についていけなかった。ロシア大使が小声で通訳してくれる。と、ずっと静かだったワンガが突然、なにか矢継ぎ早に言い放った。大使は一瞬口をつぐみ、遅れてそれを英語にした。
「これでカシモフ公は一度ならず、二度までもご自身の首を無くされたわけじゃ。かつてはキルギスやコーカンドの奸物ども、こたびはそのコーカンドの末裔たるうぬらのせいで。この国にとって、ハミードフ家とは災厄にほかならん。いつの世においてもな」
ハミードフ氏の顔がみるみる赤黒く染まる。
「ぬうぅ、カリム! おまえの大失態だ」
「俺は最初から首を屋敷の外へ持ち出すことに反対していただろ。それに、だいたいあの状況で盗み出すなんて、内部の者の手助けなしには不可能だ」
カリムのせせら笑うようなその言葉で、一同の間に冷たい緊張が走った。ハミードフ氏はたじろぎ、自信を失ったように声を落とした。
「誰だ、誰が裏切ったというのだ」
「ふん、父さんは自分でもわかってるんじゃないのか?」
「どういうことだ。お、おまえ、言うに事欠いてよもや……」
二人のやりとりを聞きながら、美智は考えつづけていた。
廟には窓がなく、出入り口は正面に一つだけ。慰霊の儀式が行われている間、途中で入ってきた者も抜け出した者もいなかった。いったい誰が、どうやってカシモフの首を盗み出したのか? 実をいうと、美智にはもうその答えがわかっていた。
東京・表参道の建築展で初めてあの廟の模型を見た時、美智は分厚い外壁の一部が中空になっていることに気づいた。今思えば、あれはたぶん隠し階段だ。のぼり口は祭壇の後ろ、壁龕の中。定期的にドームの補修ができるよう、屋根へ通じる通路が壁の内部に仕組まれているのだろう。廟はもともと完全な密室ではなかったわけだ。
犯人は建物の構造に精通しており、しかも慰霊祭の手順を知っていた者。暗闇の中で対象を見分けることができる者。人がやっと通れる幅の階段を駆け上がれるほど、ほっそりとして敏捷な体の持ち主だ。参列者の中にそんな人間は、思いつくかぎり一人しかいなかった。
美智は犯行の手順を頭の中でたどってみる。
儀式の最中に明かりが消える。
暗闇の中、彼女は祭壇に忍び寄ってカシモフの首をかすめ取り、奥の壁龕から隠し階段をのぼる。
何者かが遠隔操作で廟の前に停まっていた車を爆破。正面ファサードの両端にいた警備員たちが驚いて駆けつける。
警備員が持ち場を離れたすきに、草むらに隠れていた男が廟の後ろの壁に張りつく。
屋根に出た彼女は、地上から見とがめられぬよう身を低くして移動。ドームを回り込んで建物の後端まで来ると、真下にいる男に向かって首を投げ下ろす。この間ずっと、人々の注意は正面広場で炎上する車に向けられている。
男は首を受け取り、くぼ地に隠していた馬に乗って廟を離れる。
彼女は隠し階段から墓室へ戻り、廟内に足止めされていた参列者の中に紛れる──。
とその時、ばたばたとまた靴音がして、美智は思考を中断された。部屋に飛び込んできたのはもう一人の警備員だ。
「これを見てくれ。廟の後ろの壁際に落ちていたんだが」
警備員の男が腕を差し出し、一同の前でゆっくりと手のひらを開いてみせた。
そこには美智にも見覚えのある品が載っていた。大ぶりな銀のイヤーカフ、ツタ柄の唐草模様を透かし彫りにしたあの古風なイヤーカフだ。ナースチャがはっと身を引き、片方の耳たぶに手をやった。カリムは勝ち誇ったように笑いだした。ハミードフ氏は椅子から腰を浮かして目を見張る。
その場に居合わせた全員がナースチャに視線を注いだ。彼女は左の耳にだけカフをつけ、右のそれは無くなっていた。
与えられたベッドに横になったものの、美智の頭は冴えわたってくるばかりだった。
イヤーカフのことが露見したあと、カリムはハミードフ氏に人払いを願い出た。ハミードフ家の面々を除き、人々は速やかに居間から退出した。だから、続いてどんな論争が繰り広げられたかは、すべて想像に任せるしかない。
まず、カリムがこう主張しただろう。カシモフの首を盗んだのはナースチャが知っているあの男で、彼女がなんらかの方法で手を貸したに違いない。廟の後ろに落ちていたイヤーカフがなによりの証拠だ、と。
ナースチャは兄の言葉を突っぱねる。カフを落としたのは、湖から戻って廟のまわりを歩いた時だ。慰霊祭が始まってからは、自分は墓室から一歩も出なかった。なのに、どうやって祭壇にあった首を賊に手渡せたというのか──。
