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カシモフの首【小説】 Ⅵ.血の竣工式 ③

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「ちょっと、それ貸して!」
 2階の回廊から事の一部始終を見ていた美智は、オルハンが手にしていた現場用の単眼鏡をひったくった。
 接眼レンズをのぞき込み、ピントリングを回す。円い視界の中で焦点が合う。レッドカーペットの交差点でへたり込むハミードフ氏、そしてその傍らに放置された手押しワゴンが浮かび上がる。
 ワゴンの天板に掛けられた青いビロードの表面が、濡れたように黒ずんでいるのが見てとれた。古廟を模した装飾箱はカーペットの上でひしゃげ、そのまわりにも黒い染みが飛び散っていた。少し離れたところに転がっている人間の頭部。それがカシモフの首でないことは、美智にはすぐにわかった。
 干からびてミイラ化した遺骸などとは違う。まぎれもなく血のしたたる生首がそこにあった。額の両端がやや後退しているが、頭皮は豊かな髪に覆われている。浅黒くたくましい顔つきで、高く盛り上がったほお骨に特徴がある。カッと目を見開き、横向きになった唇からだらりと舌を垂らしているのがおぞましい。
 ──あれは……、あれはカリム!
 美智が恐怖に凍りついたまま立ちすくむ間にも、階下の大広間は大混乱の様相を呈してきた。床に転がった首を遠巻きにして、人々は押しつ押されつ、渦のようにうごめいていた。ハミードフ氏がレッドカーペットの上にひざをつき、天を仰いで絶叫する。騒乱のただ中にあって、ここまで届くはずもない声。それがなぜか美智の耳にははっきり聞こえた。
 あの女を殺せ、アナスタシアを殺せ──、と。
 これと同じ光景を前にも見たような気がした。そうだ、一年前のあの夜だ。東京の設計事務所が停電してサーバが落ちた夜。暗闇を通り抜け、設計中の世界平和宮殿に迷い込んだ。成り行きまかせにアトリウムへ上がると、白い人体モデルの群像に出くわした。広大な床の真ん中には大きな血だまりができていた……。
 どうしてそんなことが起こりうるのかわからない。が、あの異様な夢が具体的な形を取り、今まさに目の前で繰り広げられている。
 いったん姿が見えなくなったと思ったら、ナースチャはレッドカーペット付近の招待客の中に紛れ込んでいた。どこから取り出したのか、見覚えのある黒いダッフルバッグを抱えている。彼女は群衆から抜け出すと、V字柱の列柱を斜めに横切ってアトリウムの南西の隅に消えた。やっぱり夢のとおりだ。あそこの非常階段から地下へ降りるつもりらしい。
 すぐに追っ手がかかった。黒いスーツ姿の男たちが人波をかき分けていくのが眼下に見えた。大統領警護隊だ。美智はもう回廊を走りだしていた。アトリウムに目を釘付けにした人々の背後をすり抜ける。2階フロアの隅まで行くと、ナースチャが使ったのとは別の非常階段に飛び込んだ。
 手すりに手を滑らせながら階段を降りた。1階を通り過ぎ、さらに下へ向かった。ごうごうと耳が鳴る。閉鎖された階段室にまでアトリウムからの騒音が響いてくる。
 途中、美智の頭の中を恐ろしい考えが駆け巡った。なんということだ。ナースチャは草原から首を二つ持ち帰ったのだ!
 あのダッフルバッグは、彼女が今朝アスタナに戻ってきた時に携えていたもの。カシモフの首にばかり気を引かれて誰も注意を払わなかったが、カリムの生首はあのバッグの中に入っていたに違いない。
 VIP用控え室へ移ってから、ナースチャは服の汚れを落としたいと言って奥の化粧室に入った。その際、ダッフルバッグを化粧室のどこかに隠しておいたのだろう。それから彼女は宮殿内を回り、美智と一緒に時間をつぶす。
 竣工式の開式直前、人が出払ったころあいを見て、ナースチャは控え室に戻った。首のすり替えが行われたのはその時だ。彼女はカリムの首を真鍮の装飾箱に入れ、本物のカシモフの首をダッフルバッグに入れ替えた。装飾箱は青いビロード布が掛かった手押しワゴンの天板の上に、バッグは布で隠れた下の棚に載せた。
 予定より少し遅れて竣工式が始まる。ハミードフ氏から無線で指示を受け、ナースチャは手押しワゴンを押して控え室を出る。厳重に警備された廊下を歩き、エレベーターに乗って地上へ向かう。1階フロアに着いたところでダッフルバッグを取り出し、アトリウムへ通じる扉の陰に一時的に置いておいた。そしていざ大広間へ出ると、何食わぬ顔で父親にワゴンを引き継いだ──。
 だが、この筋書きには疑問が残る。式が始まる前後、控え室にはワンガがとどまっていた。ほかにも首都開発公団に所属するボディーガードが一人いたはずだ。ナースチャは彼らをどうあしらったのか?
