見出し画像

カシモフの首【小説】 Ⅵ.血の竣工式 ➁

<< 最初から < 前回の話 | 目次・登場人物 [↗]

 美智とナースチャは連れ立って、世界平和宮殿のピラミッドを巡った。
 まずエレベーターを乗り継いで小会議場にのぼり、その環状デッキをゆっくり一周した。それから階段を使って下へ降り、6階、5階、4階というように、各階フロアを順番に回った。工事が続く間、何度も何度も歩いたコースだ。
 最後に二人は2階の回廊に立ち、斜め格子のガラス壁越しにアトリウムを望んだ。
 眼下に広がる三十六メートル四方の大広間。その真ん中を、幅の広いレッドカーペットが走っている。それは大階段の最上段と、広間奥に設けられた演壇を真っすぐつないでいる。先ほどと違うのは、南側──大階段より演壇を正面に見て左側──のエレベーター・ホールからもう一本のレッドカーペットが延びてきて、広間の中央で本線のカーペットと直角に交わっていることだ。
 この「支線カーペット」は、今朝ナースチャから電話があったあと、ハミードフ氏の指示により急きょつけ加えられたものだった。見合わせとなっていたカシモフについての公式発表は、首の奪還を受けて当初の計画どおり行われるのだ。
 カシモフの首は今、地下2階のVIP用控え室で保管されている。竣工式の途中でサプライズ発表がなされると、首は手押しワゴンごと南側エレベーターでアトリウムに上がり、支線カーペットを進む。そして本線カーペットとの合流点を左折し、大統領が待つ演壇へ向かうという段取りだ。ワゴンをアトリウムまで運び上げるのはナースチャの役割。そこから先は、ハミードフ氏が自らワゴンを押してレッドカーペットを歩くことになっていた。
 壮大な吹き抜け空間を見上げ、美智はしみじみとつぶやく。
「ほんと夢みたいだ。私たちの引いた設計図が現実のものになるなんて」
 隣に並ぶナースチャが伏し目がちに言う。
「あっという間だった。東京で美智と出会って宮殿プロジェクトに加わってから、今日こうしてここで竣工式を迎えるまで」
「ナースチャは満足? 施工の出来栄えはともかく、私にとってこの建物は……」
 ──あなたとの間に生まれた子供のようなもの。
 と口に出しかけ、美智はそれをぐっと飲み込んだ。慌てて代わりの言葉を継ぎ足す。
「……あなたとの友情のあかしだよ、かけがえのない」
「美智、ありがと。最後まで一緒にいてくれて。あれやこれやと無理ばかりさせたね」
「最後ってなに? もう会えなくなるみたいな言い方しないで。それに私、ちっとも無理なんかしていない」
「でも、今のあなたは以前と顔つきが違う。前はもっとこう、のほほんとした感じだった」
「ええーっ、どんな顔してるって? 老けたってことぉ?」
 美智はほおに両手を当て、ガラスに映った顔を気にするしぐさをした。ナースチャは笑わなかった。彼女は少し間を置いてから、
「美智、自分がやるべきことは、平和宮殿じゃなかったかもしれない。来るべき場所はアスタナじゃなかったかもしれない。そう思ったことはない?」
