カシモフの首【小説】 Ⅵ.血の竣工式 ①
【前章までのあらすじ】
郊外の寒村でケネサリー・カシモフの慰霊祭が催され、美智もこれに参列した。ところが祈祷の最中に爆発が起こり、混乱に乗じて何者かがカシモフの首を盗み出した。その場の状況から、ナースチャが盗賊と共謀したのではないかと疑われる。ハミードフ氏、カリムとの激しい言い争いのすえ、ナースチャは賊の討伐作戦における人質として軟禁された。
美智は泣く泣く村を離れ、世界平和宮殿の竣工式のために首都アスタナへ戻る。
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「風船に、花輪に、レッドカーペット。竣工式ってほんと、どこでも代わり映えしないよね」
すっかりお膳立ての整ったアトリウムを見まわし、美智はいささかわざとらしく首を振ってみせた。
「勘弁してくれよ、美智。なんとか形にして、今日に間に合っただけでも奇跡みたいなもんだ」
隣に立つオルハンが肩をすくめた。申し訳なさそうなしぐさが習い性になっている彼も、さすがに安堵といくばくかの満足を顔に浮かべている。それもそのはず。ここ数週間というもの、コントラクターは突貫工事で内装を仕上げてきたのだから。
いよいよ世界平和宮殿の竣工式当日となった。美智は早朝、日がのぼるころにはもう現場に来ていた。式の準備と総点検は昨日のうちに済んでいたから、十時の開式までに特にやることはない。が、屋敷でただ時間が過ぎるのを待つのは耐えがたかった。
今、美智とオルハンが踏んでいるレッドカーペットは、アトリウムの入り口──大階段をのぼりきったところ──から真っすぐ延びている。それは正方形の巨大な広間の中央を横切り、奥の壁際にしつらえられた仮設の演壇に行き着く。式が始まれば、その壇上から大統領やアスタナ市長が祝辞を述べることになる。
カーペットの上を歩きながら、美智は指を折って宮殿の工事期間を数えてみた。五,六,七,八……。
首をかしげる。年始の厳冬期を除くと、昨年末に行われた基礎工事も含めて、合計九か月余りかかった計算だ。もともと予定工期が短いこのプロジェクトでは、事前に工場で生産された建築部材を現場で組み立てるプレハブ工法が取られている。とはいえ、ヒトの妊娠期間ではあるまいし、起工から竣工まで正味たった九か月とは。
──前もってわかってはいたことだけど、この規模の建物が、これほど早く完成するなんて……。当節の建築工事って、こんなものなんだろうか?
ふと思い浮かんだのは、「赤ん坊を産むことの大変さに比べたら、ほかのどんなこともたいしたことはない」という母の言葉だった。
アトリウムの真ん中まで来ると、美智は立ち止まって頭上を仰いだ。小会議場のリングの先で、朝空が少しずつ青みを増していた。あの草原の村を離れてから丸一日がたったわけだ。賊を追って荒野を走る四輪駆動車のイメージが脳裏をかすめた。ナースチャはどうしているだろうか。カリムにひどい扱いを受けていないか。最後に彼女が言った言葉が耳によみがえる。
──美智、しっかり目に焼きつけてきて。私たち二人の夢が実を結ぶ瞬間を……。
とその時、やけに堅苦しい靴音がして、黒スーツに身を包んだ中年のカザフ人男性が現れた。背筋がピンと伸びていて、とても姿勢がよい。つい先日知り合ったばかりの「隊長サン」。竣工式の警備を担当する大統領警護隊の指揮官だ。彼は片手を上げて挨拶しつつ、真っすぐ美智たちのほうへやってくる。
「やっ、お忙しいところをどうも。実は平和宮殿の出入り口について、至急ご教示いただきたいことがありまして」
美智とオルハンは警護隊長のあとについて大階段を降り、玄関ホールに面した管理人室に入った。そこが警護隊の臨時の本部になっていた。隊長は壁に貼られた大判の図面を指し示した。地下を含む宮殿の各階平面図。大統領府から要請を受け、美智が事前に提出したものだ。