 地下2階まで降りたところで、美智は階段室の扉を開け、大円筒の脇を走る廊下に出た。ガラスの向こうに地中の吹き抜けが広がり、再び巨大な曲面壁と相まみえた。この廊下を右へ行けば、ラウンジ経由で玄関ホールへ抜ける。ナースチャが使った階段は左だ。迷わず左、つまり宮殿の奥へと向かう。
 いくらも行かないうち、廊下のどんづまりに大統領警護隊の隊員が集まっているのが見えた。美智は慌てて側面のエレベーター・ホールに引っ込んだ。息を詰めてそっと角からのぞく。男たちは一枚のドアをこじ開けようと四苦八苦していた。先刻、美智もくぐったVIP専用施設へ通じるドアだ。ナースチャはあそこを通り抜け、パネルを操作して内側から電気錠を作動させたらしい。
 美智は壁に背を押しつけ、ひざががくがくと震えるのを抑え込んだ。
 あらためて戦慄にとらわれる。ナースチャが関わったのは、れっきとした殺人だ。実の兄を殺め、その首を切り落とし、このような形で公衆の面前にさらす。考えうるかぎりの残忍さ。彼女はついに、後戻りのできない境界を踏み越えてしまった。VIP用控え室へ戻っていったいどうしようというのか。
 強情なナースチャのことだから、追いつめられても最後の最後まで抗うだろう。男たちのうち幾人かは銃を手にしている。このままだと彼女は逮捕どころか、その場で射殺されかねない。
 美智は心を押し鎮め、地下階の平面図を思い浮かべた。
 宮殿の地下3層は一辺約百メートル、ほぼ方形の平面を持つ。中央のやや玄関寄りに大きな四角い吹き抜けがあり、そこへカシモフの墓室となる大円筒がすっぽりと収まっている。一見単純な構成だが、実はその内部にはきわめて複雑な動線が織り込まれていた。
 まず、吹き抜けの周囲を「内廊下」が回っており、これに沿ってエレベーター・ホールや階段、各種控え室、化粧室などが配されている。美智が今いるのが内廊下だ。さらに、この外側に従業員専用の「外廊下」があり、地下階の周縁部にたくさんある倉庫や大小の機械室を巡っている。
 内廊下と外廊下は、ところどころで連絡通路によってつながれている。また、外廊下は各部の都合によって折れ曲がっているうえ、時には枝分かれしたり、タラップで別の階へ通じていたりする。
 工事関係者ですら迷子になるほど錯綜した平和宮殿の地下階。東京で誰かが茶化したとおり、それはまさに現代のクノッソスだ。
 美智の心は次第に落ち着いてきた。とにかく警護隊より早くナースチャを見つけるのが先決だ。男たちが手を焼いているあのドアを避け、回り道してVIP用控え室へ行くことはできる。
 ──私がナースチャを救ってやらなきゃ。そう、たとえあの子がどんなに恐ろしい過ちを犯したとしても。
 腹が決まると、美智は抜き足で今しがた出てきた階段室へ戻った。階段脇に設けられたブリッジを渡って向こう側の扉を開けた。ひんやりとした空気が肌を包み、コンクリートブロック壁に挟まれた狭い空間に出る。従業員用の外廊下だ。それはエレベーターシャフトの裏を回り込んで建物の奥へと続いている。
 薄暗い中、美智は足を早めた。
 しばらく行くと、右手に連絡通路があった。耳を澄ませば、奥からどすんどすんという音が聞こえてきた。美智はその短い通路を抜けて内廊下へ戻ると、例のドアに裏側からそっと近づいてみた。どうやら警護隊の連中が表から体当たりを試みているらしい。してやったりとほくそ笑む。首尾よく男たちを出し抜き、VIP専用施設へ先回りできたのだ。
 木目調のドアが並ぶ瀟洒な施設内。美智は一歩一歩、用心深く進んだ。ハミードフ家関係者の控え室まで来ると、その戸口が細く開いているのが目に留まった。中から光が漏れている。
 ドアの隙間から部屋をのぞき込み、美智はあっと小さく声をあげた。中央に置かれたソファセットにワンガが身を沈め、不自然な姿勢でぐったりと頭を垂れていた。急いでそばへ駆け寄った。が、手を取って脈を確かめるまでもなく、老婦人の命が尽きていることは明らかだった。
 美智は全身から血の気が引いていくのを覚えた。唇をかみしめ、背筋に走る悪寒をこらえる。
 まるで眠るように目を閉じたワンガ。そのしなびた唇の端に白く乾いた唾液の跡があった。また、手には小さな金属ケースが握られ、傍らになにかしら青い錠剤が二つ三つ散らばっていた。すぐには信じがたかった。これは自ら毒をあおったということなのか?
