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カシモフの首【小説】 幕間: アナスタシア、賊の追討に同行する

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 目を閉じれば鮮やかによみがえる。遠く過ぎ去ったある春の日、その一場面──。

 遅い午後の日差しを受け、街の背後に連なる山並みが輝いていた。ぎざぎざとした白い尾根がピンク色に染まりつつあった。窓の外が明るいためだろう、病室の中はかえっていっそう暗く感じられた。庭木の枝先から鳥のさえずりが聞こえてくる。
 生死をさまよっていた夫人は、ようやく意識を取り戻した。その体は、顔といわず、腕といわず、赤紫色の斑でくまなく覆われていた。彼女は頭をわずかに傾け、ベッドのそばに立っている子供たちを見やった。一人はひょろりと痩せた少年、もう一人は三つ編みのポニーテールの少女だ。
 そこへ白衣を着た医師が近づいてきて、重々しい口調で告げた。
「ご主人は先ほどお亡くなりになりました。心よりお悔やみ申し上げます」
 夫人は顔を引きつらせ、両手でシーツを握りしめた。今にも泣きだしそうになったが、涙はけっして見せなかった。彼女は子供たちを枕元に呼ぶと、まず初めに少女の袖をつかんで言った。
「あなたのせいじゃない。ナースチャ、わかる? あなたではないの」
 少女は魂が抜けたかのようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。次に夫人は、真っ青な顔で立ちつくしている少年を見上げた。
「悪いのはナースチャではない。そうだよね? 返事をして、ダニック。返事を……」
「違う。ナースチャじゃない」
「よく言った。もっと近くにおいで」
 夫人は少年の体を抱き寄せ、骨ばった背中をいとおしそうになでた。その肩越しに室内を素早く見まわしながら。医師はいっとき席を外している。看護師の姿もない。
 と、彼女の顔からそれまでの弱々しい表情が消えた。
「ダニック、叔父さんのところへ行って助けを借りなさい。今すぐ国を出るの。おまえはここにいてはいけない。さあ、立って。誰にも姿を見られないよう、裏門から病院を出なさい。表通りは避けること。家には戻らず、真っすぐ叔父さんのアパートへ向かうこと」
 命令調の厳しい声で言ってから、夫人はもう一度少年を抱きしめた。
「覚えておいてね。かたきを討とうなどとゆめゆめ考えてはならない。おまえが生きているという、そのこと自体が彼らへの報いになる。だから生き延びるんだ。なにがあっても、どんなにつらくても」