「我々の任務は大統領閣下をお守りすることですが、今回の場合は平和宮殿をまるごと警備せねばなりません。竣工式の開催中、ここに出入りするすべての人間を監視するためです。さて、この建物には東に面した1階──あなたがたの呼び方だと地下2階ですか──の正面玄関のほか、北面と南面に主として車両用の入り口がある。そうでしたね?」
それで間違いなかった。世界平和宮殿の出入り口は全部でその三か所。すべてピラミッドの基壇となっているなだらかな人工の丘の地中にある。
建物の東側では丘の斜面に幅広の切通しがうがたれ、宮殿の正式な参道となる。それはピラミッドの下に入り込み、地下2階の正面玄関に至っている。北側と南側の斜面にはより狭い切通しがあり、それぞれ荷降ろし場、地下駐車場への進入路となる。この二つはスロープによって地下3階まで潜っている。
「問題は、地下駐車場のシャッターの外にあるこの小さな扉です。これは?」
美智はあっと声を漏らした。隊長の指は南面の地下駐車場入り口のすぐ外、切通しを支える擁壁にはめ込まれたドアを指していた。
「すっかり忘れてた。これ、非常口です。盛り土の中に通路と階段が隠れていて、地下2階から直接屋外へ出られるようになってるんです。いちいち地下3階まで降りて駐車場を横切らなくても済むように」
この隠し廊下のような通路は、昨年末、東京での設計変更の際に美智がつけ加えたものだった。施主の要望により西側の裏玄関が廃止となったので、火災時などの避難経路を確保するためにとった苦肉の策だ。
隊長が腕を組み、渋い表情をつくった。
「この建物の地下階がどうしてこんなに複雑になっているのか、それは問いません。私は建築のほうは門外漢ですから。しかし、図面ではすべての開口部に印をつけてくださいとお願いしたはずだ」
「ごめんなさい。ただ、このドアは内側からは開きますが、外からは鍵がないと入れませんし──」
「そういう問題ではない。言ったでしょう。大統領が宮殿を訪れている間、我々は文字どおり鼠一匹勝手に出入りさせるわけにはいかんのだ」
「はぁ、なるほど……」
大まかにいえば、この非常口は地下駐車場入り口の一部じゃないか、とのど元まで出かかったが、美智は反論を思いとどまった。こういう手合いには、はいはいとうなずいておくにかぎる。
「でもよぉ、そんなことを言うなら、北面の搬入口脇のドアだって同じ──」
そばで聞いていたオルハンが口走った。よせばいいのに、いつもひとこと多いのだ。案の定、隊長はぎろりと目をむき、いっそう怖い顔になった。
「北面とおっしゃると? まさか、まだ秘密の抜け道があるのでは?」
半時間後、美智はようやく警護隊長から解放された。玄関ホールの一角にあるラウンジ・エリアへ行くと、ほっと肩の力が抜けた。しばしひとりでたたずみ、平和宮殿の壮大な導入部を振り仰ぐ。
ホールの先に広がる地中の吹き抜けは、この建物の見どころの中でもとりわけ美智のお気に入りだ。深いクレバスのような空間を挟んで向かい側に、木目パネルで覆われた巨大な円筒壁がそそり立っている。左右対称の大階段が円筒の前を軽快に駆けまわる。それは何度か折れ曲がりながら吹き抜けの中をのぼり、地上のアトリウムに達している。
昨年の秋、東京でナースチャが描いたCGパースが思い出された。今、目にしている空間は、彼女の手になる完成予想イメージとそっくりだ。
たしかにこうやって眺めれば、建物の内装はすでに完工していると誰もが信じ込むだろう。だが、それは見せかけにすぎない。実は、円筒壁の入り口は閉鎖され、内部は工事が止まったまま放置されている。
美智の胸にまたぞろ疑問がわいてきた。今日予定されていたケネサリー・カシモフの首についてのサプライズ発表は、まず間違いなく取りやめになるはずだ。もし奪われた首が二度と戻らなければ、この地下の大円筒はいったいどうなるのだろう。墓室への改築はあきらめて、当初の計画どおり会議場とするのか?