 ふと三人掛けのソファの後ろを見て、美智はまたもぎょっとさせられた。ガタイのいいスーツ姿の男が一人、床に仰向けに倒れていた。首都開発公団のボディーガードだ。意識を失っているが、こちらには息がある。
 男の体の脇にペンのようなものが転がっていた。かがんで拾い上げてみると、先端に鋭い針が付いていた。注射器に似ているが、押し込むべきピストン部分はない。代わりにダーツの矢のごとく小さな羽根が備わっている。どうやらそれは麻酔銃から撃ち出される注射針らしい。
 なるほど、と美智は思った。おそらく銃など使わず、手で直接この注射針を用いたのだろう。よほど強力なものなのか、鼻に近づけると、わずかにツンとした刺激臭がある。
 美智は身をかがめたまま、あらためて室内を見まわした。アトリウムで竣工式が始まる直前、ナースチャは着替えのためにこの控え室へ戻り、カシモフの首とともに待機していた。その際起こっただろうことを頭の中に描いてみる。

 ナースチャが高飛車な口調でボディーガードの男に命じる。
 ──ちょっとの間、部屋を出て外で待っていなさい。衣装替えをしたいから。
 男は携帯電話ゲームに興じていた手を止め、決まり悪そうに言う。
 ──だめだよ、ナースチャ。旦那様に言われてるんだ。首のそばを一歩も離れるなと。
 カシモフの首は透かし細工の装飾箱に入れられ、手押しのアンティーク・ワゴンの上に載っている。ワゴンはソファセットのローテーブルに横づけされている。
 ──出入り口はそのドア一つなんだから、廊下で見張っていればいいでしょ?
 食い下がるナースチャ。しかし男は頑として首を縦に振らない。
 ──我が手伝ってやる。化粧室へ行こう。
 ワンガが言って立ち上がった。が、その足取りはおぼつかず、案の定ソファの角につまずいてよろめいた。男が見かねて腰を上げる。彼は手を貸そうとして老婦人のそばにかがみ込んだ。
 間髪を入れず、ナースチャが動いた。彼女は音もなく背後から忍び寄り、逆手に握った注射針を男の首筋へ突き立てた。男は短い悲鳴をあげ、崩れるように床にひざをついた。
 ──急げ、急ぐのだ!
 入り口のほうを気にしつつ、ワンガが息をひそめて言った。折しも、大きな歓声が地下階の奥にあるこの部屋にまで届いてきた。大統領がアトリウムに姿を現したのだ。
 ナースチャはボディーガードの体を支え、どうにかソファの後ろへ引きずっていった。続いて、化粧室からダッフルバッグを取ってくると、それをローテーブルの真ん中にどさっと下ろした。
 顔を真っ青にしたナースチャが、震える声で告げる。
 ──おばあ様は後ろを向いていて。少しの間だけ。

 ソファに寄りかかった亡骸を前にして、美智は鼻の奥がつーんと痛くなった。老祈祷師はナースチャを竣工式へ送り出したあと、ほとんど間を置かずに服毒自殺を遂げたのだろう。これは練りに練られたはかりごと、自らの死をもいとわぬ反逆の一環だ。
 そこで美智はようやく思い至った。警護隊が開けるのに手こずっているあのドア。あれをくぐったナースチャは、そのままVIP用控え室に向かうと見せかけて、先ほどの連絡通路を曲がったのではないか。そうだ、彼女にはもうここへ戻る理由がない。すでにワンガと最後の別れを交わし、本物のカシモフの首を携えている。あとはうまく逃げ延びるだけだ。
 連絡通路から外廊下に出たら、ナースチャは建物南面の非常口を目指すだろう。あそこからなら誰にも見とがめられずに、地下駐車場の外に出られると信じて。だが、あの非常口は今朝、美智と警護隊隊長とのやりとりの中で話題にのぼった。きっと警備の対象になっている。
 早くナースチャを捜し出さねばならない。あの子はまだどこか近くにいるはずだ。
 美智は控え室を出て、もと来た道を引き返した。VIP専用施設の入り口付近まで来ると、外から例のドアをこじ開けようとして警護隊員たちがなおも徒労を続けていた。ドアの手前でさっきの連絡通路へ折れ、外廊下に戻る。ナースチャも同じ経路をたどり、この廊下をさらに先へ行ったのだ。