「またそれを言う。一度もないね、そんなふうに考えたこと。私は望んでこのプロジェクトに参加したし、あくまで自分の意思でここへ来たんだ」
「あなたはあまりにも……」
 しゃくりあげるような息づかいが聞こえ、美智はぎょっとナースチャを見返した。ナースチャは前を向いたまま、紫にくすんだ唇を引きつらせていた。
「あなたはあまりに一途だから、これっぽっちも気づいていない。東京には信頼できる友達や、好きな男の人もいたでしょう。なのにこの案件にかかずらって、いったいどれだけの犠牲を払ったか」
「私がしたことは全部、私自身が選んだことだよ」
 美智はきっぱり言うと、片腕を伸ばしてナースチャの手を取った。それは驚くほど冷たく、小刻みな震えを伝えてくる。
「今でもつい昨日のことみたいに覚えてる。ナースチャが初めて東京の事務所に現れて、手製の製図板でアトリウムのパースを描いた時のこと。あの瞬間、はっきりとわかった。ずっと探していたものを見つけたんだって。以来、私にとっては、あなたと一緒に平和宮殿をやることがなにより大事になった」
 しゃべりながら、美智は胸の内で思った。そうだ。そういうことなのだ、と。
 一人でカンバスに向き合う画家と違い、建築家はしばしば共同でプロジェクトに取り組む。建築設計とは、複数の人間が同じ夢を共有するいっときの時間のことだ。そして、誰かとなにかをこれほど深く分かち合う機会は、おそらくもう二度と巡ってこないだろう。この一年の間、自分にとって、世界平和宮殿は目の前に開けた「世界そのもの」だった。ナースチャはその新しい現実への案内役であり、旅の道連れだ。
 震え声でまたナースチャが言う。
「私があなたにそう思い込ませたんだとしたら? あの手この手で心の隙につけ入って。ハミードフ家の者は人を支配することに長けている。やり方は違っても、結局、私は父や兄と同じ。あなたは知らないんだ、私がどれほど悪賢い人間か」
 美智はナースチャの手を握ったまま苦笑いした。
「怖いこと言うなあ……。たしかにね、私は相変わらずなにもわかっていないのかもしれない。ただ、たとえわからない部分があっても、好きになることはできる。初めて出会った人や訪れた国を。そうでしょ?」
 大階段をのぼってきた招待客が、次々とアトリウムに姿を見せていた。下の玄関ホールでは、すでに受け付けが始まっているのだ。見栄えのいいカップルが美智の注意を引いた。モーニングコート姿の男性が頭上を振り仰ぎ、空中を指さしてなにか叫んでいる。連れのアフタヌーンドレスを着た女性は、口に手を当てて目を大きく見開いている。
 ナースチャはじっとうつむいていたが、やがて低くささやくような声で尋ねた。
「じゃあ、美智、もし時間を一年前に巻き戻せるとしたらどうする? それでもあなたはやっぱりこの町へ来る?」
 ちょうどその時、ハミードフ氏が人波にもまれつつ、1階フロアからこちらを見上げているのが目に入った。彼は美智とナースチャに気づいたようだ。アトリウムの四隅にある階段室の一つに向かって颯爽と走っていく。
「ナースチャ! まだこんなところにいたのか。早くVIP用控え室へ戻れ。屋敷から着替えも届いているぞ」
