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カシモフの首【小説】 幕間: ドミトリー、電話連絡をとる

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 ドミトリーが朝、シャワーを浴びてから、濡れた髪をふいていた時のこと。
 机の上に投げ出してあった携帯電話が慌ただしく鳴り始めた。タオルを首に掛け、彼は電話を手に取った。ケネサリー・カシモフの慰霊祭へ行っているミリューチン大使からだ。
 ここはアルマティ市のドスティック通り沿いにある「ホテル・カザフスタン」。旧都を代表する高級ホテルの一室だ。ドミトリーのアルマティ滞在は当初の予定よりだいぶ長引いていた。
「聞いて驚くな、ドミトリー」
 草原からの電波がとぎれとぎれに大使の声を伝えてくる。ドミトリーは危うく電話を取り落としそうになった。
「なんですって、昨晩のうちにカシモフの首が盗まれた?」
 大使は慰霊祭で起きた出来事を一つ一つ順を追って話した。それは驚くべき内容だった。時折質問を挟みながら、ドミトリーは注意深く耳を傾けた。
「そうですか、最後は不審者が馬で……。つまり、犯人の身元は不明なんですね」
「若い男ということしかわかっていない。ハミードフはなんと娘アナスタシアの共謀を疑っている。確たる証拠はないようだが」
 シャハノフ・ミュージアムで見たあの家族写真がドミトリーの脳裏をよぎる。
「とすると大使、明日の世界平和宮殿の竣工式は? やはり中止になるんでしょうか」
「いや、それももう遅いだろう。招待状はすでに各国大使館へ届いている。ハミードフは建前どおり国際会議場として式の準備を進めつつ、どうにかして明日の朝までに首を取り返すつもりらしい」
「可能ですかね、そんなことが」
「わからん。やっこさんも気の毒にな。これまで大統領の腹心中の腹心と見なされてきたが、今回の件でその地位も崖っぷちだ」
「もしこのまま首が出てこなければ、ハミードフとの秘密協定はどうなるんです?」
 平和宮殿の竣工式では、カシモフの首のロシアからの正式返還が発表され、これを受けて大使がスピーチを行うことになっていた。何度もすり合わせを行ったすえに、ハミードフとロシア側との間で合意したものだ。
「協定はおのずとご破算になるだろう。だが、それがどうしたというんだ? カシモフの首が消えてなくなれば、もはや誰とどんな取り決めを結ぶ必要もない。ロシアにとっては、むしろ願ったり叶ったりだ。違うかね?」
 大使のあっさりした答えが返ってきた。この件はもう片づいたといわんばかりだ。ドミトリーは深々と肩で息をつき、
「我々は傍観を決め込んでおればよいと」
「そういうことだ。首が出てくるもよし、出てこないもよし。ところで君の予定は?」
「今日いっぱいこちらで調査を続け、明日朝一番の便でアスタナに戻るつもりです。ちゃんと間に合いますよ、竣工式が始まる十時には」
 通話を終えてからドミトリーは窓辺に立ち、しばしぼんやりと建て込んだ街並みを眺めた。眼下を広く真っすぐな通りが駆け上がっていく。市域の南を縁取る緑豊かな里山。そのずっと向こう、薄もやの漂うかなたに天山の白い峰々が連なっている。
 カシモフの首がハミードフのもとから奪い去られた──。
 いったん起こってしまえば、それはまったく予期せぬ出来事でもなかった。今やはっきりしたのは、カザフスタン国内にハミードフに敵対する者がいるということだ。そう考えると、なにもかも合点がいく。平和宮殿での不審火や奇怪な亡霊のうわさ。これらはすべて、首をハミードフ邸の外へ引っ張り出すために仕組まれたのではなかったか。
 紆余曲折を経て、カザフ・ハンの遺骸をめぐる一連の事態もいよいよ終盤に入ったようだ。が、その核心を明らかにするには、まだひとつ確かめなければならないことが残っている。

