カシモフの首【小説】 Ⅵ.血の竣工式 ④
美智はぽかんと口を開けたまま、その塩ビ製のカードを見つめた。
東京事務所のICカード社員証。これをなくしたのは一年前、あの停電の夜だ。真っ暗な事務所ビルの中をさまよううち、まだ計画段階だった世界平和宮殿に入り込むという夢を見た。翌朝、設計室で目を覚ました時、首から吊り下げていたこのカードはもう消えていた。それが今、なぜこんなところに?
ふと気がつくと、体が少し楽になっていた。麻痺していた手足に確かな生気が戻りつつあった。脇腹の痛みも和らいだようだ。美智は再び立ち上がった。
壁に寄りかかりながら、迷路の奥へと進んでいく。手の甲に巻いていた血染めの布は、いつのまにか取れてしまっている。あたりは相変わらずの暗さだ。一方、さっきまであらゆる方向から聞こえていた喧噪は、引き潮のごとくはるか彼方に退いている。
廊下の突き当たりを左に折れようとして、美智ははっと立ち止まった。壁の手ざわりがそれまでと違う。顔を近づけてよく見れば、その表面はざらざらしたコンクリートブロックではなく、滑らかな化粧板仕上げになっている。さらに数歩行くと、今度は床の踏み心地が変わった。柔らかくて弾力があるそれは、間違いなくタイル・カーペットだ。
──あの夢と同じだ。私、あの時通った道を逆方向に歩いてるんだ!
美智は記憶をたどりつつ先を急いだ。しばらく行って右に曲がると、そこからは長く真っすぐな廊下が続いていた。よどんだ空気をかき分け、脚を前へ繰り出しつづける。はたせるかな、暗闇の向こうによく見知った小空間が立ち現れた。それは東京の設計事務所の玄関前そっくりそのままだった。
非常灯一つを除き、天井照明はすべて消えていた。壁に掛かった会社ロゴのバックライトも深い影に沈んでいた。美智は取っ手を引いたが、玄関ドアは開かない。ICカードをカードリーダーにかざしてみる。すぐに反応があり、錠が解かれた。
真っ暗な室内に入った。手探りで進むと、ほどなく広々とした部屋に出た。ここでも照明は落ちていたが、体が間取りを覚えていた。大型のブラインドが何枚か上がっている。雨にぬれ、一面のっぺりと曇ったカーテンウォール。漆黒のガラス面を通してわずかな光が差し込んでくる。目が慣れるにつれ、整然と並ぶコンピュータがぼうっと浮かび上がった。
やはりどう見ても、東京事務所の設計室だった。当然というべきか、まったく無人のようだ。それにしても、と美智は思った。この雰囲気はくだんの停電の夜そのものではないか。時空を超えて一年前の日本に戻ってきたということ?
しんとした闇の中、一台の机のディスプレイがほのかに光っていた。近づいてみると、それはまさに美智の席だった。崩れるようにオフィスチェアに座り、二つある液晶画面にじっと見入った。左の画面に映っているのは、黒い背景にさまざまな色の線で描かれた建築図面。世界平和宮殿の地下2階の平面図だった。右の画面が表示するのはその3Dモデルだ。
頭の芯がずきずきと脈打つ。机にひじをつき、両手でこめかみを押さえる。
「あ痛たた……、これ、どういうわけ? なんで私のディスプレイだけ点いてるんだろ。ええと、あの晩はたしか、図面提出の締め切りに追われていて……」
もうろうとなりながら、美智は考えを巡らせた。
今こうして時を刻んでいるのは、まぎれもなくあの停電の夜だ。とはいえ、過去にさかのぼったなんてことがあるはずがない。では、もしこの一年間の経験こそが架空のものだったとしたらどうだろう。
例の奇妙な夢──次の朝、目覚めたはずのあの夢は、実は途切れることなく続いていた。自分はついさっきまでその長い長い夢の中にいた。世界平和宮殿の建設はただの幻想だ。竣工式での惨劇もしかり。現実の世界では、一年どころか一晩もたっていない。須藤美智はまだアスタナへ行ってすらいない、としたら?