「デタラメだ、なにもかも……」
思わずため息が出た。東京事務所のアレックスは言っていたではないか、このクライアントにはけっして深入りするなと。上司の忠告が今さらのように身にしみる。
「……なんだと、それは本当か。確かなんだな!」
不意に建物の奥のほうから大きな声が聞こえた。見れば、ハミードフ氏が携帯電話で話しながら、大円筒の脇を走る長い廊下を歩いてきた。宮殿の後部にあるVIP専用施設から出てきたらしい。美智と目が合うやいなや、彼はしきりに手招きをした。正装しているが、タイはまだ着けておらず、襟元が開いたままだ。
「今どこだ、ラジオノフカは過ぎたのか? 市境検問所……。よし、わかった! 素通りできるよう、私から連絡を入れておく」
美智が廊下へ出ると、ハミードフ氏はちょうど通話を終えたところだった。氏が額に脂汗を浮かべ、あごをわなわなとさせながら言う。
「ナースチャが車でこっちへ向かっている。カシモフの首を取り戻したというのだ」
「ええっ! 今の、彼女ですか?」
午前八時を回ったころ、平和宮殿の南面ゲートがにわかに騒がしくなった。
ハミードフ氏と美智は地下3階駐車場に立ち、その瞬間を今か今かと待ち構えていた。間を置かず、一台のランドクルーザーがスロープを下ってVIP用駐車スペースに滑り込んできた。黒い車体は下半分が泥はねだらけだ。大統領警護隊の隊員に制止され、車が急ブレーキをかけた。タイヤがコンクリート舗装をこする甲高い音が響きわたった。
「いいんだ、この車はいいんだ!」
ハミードフ氏がわめき叫びながらランドクルーザーに駆け寄った。彼は車を取り囲んだ警護隊員たちを狂ったように押し分けた。運転席のドアを開け、ナースチャが降りてきた。彼女は丸く膨らんだ麻袋を抱えている。
「おお、早く見せろ」
ハミードフ氏は袋を受け取ると、震える手でその口を緩めた。上部が半球状になったガラスケースが無傷のまま現れた。氏はガラスの表面を礼服の袖でぬぐい、顔をくっつけるようにして中身を確かめる。それから駐車場の天井を仰ぎ、大声で笑いだした。
「私は信じていたぞ、ナースチャ! おまえが裏切るなどありえんと、本心ではわかっておったのだ」
およそそんな意味のことをまくしたてると、ハミードフ氏はナースチャの頭を抱き寄せて髪に唇をつけた。しばらく続く父娘のぎこちないやりとり。美智の視線を感じ取ったらしく、ナースチャが人垣の中からほほえみ返す。彼女が慰霊祭の時から着ている黒いワンピースは、裾が泥と砂ぼこりですっかり白茶色になっていた。
落ち着きを取り戻したハミードフ氏が、そこで初めて気づいたように尋ねた。
「ところでナースチャ、カリムはどうしたんだ?」
「兄さんたちは手負いの賊を追っていった。草原の奥地だから、携帯電話は当面つながらないと思う。アイベクは捕り物の際に転んで脳しんとうを起こした。奥クルガルジノの村で手当てを受けている」
ナースチャは美智にも聞きとれるよう、ゆっくり、はっきりと答えた。ハミードフ氏はそうかそうかと満足そうにうなずき、今度は娘の肩を抱いて二の腕をさする。
ひととおり立ち話が済んだところで、VIP用控え室へ移ろうということになった。本日の竣工式において、ハミードフ家関係者のためにあてがわれているものだ。一同は地下駐車場を横切って屋内入り口へ向かった。ナースチャは慰霊祭にも持参したダッフルバッグを肩に掛け、美智と並んで歩いた。エレベーターで地下2階に上がり、建物の奥まったところにあるVIP専用施設に行き着く。
控え室は木目調の内装を持つホテルラウンジのような部屋だった。中へ入ったとたん、中央のソファセットに集まっていたハミードフ家の親族がいっせいに振り向いた。彼らは我先にとハミードフ氏のもとへ駆け寄り、その腕に抱かれたガラスケースを食い入るようにのぞき込んだ。たちまち喝采が飛び交う。美智もようやく間近で見ることができたが、ケースの中身はまぎれもなく本物のカシモフの首だ。
ただワンガだけがじっと座ったまま、歓喜の輪に加わろうとしなかった。遺骸の行方を誰よりも案じていたはずなのに。老祈祷師は、先日の慰霊祭と同じく黒地に緑の唐草文のローブをまとい、感情の読み取れないまなざしをナースチャに向けている。
ガラスケースのまわりではしゃぐ人々を見やりながら、美智はむらむらと込み上げる怒りをやっとのことで抑えていた。
──その干からびたミイラのために、この子がどんなひどい目にあったか……!