ハミードフ氏は大いに逡巡したことだろう。ただ、ナースチャのほうが明らかに分が悪い。美智の考えどおりだとすると、ナースチャがイヤーカフを落としたのは、彼女が廟の屋根から首を投げ下ろした時だ。隠し階段のことを知れば、ハミードフ氏もいずれ同じ結論にたどり着く。
しかし、と美智は思った。では、祈祷の最中に停電するよう、発電機に細工をしたのは誰か。ランドクルーザーに爆弾を仕掛けたのは誰なのか。
慰霊祭の準備が行われている間、ナースチャは美智と一緒に湖のほとりにいた。彼女にそんな機会がなかったのは確かだ。といって、馬に乗って逃げたあの男のしわざとも思えない。夕方以降、廟のまわりには、村人たちに加えて二人の警備員がいたはず。部外者が近づけば、きっとすぐ見つかっていただろう。
結局、美智は一晩中まんじりともしなかった。明け方近くになってやっとうとうとした時、空からヘリコプターの爆音が聞こえてきた。ハミードフ氏がアスタナから自家用機を呼んだようだ。
美智は布団を出て居間へ行った。廊下から部屋の中をのぞくと、カリムと警備員たちが銃の用意をしていた。窓の外には、二台のランドクルーザーが軒下に身を寄せるようにして停まっているのが見える。
「連中、ぴりぴりしていますよ。いまだ賊の居場所を突き止められないらしくて」
戸口に立っていたロシア大使が、そっと耳打ちして教えてくれた。カリムの指揮のもと、これから文字どおり見切り発車で追跡が始まるのだ。また、アイベクがこの追討隊への参加を申し出たという。
美智がナースチャの姿を探していると、そこへハミードフ氏が現れた。氏の顔は土気色で、血走った目の下にはどす黒いくまが浮いていた。
「美智、私は急いでアスタナに戻って、大統領と相談をせねばならん。明日の世界平和宮殿の竣工式をどうするかも含めてな。まもなくヘリが出発する。君も乗るんだ」
「ナースチャはどこですか。彼女と話をさせてください」
美智の強い訴えに、ハミードフ氏はむっつり口をつぐんでうなずいた。カリムがちらりと目をよこしたが、異を唱えることはしなかった。
警備員が美智を手招きし、廊下の突き当たりにあるドアの鍵を開けた。そこは窓のない物置のような部屋で、ペンキの入った容器や石灰を詰めた袋がところ狭しと置いてあった。奥の壁に沿ってマットレスが床板の上にじかに敷かれている。ナースチャはその真ん中に座り、脚を胸元に引き寄せていた。着替えさえ許されなかったのか、昨夜着ていた黒いワンピースのままだ。
青白い蛍光灯の光のもと、美智はナースチャの前にひざをついた。そのあごに手を触れ、うつむいた顔を上げさせた。よほど強く打たれたのだろう。片方のほおが大きく腫れ、紫色のあざができていた。唇の端は切れて乾いた血がこびりついている。
ナースチャはマットレスをぽんぽんとたたき、美智を隣に座らせた。それからまるで他人事のような口調で言った。
「私もカリムと一緒に行くことになった」
ハミードフ氏は断を下したのだと美智は悟った。ひと晩で氏の愛娘から裏切り者へと地位を落としてしまったナースチャ。彼女は追討戦における事実上の人質となる。
「ほんとにあなたがカシモフの首を盗む手助けをしたの?」
美智は声の震えを抑えて尋ねた。ナースチャが小さく肩をすくめる。
「さあ、どうなのかな。美智はそう思う?」
「またそんなふうにはぐらかす。わかっていたけどね、ちゃんと答えてくれないことは。じゃあ、別の質問。竣工式が始まるまでにはアスタナに戻ってこられそう?」
「それはちょっと難しいかも。手ぶらで帰るわけにはいかないだろうし」
「……ねぇ、ナースチャ、私はどうすればいい? なにかできることはある? いつもみたいにズバッと言ってよ。ほら、例のあれ。『四の五の言わずに黙って従いなさい』ってやつ」
ナースチャがくくっとのどを鳴らして笑った。裂けた唇の痛みに顔をしかめながら。
「美智、あなたは私に付き合ってこんなところまで来てくれた。こんな深い場所、世界の果てみたいな奥地まで。それだけでじゅうぶん。いろいろきついことも言ったけど、本当に感謝してるんだ」
「私はもうお役御免ってこと?」