 ドミトリーはホテルを出ると、車の往来の多いドスティック通りを歩いてのぼっていった。アルマティの東寄りを南北に走るこの大路は、かつてはレーニン通りと呼ばれた町の目抜き通りだ。金色の冠飾を戴くホテル・カザフスタンの高閣をはじめ、ソ連時代に建てられた大ぶりなコンクリート建築が並ぶ。
 歩道に沿って列をなすケヤキやコブニレの大木は、わずかに紅葉し始めたばかりだった。頭上を覆う枝葉は厚く、その合間から木漏れ日が落ちてくる。ドミトリーの背中はもう汗ばんでいる。
 彼がこれから訪ねようとするのは、このドスティック通りからちょっと入ったところにあるアパートメント。作家シャハノフの従弟に当たる人物の宅だ。シャハノフ・ミュージアムの管理人グリミーラに紹介を頼み、数日待った結果、今日ようやっと訪問がかなうことになった。もっとも、従弟当人は三年ほど前にがんで亡くなっており、今ではその年老いた両親が住んでいるとのことだが。
 シャハノフ夫妻の死後、一人息子のダニヤルはこの従叔父のもとに身を寄せた。散り散りになっていた関係者に話を聞き、ドミトリーが得た結論だ。が、そのあとがわからなかった。両親を一度に失った十代半ばの少年が、まったくなんの痕跡も残さず突然身をくらます──。ソ連崩壊前夜の混乱期とはいえ、そうそう起こることではない。
 玄関の呼び鈴を鳴らし、ドミトリーはこぢんまりとした室内へ通された。
 居間のソファで差し向かいに座ったのは、七十歳近い故人の父親だった。ほつれた白髪に渋色の肌。苦労を刻んだしわ深い目元。老父は不器用な手つきで紅茶をつぐと、ティーカップをドミトリーのほうへ押しやった。
「そりゃあ君、アルマティはアスタナとは比べられんよ。十九世紀のコサック砦から出発したという点では同じでも、都市基盤やなんやかやの積み重ねが違う。気候もずっと穏やかだしな」
「本当に気に入りました。首都でなくなってからもこの町に残りたがる官僚が多いと聞きましたが、なるほど、さもありなんというところですね」
 ドミトリーは人当たりのよい笑顔を浮かべ、いつも持ち歩いている偽名刺を差し出した。自分はロシアから来た雑誌記者で、カザフスタンの現代史について書いている。今、シャハノフの短い評伝に取り組んでいるのだが、その妻子をどう扱ってよいかわからず困っている──。ひととおりうそを並べると、彼は本題に取りかかった。
「ご子息のヌルボラットさんは、亡くなった従兄夫妻の忘れ形見をいっとき手元に預かっておられた。ご存知でしたか?」
「いや、もちろんあいつはシャハノフと付き合いがあったが、そういうことまでしたかどうかは……」
「一九九一年の春から夏にかけてのころです」
「もちろんよく覚えとる。シャハノフの死は大ごとだったからな。だが、ダニヤルはてっきり母方の親戚に引き取られたとばかり……。このアパートにいたとは、まるで気がつかんかったよ。当時、わしら夫婦はここから車で一時間半ほどのカプチャガイというところに住んでおった。そうちょくちょくアルマティへ出てきたわけではなかったんだ」
 やはりというべきか、ここでもたいしたことは聞き出せそうになかった。
 ドミトリーはティーカップに口をつけ、それから居間のしつらえを見まわした。廉価品だが、よく整理された家具類。白いしっくい壁に写真が何枚か掛かっている。彼は老父に断りを入れて席を立ち、そのうちの一枚に顔を近づけた。
 そこに写っているのは、縮れ髪をした温厚そうな三十代後半の男だ。場所は彼の職場だろう。シャツの袖をまくり上げた姿で事務机の前に座り、カメラに向かってにっこりとほほえみかけている。机の上には奥行きのあるブラウン管式のディスプレイが見える。一九九〇年代半ばに撮られたものらしい。
「ヌルボラットさんは官職に就いておられたんですよね。ご結婚は?」
「独り身のままだった。ソ連末期の混乱で婚期が遅れた口だ。頼まれると断れない性格でな、あれこれ忙しくしているうちに体を壊してしまって」