 アナスタシアはふと物思いから覚め、ランドクルーザーの後部座席から窓の外を眺めやった。
 荒野にぽつぽつと廃墟が散らばっている。さびついたコンバインや履帯式トラクターの残骸がところどころに横たわる。大地から表土がすっかり失われ、あたり一帯は骨をまいたように白茶けていた。二十世紀の後半、自然のサイクルを無視して大規模な小麦生産を繰り返した結果だ。
 カシモフの慰霊祭が行われた奥クルガルジノの村から南南東に六十キロ余り。かつてのコルホーズの跡地を、二台の黒いランドクルーザーは砂塵を舞い上げて走った。祭事からほぼ丸一日が過ぎ、カリムら一同のいらだちが頂点に達したころ、ようやくGPS受信機がここからほど近い地点の位置情報を知らせてきたのだ。
 不意に車が大きく弾み、アナスタシアの体は座面の低いシートの上で左右に揺さぶられた。彼女は顔をしかめて小さくうめいた。その片手は手錠を掛けられ、ドアグリップにつながれている。カリムが助手席からちらりと後ろを振り返ったが、あざけるような冷たい一瞥をくれただけだった。
 前へ向きなおると、カリムは無線機を手に取った。彼はフロントガラス越しに呼びかける。
「アイベク、本当にここで間違いないんだな?」
 無線機から実直そうな男の声が雑音混じりに流れてくる。
 ──賊が潜んでいるとしたら、まずこのコルホーズ跡だろう。雨風をしのげる場所はここくらいなんだ。これより先はもうなにもないからね。
「あのとっつぁん、がたいはいいが、ちゃんと銃を使えるのか? 連れていっても、足手まといになるだけなんじゃ……」
 運転席のキリールが不服げに言った。前を行く車の助手席で揺られているケネサリー・ハン報恩会のアイベクのことを指しているのだ。
 このキリール、そして先行車を運転するエルランは、カリムが最も信頼を置いている腹心たちだ。あけすけなキリールはロシア系、控えめなエルランはカザフ系。ともにたくましく敏捷で、こまめによく立ち働く。
 彼らは今回の慰霊祭で警備を務めただけでなく、昨年秋のクンストカメラ襲撃にも加わっている。ペテルブルグでの仕事のあとは、カザフスタン中部のジェズカズガンという町──ハミードフが保有する巨大な鉱坑がある──にしばらく身を隠していた。夏の少し前にアスタナへ呼び戻されており、家政婦長ザリエマの殺害に直接関わったはずだ。
「無駄口をきいてないで、まわりによく目を配れ。盗っ人を見つけ出すことに集中しろ。奴は近いぞ」
 カリムが焦りを紛らすようにぞんざいな声で言った。彼は銀色の回転式拳銃を手に持ち、そのシリンダーに一発一発弾を込めている。
 アナスタシアは車窓の外へ目を戻した。
 草原の遅い日の入りとともに、すでに濃い夕闇が迫っていた。降ったりやんだりしていた雨はようやく上がったようだ。ほどなくして、先行車から連絡が入った。前方に小さな明かりが見えるという。車内の空気がにわかに張りつめた。
 二台のランドクルーザーはなだらかな坂をのぼり、途中、やや平らになったところでヘッドライトを消して停車した。
 男たちは車を降りると、行く手に黒々とそびえるシルエットを見上げた。それは高い腰折れ屋根を持つ長大な建物だった。星がまたたき始めた群青色の空のもと、石がごろごろした丘のてっぺんに立っている。まるで嵐に遭って陸に打ち上げられた大型船といった趣だ。
「なんだ、これは……。廃工場か?」
 懸命に目を凝らすカリム。アイベクがどこか間延びした口調で答える。
「いや、厩舎だよ。馬が何十頭も入る大きなやつだ」
 正面妻壁の上部には明かり取り窓があり、そこから淡い光が外にこぼれ出ていた。下部は大きな両開きの引き戸になっている。耳を澄ますと、中から咳き込むような馬の鳴き声が漏れてくる。
 カリムは建物をにらんだまま、ジャケットの懐から拳銃を抜いた。迷彩服姿のキリールとエルランは銃身の短い自動小銃を体に掛け、斜面に足を踏み出そうとしていた。ちょっと待ちたまえ、とアイベクが慌てた様子で三人を引き留めた。
「彼女をこのままにしておくのかね。うら若い女性をこんなふうに扱うとは──」
 アイベクはランドクルーザーの後席につながれたアナスタシアを振り返り、いかにも同情に堪えないというそぶりを見せた。とっさにその襟首をつかみ、カリムがドスの効いた声ですごむ。
「そいつはもしものときの切り札として取っておく。戦うのが怖いなら、一緒に車に残ったらどうだ?」
 さて、カリムを先頭に、四人の男は砂利を踏んで厩舎へ近づいていった。アナスタシアは窓ガラスを下げ、車内から彼らの様子を見守った。あたりはあまりに静かで、どんなかすかな音も彼女のところまで届いてくる。
 坂をのぼりきって荒れ果てた建物の正面に立つと、カリムは拳銃をかざしてキリールとエルランへ合図を送った。手下たちは二手に分かれて戸口に忍び寄った。彼らがそれぞれ左右から引き戸を引っ張る。アイベクはカリムのそばにつき、両手でしがみつくようにして散弾銃を抱えていた。
 がらがらと思いのほか大きな音がして、厩舎の入り口が半分ほど開いた時だ。突如オレンジ色の閃光が瞬き、雷鳴のような衝撃が夜気を震わせた。キリールは引き戸ごと数メートルも吹き飛ばされた。火だるまになったエルランがふらふらと後ろへ下がり、その場にくずおれた。戸が無くなった入り口が炎に縁取られ、ばちばちと音をたてて燃え上がる。