 薄闇の中、灰色のコンクリートブロック壁に沿って、奥へ奥へと急いでいく。と、まさしく行く手から争うような物音が響いてきた。もう少し進むと、今度は男の怒号、そしてなにかが壁にぶつかる音が聞こえた。ふと見れば、左手の壁に両開きの防火扉がある。これが非常口へ通じる避難通路だ。
 頑丈な扉を押し開けたとたん、美智は思わず目を見張った。
「ナ、ナースチャ!」
 真っすぐ延びる白くまぶしいプラスター仕上げの通路。そのずっと向こうで、ナースチャと一人の警護隊員が取っ組み合いをしているのが視界に飛び込んできた。
 手首を取られ、壁に押しつけられながらも、ナースチャは警護隊員の男にひざ蹴りを打ち返した。相手がひるんだすきにダッフルバッグを拾い、すぐ先の下り階段へ逃げだそうとした。隊員がすかさず腰の拳銃を抜き、ナースチャに狙いを定める。
 ちょうどそこへ美智は前のめりに走り込んでいった。
 スピードを保ったまま、ありったけの勢いで警護隊員に体当たりを食らわせた。衝撃で美智はバランスを崩し、隊員を巻き込んで側面の壁に激突した。両者はもつれあって階段を転げ落ちた。バン! と乾いた破裂音が耳に響いた。
「美智……!」
 ナースチャが踊り場へ駆け降りてきた。彼女はその場にひざをつくと、美智の上にのしかかっている男の体を押しのけた。ようやく圧迫から逃れ、美智は脇腹を押さえてうめいた。
「痛い痛い、あ痛たたた……。な、なにこれ。私、どうしたの?」
「しゃべらないで、じっとしていて。階段から落ちたはずみで、拳銃が暴発したんだ」
 ナースチャは美智のシャツの裾をまくり上げて腹部の銃創を調べた。次に、自分が着ているドレスの片袖をつかみ、力まかせに引っ張った。ちぎれた袖布を美智の手の甲に巻きつける。
「それを傷口に当てていなさい。すぐ助けを呼ぶから」
 隣で気絶している警護隊員の腰元で、携帯無線がさかんに耳ざわりな音をたてていた。ナースチャが無線機を取ろうとした時、美智は身をよじるようにしてその手をつかんだ。
「私は、だだ、だいじょうぶ。それよりナースチャ、この先の非常口はだめ。覚えてる? 大統領警護隊の隊長サン。実は今朝、彼に呼び止められて──」
 言葉を続けようとして、美智は自分の声が出ていないのに気づいた。嗚咽のようにのどが鳴るばかりだ。と、口の中に酸味を帯びた血があふれ、激しくむせ返った。
 その時、下り階段の先のほうから鉄扉の開く音が響いた。さっきの銃声を聞きつけ、地下駐車場を固めていた隊員たちが非常口の外から入ってきたらしい。ナースチャがすっくと首を上げ、次の踊り場を厳しい目で見つめた。ひとつ深く息を吸うと、彼女は耳を聾する声で叫んだ。たぶん「負傷者」、あるいは「急患」というようなことを。
 それからナースチャは腕を伸ばし、警護隊員の傍らに転がっている自動式拳銃を拾い上げた。銃のグリップから弾倉を抜く。なにかを確かめるように銃身の上部をかちゃりとスライドさせる。弾倉を再びもとどおり押し込む。一連の手慣れたしぐさを目の当たりにして美智は驚いた。
「美智、私はもう行く。あなたはここを動かないでね、絶対に」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「潔く手を引きなさい。これ以上私をかばえば、あなたは人殺しの逃亡を手助けしたとみなされる。私のことなんかより、まず自分の身を、あなた自身の命を守って」
 ナースチャは早口で言いながら、美智のほおを両手で包み、額に口づけした。名残惜しげに、その唇に言外の思いを託すかのように。
 ダッフルバッグを肩に掛けて立ち上がると、ナースチャはもはや美智に目をくれようとしなかった。彼女は拳銃を手にしたまま、階段を駆け上がっていった。来たばかりの避難通路を引き返し、宮殿の奥へと走り去ったのだ。
 美智が追いすがり、なんとか階段の上まではい上がると、ちょうど青灰色のドレスの後ろ姿が外廊下を左に曲がるところだった。
 ──しまった! そっちもだめなんだってば、ナースチャ!
