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カシモフの首【小説】 終幕: アナスタシア、河のほとりへ出る

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 アスタナから一路、北北西へ向かって、旧ソ連製の小さな四輪駆動車がひた走っていた。
 運転しているのはアナスタシアだ。彼女は青灰色のドレスを捨て、慰霊祭で身につけていた黒のワンピース──すっかり色落ちしている──に着替えていた。一方、ダニヤルは目を閉じたまま、助手席の背もたれにぐったりと寄りかかっていた。車が加速、あるいは減速するたび、彼は前へ後ろへと頭を揺らす。
 舗装の荒れた二車線道路は、どこまでも真っすぐに延びていた。緩やかな起伏をのぼったり下ったりしているうちに、あたりの草原はますます秋の装いを深めていくようだ。時折のっぺりとした水面が道沿いに現れる。灰色の鳥影がその上をかすめるように羽ばたいていく。
 イシム川上流でモーターボートを乗り捨てたあと、二人は廃ガレージに隠してあったこの車で落ち延びてきた。アスタナを抜け出す時は、検問所を避けて険しい外周路を走らねばならなかった。また、幹線道路に入ってからも、幾度となく停車して道沿いの建物の陰に車を隠した。首都へ向かう治安部隊の車列をやり過ごすためだ。
 ダニヤルはボートで逃走する際に被弾していた。彼は苦しそうな表情ひとつ見せず、ここまでアナスタシアに道を指示してきた。が、半時間ほど前からは黙りこくって、もう自分からはなにも言おうとしなかった。
 疲れて眠っているようなその横顔を眺めながら、アナスタシアは十年前のあの日の面影をたどる。

 一九九一年五月。
 それはよく晴れた木曜日で、メーデー二日目のくつろいだ午後のことだった。表へ出て南を振り仰げば、街のどこからでも万年雪を戴く天山山脈が見えた。白い峰の連なりに手を触れられそうなほどくっきりと。
 スターリン様式の古風なアパート建築が多く残るアルマティ市の中心街。アナスタシアはずしりと重い包みを抱え、両側にエゾマツの並木がある坂道を下っていく。
 ──バフティヤールおじさんへの贈り物だ。お酒が入ってるから、おまえは飲んじゃだめだよ。いいな、これは彼らのための特別あつらえで……。
 彼女は兄のカリムに言われ、知り合いのシャハノフ家へコンポートの瓶を持っていくのだ。ああ、ダニック・・・・に会える──。そう考えるだけで、息が苦しくなるほど胸がときめいた。そこの一人息子・ダニヤルのいたずらじみた笑顔など、日ごろ見慣れているにもかかわらず。
 ──いらっしゃい、ナースチャ!
 あの居心地のよいアパートメントに迎え入れられる。光と緑あふれるダイニング。広いテーブルの上には大皿が置かれ、いぶしたタラのごちそうが盛りつけてあった。作家とその夫人が優しく笑いかけてくれる。愛しい少年はすぐ隣にいる。
 アナスタシアが持参したエゾイチゴのコンポートは、さっそく夫妻のグラスに注がれた。通常はシロップで果物を煮込むところ、彼らの好みに合わせてワインを加えたものだ。甘酸っぱい果実の香りがほのかに漂う。
 両親が飲んでいるのを見て、ダニヤルは味見をしたがった。いつものことだったし、彼は少々のアルコールならふだんから大目に見てもらっていた。だからその時、なにがアナスタシアにそうさせたのかわからない。
 ダニヤルがコンポートのグラスを口元へ持っていった刹那、アナスタシアはほとんど反射的にそれを彼の手から払い落としていた。グラスが粉々に砕け、深紅の透明な液体が床に広がった。夫人が目を大きく見開き、ひきつったほおに両手を当てる。
 ──ナ、ナースチャ……、どういうことなの、これ?
 不意に隣に座っていた作家の手からグラスが滑り落ちた。しゃっくりのような音を発したかと思うと、彼はやにわにのどをかきむしり始めた。続いて、夫人も苦しそうに胸を押さえた。子供たちの目の前で、夫妻はそのまま床に崩れ落ちていく……。