明るいところであらためて見ると、短い袖から出たナースチャの両腕は、赤や紫のすり傷だらけだった。ほおのあざはすでに黒く変色し、漆でもこすりつけたようになっていた。もっとも、当の本人はそんなことはまるで気にしていない様子。さらりとした風情で彼女が言う。
「美智、服の汚れを落とすから、ちょっと待っていてくれない? これから宮殿内をひと回りしてこようよ」
南側エレベーター・ホールで落ち合うことが決まると、ナースチャは奥の化粧室へ入っていった。美智は控え室を出る間際、戸口に立ってもう一度部屋の中を振り返った。
カシモフの首はハミードフ氏自らの手によって、ガラスケースごと真鍮製の装飾箱に入れられるところだった。この装飾箱は氏が金細工職人を雇い、前もって作らせておいたものだ。立方体の本体の上に半球のドームが載っていて、古典的なイスラム廟のミニチュアとなっている。側面には透かし細工が施され、外からは首のシルエットだけが見えるよう工夫してある。ミイラ化した頭部をじかに衆目にさらすのは、さすがにはばかられたからだ。
首を収めた装飾箱は、これまたあらかじめ用意してあった手押しワゴンの上に載せられた。大きな車輪が付いたアンティーク調の二段式ワゴンだ。その天板には、あの草原の廟の祭壇と同じく、青いビロードの布がすっぽりと掛けられていた。
美智はVIP施設をあとにすると、地下の吹き抜けの脇を走る廊下へ出た。廊下の片側はガラス張りとなっており、その向こうに大円筒の外壁が間近くそそり立っていた。足を止め、赤っぽい木目パネルで覆われた雄大な曲面を眺める。ここ数日の間に起こったことを反芻しながら。
──ナースチャが無事に帰ってきてくれてよかった。ほんっっとによかった……。
とにもかくにも、ナースチャはカシモフの首を携えてアスタナへ戻ってきた。結局のところ、彼女と例の背の高い男との間には、自分が恐れていたような関係はなかったのかもしれない。それならそれでいい。もちろんそのほうがいい。ナースチャはここにいるべきだ。みなと一緒に平和宮殿の竣工式に立ち会うべきなのだ。
そこで美智はふと思い立って、ウェストポーチから携帯電話を取り出した。お目当ての番号を呼び出す。ずいぶん長いことあの人懐っこい笑顔を見ていない。
「……もしもし? 久しぶり、ドミトリー。元気にしてた? 今日の竣工式だけど、時間どおりに来られるよね?」
「やあ、美智。それが今、まだアルマティ空港の搭乗ロビーで足止めを食ってるんだ。霧で飛行機の出発が遅れていて」
電波の向こう側から心底困り果てた声が届いた。美智は腕時計に目をやりながら、つい語調を高くする。
「そんなぁ、でも十時には間に合う……、いや、もう間に合わないか」
「さっきから何度も電光掲示板を見てるんだけど、いつまでたっても僕の便の出発時刻が出やしない。お手上げだよ。あっ、待って待って」
──カザフスタン航空○○便アスタナ行きにご搭乗のお客様にお知らせいたします。当便は悪天候のため、遅れが発生しております。新しい出発時刻は、見通しがつきしだい、できるかぎりすみやかにご案内するよう努め……。
「アナウンス、聞こえたかい? やれやれ、当日のフライトでいいと考えたのはうかつだった。だいぶ遅くなってしまうが、会場に入れてもらえるかな?」
「あーあ、せっかく招待客リストに押し込んであげたっていうのに。実は、開式のすぐあとにサプライズがあるんだよ」
「芸能人でも呼ばれてるのか? 歌手とか」
「そんなんじゃなくて、私たち共通の関心事!」
「というと、まさか……、カシモフの件?」
「そのまさか。ケネサリー・カシモフについて重大発表が行われる」
「なんだって! それはやはり例の話かい、平和宮殿がカシモフ廟になるというあの話?」
「しまった、まだ言っちゃいけないんだった。まぁいいや、どうせあと一時間半かそこらで正式発表されるわけだし。あ、ナースチャが出てきた」
「ちょ、ちょっと、ナースチャってどういうことだ。彼女は今、そこに?」
「ドミトリー、ごめん。続きはアスタナで話そう。いろいろあったけど、カシモフの首をめぐる騒動も今日で一段落だね」
「待ってくれ、美智! さては首の現物がお披露目されるんだな? だったら油断しちゃだめだ。式本番では必ずなにかが起こるはず──」
「なに、なにがだめだって? 私、もう行かなきゃ。あなたもなるべく急いでね。遅れてきても通してもらえるよう、話をつけておくから。じゃ、またあとで」
☞ 次回へつづく
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