ぞわぞわとした戦慄が、美智の襟足にはい上がってくる。
あれは現実のカザフスタンではなかった。想像によって創り出された架空の国、いわば「私のカザフスタン」だったのだ。それならすっかり説明がつく。なぜあの規模の建物が、あんな短期間で建ったのか。
「でも、じゃあ、ナースチャは?」
美智は顔を上げ、斜め前の席に目を凝らした。そこには誰も座っていない空の椅子があるだけだ。
すべてが空想であり、今度こそ本当に眠りから覚めたのだとしたら、ナースチャはいったいどこへ行ったのか。あの夜、事務所で寝入ってしまう前、美智は彼女と一緒に残業していた。そして停電が起こり、二人は離れ離れになったのだ。
──そうだ、夢の中ではどういう結末だったっけ? 私、いつのまにか気を失って、机に突っ伏したまま朝を迎えた。すぐに設計室を飛び出し、オフィス中を歩きまわった。会議室、応接室と片っ端から捜したすえ、最後にやっとあの子を見つけた場所は……。
また脇腹がうずき始め、美智はぐっと眉根を寄せる。
──思い出した、休憩室だ。事務所のスタッフが弁当を食べたり、お茶を飲んだりする休憩室。通路の端にあって、広くはないけど眺めがいい。ナースチャはあの部屋の窓際に置かれた長椅子の上で、うなされながらも深く眠り込んでいた。もしかすると彼女は今、あそこに?
美智は椅子から立ち上がろうとした。が、足がふらつき、座面の上に尻餅をついてしまった。歯をかみしめ、もう一度机のへりをつかむ。とその拍子に、目の前のディスプレイが揺れ、ぐんと明るさを増した。
右の画面、3Dモデルの中に動きがあった。コンピュータ・グラフィックスで作られた地下2階の廊下に、一つの人影が走り出てきた。片袖がちぎれた水色のドレス。肩に掛けた黒いダッフルバッグ。ナースチャだ。
追っ手をうまく撒いたらしく、ナースチャは身を低くして暗い中を進んでいく。カメラはくるくる回り、彼女のあとにつき従う。と、行く手に大統領警護隊の分隊が現れた。やはり、建物北面の非常口の手前で待ち伏せされていたようだ。
高精細な大画面に映し出される緊迫した情景。コンクリートの冷たいにおい。いくつもの荒々しい靴音。遠のきかける意識をたぐりつつ、美智はぼんやりと事の成り行きを眺めた。
「……なんだ、あなたはまだそこにいたの? 救いのない鬼ごっこを続けていたの?」
右往左往したあげく、ナースチャはもと来たほうへ引き返した。が、もはや逃げ場はなく、次第に地下階の西端へと追いつめられていった。彼女はたくさんある機械室の一つに飛び込んだ。ドアの陰に隠れ、ダッフルバッグからなにかを抜き出す。なにか鈍く光る物……拳銃だ。気絶した警護隊員から拝借したあの銃だ。
「ナースチャ、それはいけない!」
美智は反射的に机の上のマウスに手を伸ばした。左の画面の中でカーソルを動かし、平面図の一部──男たちの一団がなだれ込んできたあたり──を四角い枠線で囲い込んだ。キーボードからコマンドを入力し、選択されたオブジェクトをごっそり削除する。
平面図に加えた変更は、すぐさま3Dモデルに反映された。右の画面の中で廊下の天井がたわみ、壁が吹き飛んだ。床が抜け、追跡者たちは次々に暗黒の奈落へ振り落とされていく。あおりを受け、ナースチャが隠れていた機械室では、天井からダクトや配管類がばらばらと落下した。粉塵が舞い上がる中、ナースチャは危うく難を逃れ、部屋の隅で身をすくめた。
美智はディスプレイを食い入るように見つめる。
「すごい、魔法みたい! これ、竣工済みの宮殿と連動してるんだ」
そこで初めて気づいた。その図面は一年前のものではなかった。ハミードフ氏の変更要求を取り込んだ、もっとあとの版──最新版の設計図だったのだ。
──今、ここに存在するはずのない図面……。なにが起きているのか、わけがわからない。私たちはいまだ、悪夢のただ中にいるってこと? だったらかまわない、ナースチャを救う手立てはまだ残っている!