 道路のへこみにタイヤを取られ、小型四駆車が大きく跳ねた。アナスタシアの体がシートから浮き上がった。彼女は我に返ると、床から生えた長いシフトレバーを操ってギアを落とした。ステアリングを握りなおし、再びアクセルを踏み込む。
 アスタナから二百キロ余りを走り、車はコクシェタウ山塊のふもとに差しかかった。この一帯がケネサリー・カシモフの生まれ故郷だ。
 なだらかなのぼり坂が続くうち、窓の外の風景が変わってきた。草原はところどころシラカバの林に覆われ始め、やがてマツの群生も入り交じるようになった。一つの尾根を越えると、そこにまた別の平地が開けた。金色に染まった秋の野原をステップ河川が蛇行している。
 河を見下ろす丘の上に、ぽつんと一本、鮮やかに色づいたシベリアニレの大木が立っていた。アナスタシアは四駆を駆って舗装路を外れ、草の生い茂る小道をのぼっていった。木に近づけるだけ近づいてハンドブレーキを引く。車を降り、黄色く輝く巨大な樹冠を見上げた。
 その高さは三十メートルを優に超えると思われた。半球状に枝を広げた姿はよく整っていて、まさしく自然が作り出した大ドームだ。目通りで直径一メートルはありそうな幹。太い根が浮き上がり、四方八方に伸びて丘の頂部をつかんでいる。落ち葉はほとんどなく、あたりの地面は濃い緑のマンネングサにびっしりと覆われている。
 アナスタシアは車の荷室からシャベルとダッフルバッグを引き出した。ひと息入れることもせず、ニレの根元から少し離れたところを掘り始めた。一心不乱に掘って、掘って、掘りつづけた──汗を飛び散らせ、狂ったようにシャベルを振るいながら。ものの五分ほどでじゅうぶんな深さになった。
 彼女はバッグからカシモフの首を取り出し、ガラスケースごと穴の底に置いた。なんの躊躇もなく、淡々と埋め戻した。それですべて終わりだ。カザフ史上の英雄は、一世紀半を経て母なる大地に還った。ワンガが望んだとおり。
 背後で草を踏む音がしたのはその時だった。アナスタシアが弾かれたように振り返ると、そこに見覚えのある男が立っていた。
 ロシア系のやや小柄な男。カーキ色のダウンベストを着て、両手でまっすぐにライフルを構えている。カザフスタンではまだ軍にも配備されていないだろう最新式のアサルトライフルだ。
 黒光りする銃を見やりつつ、アナスタシアは冷ややかに言った。
「あなた、モスクワから来たんだね。ノヴォシビルスクじゃなくて」
 ドミトリーは口元に笑みを浮かべるだけで、すぐには返事をしなかった。彼はアナスタシアを横目でとらえながら、そろそろと四輪駆動車に近づいていった。助手席の窓をのぞき込み、ダニヤルがすでに事切れていることを確かめる。それからようやくライフルの筒先を下ろし、彼女のほうへ向きなおった。
「僕は本庁ではなく、サンクト・ペテルブルグ支局の者だが。ま、そんなことよりもだ、大胆なやり口に驚いたよ。世界平和宮殿から抜け出すのに、建物の一部を爆破したのかい?」
「……まったく関わりのないこと、あなたには」
「見事な復讐劇だった。竣工式は中止。ハミードフ氏はその場で拘束された。殺人と国家侮辱罪の容疑で」
「どうしてここがわかった?」
「警察無線を傍受したんだ。君たちはアスタナから逃れる際、いったん北東のパブロダール方面へ向かっただろう? すぐにぴんと来た。カシモフとのゆかりを考えれば、本当の行き先はこっちじゃないかってね。それで先回りして、市境の外で待ち伏せした。あとは簡単、ずっと距離を保って尾行してきたのさ」
 ドミトリーはそこでひと呼吸置いてから、
「さて、本題に入ろう。君とダニヤルは奥クルガルジノでの慰霊祭に乗じ、ずいぶん手の込んだ方法でカシモフの首を盗み出した。そのうえ、あの用心深いカリムを草原におびき出し、手下ともどもまとめて始末した」
「だとしたら?」
「本当に君ら二人だけの連携で? まさかな。ワンガが手を貸したことはわかった。ただ、あの老婆にできることなど知れている。ほかにも協力者がいたんじゃないのか?」
「それが知りたくて、ここまで追ってきたの? たったそれだけの理由で?」
 アナスタシアは目を細め、ドミトリーの表情を探った。ドミトリーはひょうひょうと肩をすくめてみせ、
「やはり事の全容をつかんでおかないと心配でね。慰霊祭から竣工式までの成り行きについて、僕は人づてに聞いたことを頼りに想像をたくましくするしかない。けど、そこにいなかったからこそ、かえってよく見えるんだ。この話にはなにか裏がある。これですべてだというには、あまりに出来すぎている」
「種明かしをしたら、このまま私を放免してくれる?」
「いいだろう。約束しよう」
 ドミトリーがいかにも屈託のない調子で答えた。脇に挟んだライフルを下へ向け、しかし人差し指は用心金に軽く添えたまま。アナスタシアはそのにこやかな笑顔をじっと見つめていたが、やがて手にしていたシャベルを地面に突き立てた。
 彼女は言葉で描き出す。慰霊祭の翌晩、コルホーズ跡の廃厩舎で演じられた、あの最後の場面を。