 老人の声に深い落胆の色が入り混じる。
 ふとドミトリーは思い至った。彼とヌルボラットはまったくの同世代だ。この男が歩んだ最後の十年がありありと想像できる。ソ連崩壊の動乱期には、結婚どころではなかった。カザフスタン独立後は、身を賭して難局に当たれなどと言われ、膨大な仕事を押しつけられた。またたく間に月日が過ぎ、気がついた時にはすでに不治の病にむしばまれていた……。
 ドミトリーは別の写真に目を移した。土ぼこりにまみれた郊外の建築現場。ヌルボラットは建てかけの家の前で労務者たちと肩を組んで笑っている。
「彼、具体的には、どんなお仕事をされていたんです?」
「移民を管理する部署で、オラルマンの世話というか支援というか、そういうのをやっとった」
 老人の答えにドミトリーははっと振り返った。半ば駆けるようにしてソファに戻る。
「なんですか、オラルマン、というのは?」
「うむ、オラルマン(Оралман)とは、カザフ語で『帰還者』という意味だ。昨今じゃ、永住目的でカザフスタンに移入してくる外国籍のカザフ人のことを指す。つまり、在外カザフ人で、新たにカザフスタンに住みたいと願う人たちだね」
 その説明はドミトリーをいささかがっかりさせた。このヌルボラットが外国への移住者を扱う仕事をしていたなら、少年の海外逃亡を手助けしたということもありえたのだが。
「海外からの移入カザフ人ですか。へえぇ、どんな国から来る人が多いんですかね?」
「ウズベキスタン、モンゴル、中国の新疆。特に中国から来る連中は苦労しとったよ。カザフ語は話せるのにロシア語ができないもんで、なにをやってもなかなかうまくいかない。これが祖国の実情だっていうんだから、まったくひどい話だ」
 カザフスタン政府が在外カザフ人に本国への帰還を奨励している──。そんな記事をどこかで読んだのを、ドミトリーはようやく思い出した。
 帝政ロシアおよびソ連時代、現在のカザフスタン共和国の領域へ大規模なロシア系移民が流入しつづけた。一方、もとからそこにいたカザフ遊牧民は定住を強制され、独自の経済基盤を失ってその数を減らす。歳月が流れ、一九九一年末の独立の時点で、国内におけるカザフ人とロシア人の人口は拮抗していた。
 こうした状況を変え、カザフ人の多数派としての地位を固めるべく始まったのがオラルマン政策だ。十九世紀以降、入植者に土地を追われた遊牧民が、周辺諸国で大きなカザフ人居留地を形成している。ウズベキスタン東部、モンゴル西端のバヤン・ウルギー県、中国新疆ウイグル自治区、などなど。今こそ彼らを新生カザフスタンへ呼び戻そうというわけだ。
 ヌルボラットの移民局での仕事は、「帰還者たち」の住居の確保、職業訓練、子供の就学などにおいて、彼らを物心両面から支援することだったという。

 ドミトリーは老人に礼を言ってアパートメントを辞した。腕時計を見ながらドスティック通りに戻り、流しのタクシーをつかまえた。乗りつけた先は、通りをずっと下ったところにあるロシア総領事館だ。
 通信室に入ると、ドミトリーは衛星回線を使ってサンクト・ペテルブルグの部下リューダを呼び出した。
「ディーマ、言いつかっていた件だけど」
 画面の向こうで彼女が先に口を切った。
「カザフスタンの入国管理局のデータベースに侵入できたよ。過去一年間の入国者をすべて洗った。該当する名前はなし」
 いつもどおりの手際よさ。リューダの顔は、音声に少し遅れ気味に動いている。ドミトリーは取り立てて落胆するでもなく、むしろにこやかにうなずいてみせた。
「まあそんなところだろう。当人は名前を変えている可能性もある」
「ねえ、本気で信じてるの? その作家の一人息子がアナスタシアと示し合わせてカシモフの首を奪ったと」
「もちろん大まじめだ。大使の話によると、ハミードフはアナスタシアの事件への関与を疑っている。要するに、奴には心に思い当たるところがあるんだよ。もしシャハノフの息子が首泥棒の主犯なら、これは個人的な復讐ということになるな」