美智は平和宮殿の配置計画を思い浮かべた。ピラミッドが建つ人工の丘には、東、北、南の三方に切通しがうがたれている。東側の幅広で浅い切通しは、地下2階の正面玄関に至る参道。北側と南側の狭く深い切通しは、地下3階に潜る車両用の進入路だ。宮殿の出入り口はその三か所のみで、どれもが厳重に警備されている。
東京での初期の設計段階では、これらに加えて西側に四つ目の出入り口があった。来訪者は地下2階の裏玄関から第四の切通しを経て、宮殿背後の大庭園へ抜け出ることができたはずだった。施主によって取り消されたこの西側出入り口を復活させれば、ナースチャを建物の外へ逃がしてやれる。
ハードディスクの中を探したが、西側出入り口を削除する前の古い図面ファイルは見つからなかった。それがあれば、必要なところを移植できたのだが。
頭を絞って考える。一から図面を起こしている時間はない。平面図では、北側の車両進入路をコピーし、九十度回転したうえで西側に貼りつけよう。断面図では、東側の参道を反転コピーして流用する。こうすれば、短時間で建物の地下2階と西側庭園を結ぶ裏玄関が出来る。
美智は再び左の画面にかじりついた。キーボードの上でなめらかに指を走らせ、軽いタッチでマウスを操る。知らず知らずのうちに笑みがこぼれてきた。
「しばらく図面を引いてなかったけど、私の指、ちゃんと動く。うれしいな、製図ができてほんとにうれしい」
点と点を線で結ぶ。線で囲って面を作る。面を集めて空間を成す。そうやって宮殿の建築を少しずつ組み替えていく。美智は建物を、自分の体の延長のように深く感じることができた。その構造は美智の骨格そのものであり、各部の空間はいわば美智の臓器だ。廊下や階段は波打つ血脈、あるいは神経管だ。
手が血と汗でぬるぬると滑った。マウスを持ちなおし、美智はキーを打ち続けた。脇腹にはやはりひどい痛みがあった。シャツがぐっしょりとぬれ、冷たく体にまとわりついている。
ものの数分で図面の修正は終わった。右の画面でレンダリングが始まった。宮殿西側の盛り土の斜面が割れ、新しい切通しが掘り込まれていく。美智は力尽きて椅子の背もたれに体を預けた。ふと目をやれば、まわりの席のディスプレイが何台か点灯し、ちらちらとまたたいていた。
そこに映っていたのは、平和宮殿のアトリウムの様子だった。竣工式は中断され、大統領はすでに建物を去ったようだ。一方、式場を埋める招待客は、警護隊によってそのまま留め置かれている。
客たちが不安げに顔を見合わせているところへ、ドーンという衝撃が地下から伝わった。美智の手による「設計変更」の影響が及び始めたのだ。レッドカーペットの上にくずおれていたハミードフ氏が顔を上げた。床の震えとともに、さらに大きな地響きが起こり、人々は文字どおり飛び上がった。
ピラミッドの鉄骨がひずむ恐ろしい音が聞こえた。V字の列柱の表面を覆う金属パネルが次々に裂け散った。建物全体がぐらぐらと動く。小会議場を吊っているケーブルが幾本か引きちぎれ、鞭のように跳ね上がった。環状デッキは大きくずり下がり、7、8階の内壁にぶつかった。トップライトのガラスが割れ、逃げ惑う群衆の上に降りそそぐ。
美智は立ち上がって設計室を見まわした。
今やさらにたくさんのディスプレイが発光し、広い部屋全体をぼんやりと明るくしていた。それは、世界平和宮殿のあらゆる場所の実況生中継だった。地下3階ホワイエ、大階段、展示場エリア、ピラミッド上階の回廊、そして傾いた小会議場。どれも建物がひどく破損していく映像ばかり。スピーカーを通して、悲鳴と轟音が鳴り響く。
その狂騒を冷めた目で眺めつつ、美智はまた椅子に腰を下ろした。宮殿の揺れが収まるのを辛抱強く待つ。しばし見ていると、それぞれの画面の中で動きが小さくなり、やがてあらゆる音が絶えた。幸いにも崩落は免れたようだ。