 カリムがアナスタシアの後頭部に拳銃を押し当て、暗い通路の奥に立つダニヤルに向かって言った。
 ──カシモフの首はどこだ? おとなしく差し出せば、この女の命は保証する。
 ダニヤルは顔を上向け、屋根裏に架けわたされたロフトを指さした。そのデッキの縁には、カシモフの首を収めたガラスケースが置かれている。
 ──ふはは、ダニヤルよ。もっとおまえと無駄話に興じていたいが、そうもいかん。明日の朝、平和宮殿の竣工式が始まるまでに首を持ち帰らねばならんのでな!
 勝ち誇ったように叫ぶや、カリムはアナスタシアを床へ突き倒した。彼は拳銃を両手で構え、ダニヤルに真っすぐ狙いを定めた。ダニヤルは身動きもせず、無言のままカリムを見返す。
 ──ここまで俺を手こずらせた、その根性だけは褒めてやる。
 目をいからせて引き金を絞ろうとするカリム。そのカリムに背後から散弾銃を撃ち放ったのは──。

「……アイベク? 『ケネサリー・ハン報恩会』の?」
 ドミトリーは一瞬ぽかんとなり、それから堰を切ったようにまくしたてた。
「そんなばかな。あのNPO代表はカシモフの子孫として、誰よりも首の返還を願っていたじゃないか。どうして君たちと共謀して、すべてをぶち壊すようなまねをしなきゃならんのだ?」
 アナスタシアはくすりと笑った。
「あなたがそう思うのも無理はない。でも、カシモフの首がカザフスタンに戻ってきたら、アイベクはむしろ困るの」
「どういうことなんだ……」
「ペテルブルグからカシモフの首を奪い返したあと、ハミードフはそれをただ金庫にしまっておいたわけじゃない。父は首から採取したDNAと、カシモフ直系といわれる人々のDNAとの照合をひそかに進めていたんだ。彼らの検体を非合法なやり方で手に入れてね。なぜだかわかる?」
 少し考えてから、ドミトリーは答えた。
「首の帰属をめぐって将来争いが起こるかもしれない。それに備えるためだろう」
「そのとおり。いくら首奪還の功労者だとしても、カシモフの子孫を差し置いてその所有権を主張するのは難しい。だからこの一年間、父はさらに私財を費やしてDNA鑑定に取り組んできた。それでわかったんだけど、ケネサリー・カシモフの本物の末裔はたしかに何人か現存する。ただし、アイベクは違う。彼のDNAは首のそれと連関を持っていない」
 ドミトリーがあっと息をのんだ。
「するとあの男は……、かたり・・・か」
「そう、アイベクがカシモフの子孫だなんて嘘っぱち。だけど彼は、その偽りの血筋をビジネスにしてしまった。今さら後戻りはできない。カシモフの首が正式に返還され、DNA鑑定が公にされたら、アイベクはすべてを失う。体面、信用、財産……。せっかく準備してきた市議会議員選挙への出馬もご破算になる」
 乾いた葉擦れの音とともに、二人の間を冷たい風がかすめていった。アナスタシアは目を伏せ、先を続けた。
「あなたは知っているかどうか。二十世紀の前半、帝政ロシアに取って代わったソ連は、遊牧民をコルホーズに組み込もうとして無理な定住政策を進めた。結果として──」
「大量の家畜を失って、百万人を超えるカザフ人が飢え死にした。生き残った者たちも困窮を極め、うち数十万人が国外に亡命することになった」
 ドミトリーが言葉を補った。アナスタシアはこくりとうなずき、