 2階の回廊に現れたハミードフ氏が、つかつかとナースチャに歩み寄りながら言った。モーニングを着て襟元を正したその姿は、早朝とは打って変わって晴れ晴れとしていた。両の目が明るく輝き、顔のつやも十歳は若返ったかのようだ。
「ワンガ様はご気分が優れないとかで、開式のあとも控え室に残られることになった。おまえもカシモフの首とともにあそこで待機だ。大統領の到着は少し遅れる。私から指示が来たらすぐ部屋を出て、南側エレベーターで……」
 段取りを再確認するハミードフ氏と、黙ってそれを聞くナースチャ。こうやって見ていると、つくづく不思議な父娘だと美智には思える。瞳の色のほかは、どこも似たところがない。にもかかわらず、彼らの間には奇妙なバランスがあり、呼吸の一致があった。
「美智、君はどうするかね。せっかくだから──」
 ハミードフ氏が美智のほうを向いて言いかけた。美智は即座に返事をした。
「いえ、すでに申しましたとおり、私はここで」
 実は昨日、美智はハミードフ氏に呼ばれ、竣工式ではアトリウム1階にて正式に列席するよう勧められた。が、考えたあげく辞退し、コントラクターの人々と一緒に2階から式典を眺めることを決めていた。そのほうが自分にはふさわしいという理由で。
 ハミードフ氏はそれ以上無理強いはしなかった。控え室へ急げよと今一度ナースチャをせかすと、彼はまた下へ降りていった。
 開式時刻が近づくにつれ、アトリウムの人の数は何百という規模に膨らんできた。建物の中に喧噪と熱気が満ち満ちた。報道関係者など一部を除き、やはり来賓の大半は正装している。カンドゥーラ姿のアラブ人男性や、民族衣装をまとったカザフ人女性も目に入る。
 ナースチャはなおもしばしその場にとどまり、階下の大広間を眺めつづけた。緊張のためか、彼女は歯を小刻みに鳴らしているようだ。血の気の失せた青白い横顔。そこにはさっきの質問が余韻となって漂っている。
 ──美智、もし時間を巻き戻せるとしたら、あなたはやはりまたアスタナへ来るの?
 現場監督、エンジニアといったコントラクターの面々が集まりだし、2階の回廊は彼らのための観覧席のようになってきた。そのうちふいっとナースチャが行ってしまうと、入れ違いにオルハンが来て美智の隣に並んだ。
「ひゅう、すごい人だかりだ。床が抜けないか心配だよなあ、美智?」
 眼下の群衆を見わたして口笛を吹くオルハン。美智は正面奥の仮設演壇に目を凝らしつつ、
「わぉ! オルハンってば、冗談でもそんなこと……」
 バリアロープで立ち入りが制限されたレッドカーペットを残し、広いアトリウムは招待客たちですっかり埋めつくされた。演壇の両脇に設けられたひな壇席には、アスタナ市長や各国の大使、公使が着いていた。その中には、ひときわ大柄なロシアのミリューチン大使の姿も見えた。やや離れた報道席からフラッシュがちらほらと光る。
 十時をとうに回ったころ、ハミードフ氏が満を持して演壇に上がった。拍手が起こり、幾重にも重なるうねりとなって、方形の式場の隅々まで響きわたった。
 世界平和宮殿の竣工式がついに幕を開けた。