 続いて、銃声が二度三度と響いた。建物の中からの狙撃だ。アイベクがけたたましい叫び声をあげた。彼は散弾銃を放り捨て、もと来たほうへ逃げだした。が、そこを撃たれたらしい。数歩も行かないうちにつんのめり、頭から地面に倒れ込んだ。
「罠だ。これは罠だ……!」
 絞り出すようにうめくと、アイベクはそれきり動かなくなった。
 カリムが必死の形相で車のところに駆け下りてきた。後席のドアが乱暴に開けられ、アナスタシアはドアごと手首を引っ張られて悲鳴をあげた。カリムは彼女の手錠を外し、後ろ手に掛け替えた。ちくしょう、ちくしょうとわめきながら。
 アナスタシアを先に立たせ、カリムは再び厩舎ににじり寄っていった。意識なく転がっている男たちを横目に、二人はぽっかりと開いた四角い入り口をくぐった。まだ火がくすぶっており、木材の焼け焦げるにおいが鼻をつく。
 カリムが建物の中へ向かって大声で叫んだ。
「出てこい、盗っ人野郎!」
 薄闇の奥から、興奮した馬のいななきと壁を蹴る音が返ってきた。床に吹き溜まった砂が、アナスタシアの靴の下でじゃりじゃりと鳴った。破れた屋根から射し込む星明り。目が慣れるにつれ、真っすぐな通路の両側に空っぽの馬房が列をなしているのがわかった。頭上には、梁が剥き出しになったロフトのような屋根裏空間が架かっている。
 しばらくして床板のきしむ音が響いた。ロフトの上に背の高い人影が現れた。カリムはアナスタシアを盾として拳銃を構えた。影の動きに合わせて銃口の向きを変える。
「女が見えるか? ライフルを置け。丸腰で降りてくるんだ」
 男がひとり、鉄製の螺旋階段を降りてきた。彼は通路の真ん中に立つと、両手を上げて銃を持っていないことを示した。
「か、顔を見せろ……。まさか、ほんとに、本当におまえなのか。なんてことだ。十年一昔というが、でかくなったな、ダニヤル」
 闇に浮かび上がったその姿を認め、カリムはひどく驚いた声を出した。
 アナスタシアはサングラスなしの男の素顔にあらためて眺め入った。ほおがそげ落ち、大人びた目鼻立ち。そこには、年齢にそぐわぬ少年っぽい面差しが残っていた。後ろに回された彼女の両腕が否応なく震える。
「あんたは、ほんの少しも変わらない──」
 男が初めて言葉を発した。妙に裏返った、それでいて穏やかな声で。
「相変わらず、自分たちの利益のために罪のない人々を殺しつづけている。これまでにいったい何人手にかけた?」
 カリムは値踏みするように男を見すえ、ふふんと鼻を鳴らした。
「いちいち数えているもんか。ま、両手の指では足りないくらいだ。世の中には身の程知らずがあまりに多い。公正だの、人権だのと外国仕込みのごたくを並べ、ものごとの大きな流れに逆らおうとする。おまえの父シャハノフがまさにそうだった」
「だから始末したと。刷新を求める声を封じるべく」
「いいかダニヤル、ハミードフ家はこの国を実際に動かし導く力、つまり時代の本流だ。それに対しておまえの親父は、たとえどれほど立派な大義を掲げようと、結局は我々の社会の上澄みを漂う無力な存在にすぎなかった。ゆえに早々と消されることになったのだ。文字どおりあぶくのごとく」
「ぬけぬけとよくも……」
「ククッ、自分で手を下すこともあるが、誰かにやらせるという方法もある。そう、十年前のあの日のようにな」
「カリム、こうやってあんたと話すまでに、長い長い時間がかかった。実はずっと心配してたんだぜ。国へ戻って真っ向から向き合ってみても、もはや自分にはかたきを憎む気持ちがなくなっているんじゃないかって。だけど今の言葉で迷いが晴れた。あんたら親子にはやはり報いを受けてもらう。犯した罪の大きさに見合うやり方で」
 カリムがあきれたようにため息をついた。
「俺にはおまえのような人間がさっぱりわからん。ダニヤル、この状況でなにを要求するというんだ。謝罪? ざんげ? 俺の手下どもを倒したまではよかった。だが今、おまえは武器を持たず、しかも自分の女を人質に取られているんだぞ!」
「それ、同じ血を分けたあんたの──」
「こいつは裏切り者だ。半分はハミードフの人間だが、残りの半分はどこの馬の骨ともわからん尻軽女の血が流れている」
 男は忌まわしいものでも見たかのように目をそらした。アナスタシアは表情をゆがめ、唇をくっと引き結んだ。その後頭部にカリムが銃口を押し当てる。
「カシモフの首はどこだ? おとなしく差し出せば、この女の命までどうこうしない」
 男が顔を上向け、屋根裏のロフトを指さした。よく注意を凝らすと、そのデッキの縁にカシモフの首を収めたガラスケースが置かれていた。カリムが勝ち誇ったように声をたてて笑う。
「ふはは、ダニヤルよ。まだまだおまえと無駄話に興じていたいが、そうもいかん。世界平和宮殿の竣工式は明日の朝だ。それまでに首をアスタナへ持ち帰らねばならんのでな!」
 そこでアナスタシアは背中を強く突かれ、すぐそばの馬房の前に倒れ伏した。彼女は歯を食いしばって床から顔を起こした。振り向けば、カリムが拳銃を両手で構え、男に真っすぐ狙いを定めている。一方、男はというと、身動きもせず無言のままカリムに相対している。
「ここまで俺を手こずらせた、その根性だけは褒めてやる」
 いざ引き金を絞ろうとする刹那、カリムが鼻根に深いしわを寄せた──。

☞ 次回へつづく


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