「当時、モスクワの革命政権は、世界に向かって民族自決権の確立を唱えていた。その裏で、この地のカザフ遊牧民は自活の基盤を奪われ、たった二十年の間に人口がほぼ半分になってしまった。そんなめちゃくちゃな時代にね、混乱に乗じて戸籍が売買されたり、家系図が書き換えられたりということがあったんだ。借金から逃れる、有利な結婚をする、親族の中に罪人がいることを隠す。新しい世界で生き延びるために、ありとあらゆる理由で」
「アイベクの家系も……」
「だまし、だまされるのが世の習い。この地でやっていくのは楽じゃない。だから、私は彼に会いに行った」
 そこでアナスタシアは、言うまでもない説明をつけ加えた。
 ハミードフとロシア側との間で秘密協定が結ばれたあとのこと。アナスタシアは人目を避けてケネサリー・ハン報恩会の事務所を訪れ、アイベクと直談判した。父の書斎から持ち出したDNA鑑定書のコピーを見せ、次のような取引を持ちかけたのだ。
 カシモフの首は誰の手にも渡らず、最後は人知れぬ場所に埋められる。それと引き替えに、アイベクはダニヤルの復讐計画に全面的に協力する──。
「慰霊祭の現場で、停電やら車の爆破やらのお膳立てをしたのは奴だったんだな。たしかにそれでなにもかもつじつまが合う」
 ドミトリーがあきれ顔で首を振った。彼は視線を落とすと、足元を確かめるように下草を踏みなおした。ごくさりげないしぐさ。だが、その動きからは、ひとつの明確な意思が伝わってくる。
「私には彼を非難する道理はない。そうでしょ? ロシア人妾の娘に、戸籍や家系がなんの意味を持つというの」
 アナスタシアは低くつぶやき、くるりとドミトリーに背を向けた。服の裾を黒い翼のようにひるがえして。
 ニレの枝葉が頭上でざわめく。眼下には、黄金色の大草原が視界いっぱいに広がる。丘の縁を回り込み、枯れ葦の間を流れゆく内陸河川。右へ左へとうねる川筋を見晴らし、彼女は続ける。
「こうして眺めるぶんにはきれいだけれど、ステップとはいつも過酷な場所だった。夏は猛暑、冬は極寒。次々と起こる大小の戦争に、終わりのない圧政。人はそんなもろもろをかいくぐりながら生きる。知恵を絞り、ありったけの力をつくして、近しい者たちと生きぬいていく」
「ふむ、それが君の信条というわけか」
「これが草原の流儀なんだ。あなたの血の中にもあるもの、あなたの体にも刻まれているものだよ、ドミトリー!」

 その言葉が終わるか終わらないうちに、アナスタシアは体を鋭くねじって振り返った。伸ばした両手は、地面に突き立ててあったシャベルの取っ手をつかんでいた。彼女は軸足に体重を乗せてコマのように回った。腕をしなやかに振り抜き、遠心力に任せてシャベルを投げ放つ。
 ──あっ、よせ!
 シャベルは刃先で空を切り、ドミトリーに向かって真っすぐ飛んだ。彼は紙一重でそれをかわしたが、体勢を崩して地面に倒れ込んだ。すかさずアナスタシアは草の上を横っ跳びし、樹の根のくぼみに置かれたダッフルバッグに飛びつく。
 汗にじむ額、眉。ギリときしむ奥歯
 握り返された手の熱と、浮上するめまい
 すべてを急速に薄めていく、あの白い境界
 今、アナスタシアは拳銃を抜かねばならない。ドミトリーが身を起こすより早く。そのライフルの銃口が光を拾うより早く──。

(了)


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