「おおっ、どうやらお出ましのようだぜ。ほら、あそこ!」
 開式からしばらくたち、ハミードフ氏に続いて市長が祝辞を述べている最中だった。オルハンが美智のひじをつつき、二人が立つ回廊のすぐ真下を指さした。大階段をのぼってきた大統領がレッドカーペットに姿を現したのだ。アトリウムの招待客たちの間から歓声があがる。
 堂々たる恰幅だが、高齢者にありがちなゆっくりとした足取り。側近か、あるいは娘なのか、中年の女性に腕を支えられている。途中、知人と握手を交わしたり、手を挙げてあいさつしたり。彼が本線のカーペットを進むには長い時間がかかった。
 割れんばかりの拍手に迎えられ、大統領がようやく登壇。よく通る声でそのスピーチが始まった時のことだ。ハミードフ氏がひな壇上の自分の席をひっそりと離れた。
 誰もが演壇のほうに気を取られる中、ハミードフ氏は人の間を縫ってアトリウムを斜めに横切っていく。南側エレベーター・ホールに近づいたところで、彼はバリアロープをまたぎ、レッドカーペットの上へ出た。アトリウム中央から枝分かれした支線カーペットだ。
 吹き抜け全体に朗々と響く大統領の声。話はアスタナへの首都移転の意義から、いつのまにかこの町の起こり、歴史的背景に移っている。近ごろはカザフ語の使用頻度が増えてきたが、意外なことに今日にかぎってロシア語による演説だ。おかげで美智にもおぼろげながらその内容がわかる。
 と、にわかに場内の空気が張りつめ、遅れてどよめきが湧き起こった。大統領がカシモフの首のロシアからの返還をサプライズ発表したのだ。「ケネサリー・ハン」という言葉が幾度か繰り返し発せられ、そのたびごとに聴衆が生き生きと反応している。
 ハミードフ氏は喧噪にかまわず、アトリウムの南縁に向かってカーペットを歩きつづけた。彼がV字柱の列柱に差しかかると、その先のエレベーター・ホールの両開き扉が開いた。見計らったかのようなタイミングだ。扉の奥から、ナースチャが手押しワゴンとともにしずしずと進み出てきた。
 ナースチャは青灰色のサテン地のドレスをまとい、髪は編み込みの入った華やかなポニーテールにしていた。耳には例の唐草模様のイヤーカフ。ほおのあざや腕の傷はどうしたのか、まったく目につかなくなっていた。ドレスの青がクールな光沢を放ち、足元の深紅のカーペットと鮮やかな対比を見せる。彼女が押すワゴンの上には、カシモフの首を収めた黄金色の装飾箱が置かれている。さしずめ神事に仕える古代ポンペイの女官といった構図だ。
 今朝、草原から泥まみれで帰ってきた女。今、目の当たりにしている厳かにして妖艶な姿。この二つがどうしても結びつかない。
 ハミードフ氏がV字柱の間でナースチャと手押しワゴンを迎えた。カーペット沿いに鈴なりになった人々は、バリアロープから身を乗り出して二人のほうへ視線を注いだ。
 予定外のことが起きたのはその時だった。
 自分の娘の美しさに打たれ、思いつきでそうしたのか。それとも今日という日、永遠不滅のものとなる家門の栄誉を共にしたかったのか。ワゴンを引きわたそうとしたナースチャの背にハミードフ氏が手を回し、一緒にレッドカーペットの先へ進もうとしたのだ。
 ナースチャはびくりと体を反らし、反射的に父の手を振り払った。遠目にもはっきりわかるほど大きなしぐさだ。彼女はそのまま身構えるように腰を引き、エレベーター・ホールのほうへじりじりと後ずさる。
 なんとも場違いで、異様な情景だった。が、支線カーペットの端で起こったその小さな出来事は、おおかたの招待客の目には入らなかったようだ。
 つかの間立ちつくすハミードフ氏。彼は明らかにぶぜんとしていたものの、すぐにきびすを返して手押しワゴンの持ち手をつかんだ。満面の笑顔でそれを押し、嵐のような拍手に応えつつアトリウムへ戻っていく。興奮した人々の注目はワゴンに載った装飾箱に集まり、ナースチャを振り返る者はもはや誰もいなかった。
 目もくらむほどまばゆいフラッシュの洪水。ハミードフ氏はレッドカーペットを粛々と進む。演出意図に従い、打ち合わせどおりに。そして彼がアトリウムの中央、本線のカーペットとの交差点に至ったところで次の異変は起きた。
 手押しワゴンを演壇のほうへ向けようとして、ハミードフ氏がふと足を止めた。カーペットの継ぎ目に車輪を取られたかと見えたが、そうではなかった。氏は身をかがめ、透かし細工越しに装飾箱の中をのぞき込んでは顔をのけぞらせている。やがて全身をがくがくけいれんさせたかと思うと、その場で平衡を失って大きくよろめいた。
 ハミードフ氏が床にくずおれた拍子にワゴンがぐらつき、装飾箱がカーペットの上へ逆さまに落ちた。箱は壊れて横倒しになり、中から首が飛び出した。ガラスケースに入っていたはずなのに、どういうわけかむき出しのままだ。それはゴム毬のように弾み、レッドカーペットの縁まで転がっていく。バリアロープの際に並んでいた人々のうち、幾人かが後ろへ飛びのいた。
 一瞬の静寂のあと、ちょうどそこにいた女性の一人が金切り声を上げた。ひどく取り乱し、ほとんど半狂乱の形相で。あたかもそれが号令になったかのようだ。たちまちのうちにアトリウム全体が怒号と悲鳴に包まれた。

☞ 次回へつづく


いいなと思ったら応援しよう!

TB この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?