「あなたにはアスタナでの最後の仕事が待っている。平和宮殿プロジェクトの行く末を見届けるという仕事。あなたの夢、あなたが手塩にかけた建築でしょう」
「ナースチャの建築でもある。あれは私だけじゃなくて、私たち二人の夢だよ」
「私たちの?」
「そう、二人で一緒に分かち合う夢。ナースチャ抜きの平和宮殿なんて考えられない」
「オーケィ、なら今回は特例。自らの意思にもとづいて竣工式の準備を美智に委ねる。私にはまだ、この場に留まってやらなきゃならないことがあるから。私の分までしっかり目に焼きつけてきて。二人の夢が実を結ぶところを」
ナースチャはそれまで見せたことのない表情をしていた。憑き物が落ちたような、なにかが吹っ切れた顔だった。彼女は美智の手首を取ると、その手の甲に自分のほお──無傷の側──をこすりつけた。うっとりとまぶたを伏せ、口元に柔らかな笑みを浮かべつつ。
「美智、私は自分の境遇をこれっぽっちも悔やんでいない。もうここまで来たら、あなた自身、心残りのないようにね……」
ナースチャを物置に残して居間へ戻ると、美智はほどなくヘリ出発の号令を聞いた。家の外に出たとたん、朝の風の冷たさにはっとさせられた。やはり都市部に比べ、この地では秋の深まりが格段に早いようだ。
紺色の機体のヘリコプターは隣の空き地に待機していた。定員は五名。前席に操縦士とハミードフ氏、後席にはワンガを真ん中に挟んで美智とロシア大使が座った。防音も兼ねるからと、ヘッドセットを着けさせられる。すぐにプロペラが回り始め、轟音とともに振動が伝わってきた。
美智は窓越しに粗末な平屋建ての家を見返した。と、カリムに続き、ナースチャがポーチの軒下に出てきた。もちろん、迷彩服姿の警備員に付き添われて。彼女は風にあおられる髪を押さえながら、徐々に浮上する機体を見上げている。
ヘリが空中で向きを変えると、ナースチャの姿は見えなくなった。家屋も村も、あの古い廟も小さくなり、たちまちのうちに視界から消えた。
アスタナに着くまでの間、美智は上空から朝日に輝く草原を眺めた。
送電線が縦横に延び、それを支える鉄塔の列がどこまでも続いている。たくさんのわだちが乾いた地表に入り乱れている。屋根を失って壁だけとなった建物が点々と見える。人が去り、廃墟となった旧ソ連時代の集団農場の跡地だ。煙がくすぶるごみの埋め立て地。生活排水が流れ込み、よどみきった湖……。
美智はようやく腑に落ちた。ステップ草原とは、手つかずの自然でもなければ、無人の荒野でもない。ステップとは、少なくともアスタナ以南のこのあたりでは、さまざまな問題を抱えた人々がうごめき、日々あくせくと働いている濃密な空間だ。
抜けるような青空と、見わたすかぎり広がる地平線。緑の野に散らばる遊牧民の白いテント。羊の群れを追っていく牧童の日焼けした笑顔──。これまでカザフスタンについて、そんな絵葉書のようなイメージを引きずってきたことが恥ずかしかった。
自分はこの国のなにを見ていたのだろう。
ナースチャのなにを見ていたのだろう。
次々と思い出す。雪の降る東京・歌舞伎町で、往来の激しい車道の真ん中に立ちつくしていたナースチャ。世界平和宮殿の現場では、高所から転落しかけた美智を体を張って救ってくれた。ピラミッドの火事の際、彼女はアトリウムで棒立ちになり、火に包まれた小会議場を見上げていた。先日は屋敷の美智の部屋へ来て、やみくもに身を任せようとした。
美智は唇を結び、声を出さずに泣いた。
──ナースチャ、私はあなたのことを何一つ知らない。何一つわかっちゃいないんだね……。
その時、ひざに置いた美智の手の上に、しわだらけの小さな手が重ねられた。美智ははっと驚いて隣を見た。ワンガはそのままの姿勢で身じろぎもしなかった。老婦人は薄目を開けてじっと前を向いている。思いのほかふくよかな手肌を通じ、暖かい体温が伝わってくる。
嗚咽が漏れそうになるのをぐっとこらえ、美智は再び窓の外に目を移した。ヘッドセットから耳障りな響きをともなって操縦士の声が聞こえてきた。
「今、ラジオノフカ村を越えた。アスタナ帰着まであと六分」
赤茶けた大地に鳥のような影を落とし、ヘリコプターは首都をめざして一直線に飛びつづけた。
☞ 次回へつづく
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