 ドミトリーは先ほど聞き込んだオラルマンの話を伝え、そのうえで自分の推理を披露した。
「いろいろな事情を考え合わせると、このヌルボラットという男は在外カザフ人コミュニティーとつながりがあったはずだ。彼はそれを利用して従兄の息子をかくまったんじゃないだろうか。たとえば、周辺国に住むカザフ族のもとへ養子に出すなどの方法で」
「つまるところ、ダニヤルはハミードフの魔手から逃れるため、祖国へ向かうカザフ人の流れを逆にさかのぼったってこと?」
「そうだ。ひょっとすると、両親が殺されたというはっきりした証拠をつかんでいたのかもしれない。それによって、すぐに身を隠さなければならないほど危険な立場にあったとしたら……」
「国を出た少年はこの十年間、姓を変えてモンゴル、あるいは中国のカザフ人自治州で暮らしていたと」
「ウズベキスタンやトルクメニスタンではないだろう。旧ソ連圏はハミードフの目が届きやすい」
「ちょっと待って。その在外カザフ人の帰還事業って、一九九一年十二月のカザフスタン独立のあとに始まったんでしょ? ダニヤルが姿を消したのは、独立の半年前のことだよね?」
 リューダが思案顔で首をひねった。ドミトリーはぐっと画面に身を乗り出す。
「いや、よくよく聞いてみると、オラルマンの受け入れ計画はソ連崩壊よりも前から進められていたらしい。カザフ指導層が独立を見越していたか、あるいはその機運を焚きつける意図があったかもしれないな」
「きな臭い話」
「ともあれ、ダニヤルは潜伏先で育ち、復讐の機会を待ちつづけた。なんらかの方法でアナスタシアと連絡を取り合いながら。そして十年が過ぎ、ペテルブルグからカシモフの首が持ち込まれた時、彼は満を持してカザフスタンに戻ってきたんだ。どうだい、この筋書きは?」
「うーん、どこか作り事めいていて、不自然な感じがする」
 リューダは疑わしそうに鼻を鳴らし、
「アナスタシアがその間ずっとダニヤルを支えてきたというのが、どうもね……。母親が妾とはいえ、彼女はハミードフの実子だよ。子供のころの初恋の相手のために、血のつながった父と兄を裏切れるかな。いくらあの子が特別な人間だとしても」
「そういわれると、たしかにそのとおりだな。ハミードフ家の家門に逆らうのは並大抵ではないはず。アナスタシアにとっては自らの生存基盤を捨てることを意味する。なにかよほど強い動機があったとしか……」
「いずれにせよ、ダニヤルの足取りを追うのはむずかしいんじゃないの? ウイグルの独立運動を抱える新疆は、中国にとってアキレス腱だ。調べようにも、協力なんか得られやしない。モンゴルのほうはなんとかなりそうだけど、これもまず上を動かして、正式に事を進めないと。どうする?」
 部下の冷めた声で、ドミトリーはにわかに現実に引き戻された。そこまでするには及ばない。どのみち明日の竣工式はカシモフの首抜きで行われる。そして遅かれ早かれ、本件はロシア連邦保安庁の手を離れるだろう。
 ドミトリーが黙り込んでいると、リューダが冗談とも真面目ともつかない口調で言った。
「ねえディーマ、いったいどれだけ長いことペテルを留守にしてると思っているの。いいかげんそろそろ帰ってこないと、オフィスにあなたの椅子が無くなっちゃうよ。私、そんなの嫌だよ……」
 青みがかった画面の中で、リューダはもじもじと視線をそらしている。おてんばなマレットヘアは相変わらず。小さな男の子のようなそのむくれ顔を見ていると、ドミトリーのほおは知らぬ間に緩んでくる。
 頭の後ろで手を組み、ドミトリーは椅子の背もたれに深く寄りかかった。疲れたかすれ声が自然と口から漏れた。
「そうだな。もう時間切れ、か」

☞ 次回へつづく


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