美智は自分のディスプレイへ向きなおった。右の画面に表示された3Dパースにそっと呼びかける。
「もう誰も追ってこないよ。ほら、今のうちに出ておいで」
パースの中に動きが生じた。ナースチャが隠れていた機械室から顔をのぞかせた。あたかも美智の声が届いたかのごとく。
きょろきょろと左右を確かめながら、ナースチャはすり抜けるようにドアの外へ出てきた。カメラを後ろに従え、地下2階西端の廊下を用心深く進んでいく。追っ手の姿は見当たらず、あたりは平穏そのものだ。
長い廊下のちょうど中ほどに、壁が途切れて光が射し込んでいる箇所があった。新しく出来た裏玄関だ。ナースチャはつかの間ためらっていたが、どうやら意を決したらしく、大きなガラスドアに手をかけた。風除室を抜けると、そこは左右を高い壁に挟まれた屋外空間。見上げれば、青空が一筋の細い帯となって西へ伸びている。彼女はその切通しを早足で歩き、造成中の大庭園へ出た。
きらきらと輝くイシム川の川面に向かって、ナースチャは広い中央園路を真っすぐ駆け下っていった。裾を持ち上げた青灰色のドレスが風にひるがえる。肩に掛けたダッフルバッグが上下に揺れる。
色とりどりの刺繍花壇を通り過ぎ、すり鉢状の急斜面の上に出た。彼女は足を緩めず、野外劇場を思わせる幅広の階段を走り降りた。さらに進むと、噴水を備えた広大な水盤が行く手を阻む。回り道を避け、水の中をざぶざぶと渡る。植えられたばかりの若木の林を突っ切り、ついに川べりへたどり着いた。
まさにその時、すぐ川下の橋脚の間から小型のモーターボートが現れた。操縦しているのは、あの腕の長い男だ。ボートは水面を切って急速に近づき、護岸すれすれのところをかすめた。ナースチャは船体と並んで走り、勢いをつけてデッキに飛び移った。
ほぼ同時に、武装した警備兵たちが現場に駆けつけた。彼らは大声で叫びながら、容赦のない銃撃を浴びせた。耳をつんざく破裂音。舞い飛ぶ粉塵。ボートは船首を川上へ向け、波を蹴立てて猛然と加速する。
男の手を借りて体を起こすと、ナースチャは後ろを振り返った。その顔が、琥珀色の瞳が大写しになった。ほんの一瞬ながら、彼女はカメラに視線を投げてよこした。まるでこちらの願いに応えるかのように。
美智はオフィスチェアに身を沈め、画面の奥へ消えていく二人の後ろ姿を見送った。
ナースチャが駆け抜けた庭園の園路は、美智にバージンロードを連想させた。また、目の前にモーターボートが残していく白い航跡から、ウエディングドレスの長い引き裾が思い浮かんだ。
「ほんと、結婚式みたいだね。おめでとう、ナースチャ」
うっとりするほどの幸福に包まれ、美智は我知らずほほえんでいた。
──これできっとだいじょうぶ。じゃあ私、先に休ませてもらおうかな。ううん、ちょっと疲れただけ。ナースチャ、あなたもけっして無理しないで……。
美智がワークチェアにもたれて意識を失うにつれ、設計室のディスプレイは一つ、また一つと消えていった。いっとき薄明るかった室内がもとの暗がりに沈んでゆく。
ただ一つ残った画面が、平和宮殿の玄関ホールを映し出していた。ちょうどそこへ、小柄な男が風除室を通って早足で入ってきた。ドミトリーだ。
建物内はいまだ悲鳴と怒号に満ちていた。ドミトリーが驚いて大階段を見上げると、礼服姿の招待客たちがなだれを打って転び降りてきた。取り乱した人々でごった返す中、彼はロシア大使の姿を認めて走り寄った。勢い込んで大使を問い詰めるドミトリー。大きな体を前に折り、肩で息をしながら答える大使。
だが、その場面を収めた映像も、次第にざわざわと乱れ始めた。
続けざまに明滅したかと思うと、最後のディスプレイがふっつり消えた。設計室は今度こそ真っ暗になった。あとには完全な静寂が訪れた。
☞ 次回へつづく
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