 叫ぼうとしたが、うまく息を吐き出すことができず、やはりまともな声にはならなかった。美智は床に突っ伏し、また何度かせき込んだ。
 ほどなく慌ただしい足音がして、銃を持った黒スーツの集団が階段をのぼってきた。男たちの中から警護隊長が姿を現した。踊り場で正体なく横たわる隊員、階段を上がったところに座り込む美智を見て、すぐさま状況を察したようだ。彼は部下の一人になにか命じ、もと来たほうへと走らせた。
「あの子に銃を向けないで。お願い」
 美智は警護隊長を見上げ、やっと声を絞り出した。隊長は美智の片手に巻かれた青いサテン地の布を見やりながら、
「美智さん、よくお聞きなさい。お腹の傷は手術なしには止血すらできない。あなたを病院へ緊急搬送します。担架が来るまで、ここでじっとしているように」
「ナースチャに危害を加えないと約束して! 私が説得して必ず投降させますから」
「目下の状況では、美智さんにできることなど何一つないのです。どうぞ心配なさらず、あとはすべて我々にお任せを。よろしいですね?」
 静かな、それでいて脅すような口ぶりで念を押すと、警護隊長は残りの隊員とともに建物の奥へ姿を消した。
 通路の壁に背をもたせかけ、美智はぜえぜえとのどで息をした。
 ナースチャがどこへ向かったかは見当がついた。建物の反対側、北面の非常口だ。宮殿のプランは、東西に走る中心軸に関してほぼ対称になっている。したがって地下2階の北側にも同じような避難通路があり、地下3階の荷降ろし場を通らずに搬入口の外へ降りられる。だが、あそこも厳重に警備されているに違いない。彼女は袋のねずみも同然だ。
 美智はよろよろと立ち上がった。ナースチャと男たちのあとを追い、さっきくぐった防火扉まで戻った。激しい痛みに顔をしかめながら、再び薄暗い外廊下を行く。
「人の話を最後まで聞かないから、こういうことになっちゃうんだよ、ナースチャ。まずその悪い癖を直さないと……」
 足がもつれる。壁に触れる指に、コンクリートの冷気が伝わってくる。嵐を思わせるざわめきが地下の空気を満たしていた。上のアトリウムでは、なおも混乱が続いているようだ。
 途中、右手にまた内廊下へ通じる連絡通路があったが、美智は真っすぐ歩いた。大円筒とその付属施設を迂回して建物の北側へ行くには、宮殿最後部のひどく入り組んだところを通り抜けねばならない。やがて廊下の奥から複数の人間の怒声や乱れた靴音が聞こえてきた。やはりこちらで正解だ。
 脇腹の傷が燃えるように熱かった。あまりの痛さに気が遠くなってきた。いったん足を止め、壁に半身を預けた。呼吸の乱れをやり過ごす。と、ちらちら明滅したかと思う間もなく、天井の照明が消えた。驚いて周囲を見まわせば、点いているのはごく一部の非常灯だけだ。
 ナースチャが鍵をかけたドアを開けようとして、警護隊がシステムを誤操作したのかもしれない。どうしよう、と美智は焦った。けがをしているうえにこう暗くては、彼らに追いつくのは至難のわざだ。
 あらためて歩きだしたものの、数メートル先も見えなかった。廊下は右へ左へと曲がり、さらに奥へ延びていた。足裏で床を探る。一歩ごとに闇が深まる。すぐに自分がどこにいるのかわからなくなった。
 ついに美智はひざを折り、その場にうずくまった。
 ──自業自得ってやつでしょ。あの時、プランのこの部分を中途半端なまま投げ出したから……。
 奇妙に逆立ちした考えが美智をさいなんだ。そう、これは報いだ。東京で設計変更を強いられた時、納得いくまで地下階の平面図を仕上げることができなかった。ずっと心残りだった西側の最後部。自分の命運はまさしくその問題の箇所で尽きようとしている。
 硬い磁器タイルの床に手をつき、美智はまたひとしきり脇腹の激痛に耐えた。まるで内臓をいくつか焼き切られ、火がついたまま放置されたかのようだ。数秒か十数秒の間、意識がとぎれとぎれになった。自分はここでこうして死んでいくのか? にわかに恐怖に襲われ、やみくもに腕をばたつかせる。
 とその時、しびれた指先がなにかに触れた。見れば床の上に、名刺大の白くて薄いものが落ちていた。拾い取って目に近づけ、美智は思わず何度かまばたきした。自分の顔写真と名前、そしてなじみのある会社ロゴが印刷されている。
 それは、かつて東京の設計事務所で美智が首から下げていたICカード、社員証も兼ねた入退室管理用ICカードだった。

☞ 次回へつづく


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