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カシモフの首【小説】 Ⅳ.怪火・亡霊のうわさ ➀

【前章までのあらすじ】
美智はカザフスタンに入国、アスタナでナースチャとともに世界平和宮殿の施工監理に取り組む。すでに面識があるハミードフ氏、カリムに加え、ハミードフ家の祈祷師や家政婦長など、癖のある面々が次々に登場する。
ある時、美智はロシア人の業界紙記者と知り合い、十九世紀のカザフの英雄ケネサリー・カシモフについて聞き込む。カシモフのことを調べるうち、美智はようやく平和宮殿の真の用途に気づいた。自分が建てているのは国際会議場ではない。それはカシモフ公の首を祀るための霊廟だったのだ。

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 草原の都市に夏が訪れた。
 高く澄んだ空は気持ちがいいが、美智の顔には強い紫外線が容赦なく降りそそぐ。草のにおいを含んだ乾いた風が吹き、とろりとしたイシムの川面を渡っていく。昼下がりのいっとき、美智は対岸の新都心を眺めやる。そこには黒々とした真新しい道路が敷かれ、工事中の高層建築群がゆらゆらと揺れて見える。
 一方、世界平和宮殿の足元では何台ものブルドーザーが走り、建物のまわりに大規模な盛り土が行われていた。コンクリート躯体はすでに土の中。計画どおり、ピラミッド部分だけがなだらかな丘の上にそびえる。その外装は、下から五分の三までの石張りの部分が完成済みだ。
 砂ぼこりを避けて建物の中に入れば、単純な外観からは想像もつかない劇的な内部空間がほぼ全容を現していた。
 玄関ホールから大階段をのぼって地上1階に出ると、正方形平面の壮大なアトリウムが広がっている。四面のガラス壁が内側に傾くことにより、吹き抜け空間は上に向かってすぼまっていく。美智が最初に企図した「内なるピラミッド」の名残だ。
 もっとも、すでに見たとおり、この収束は6階レベルで止まり、約十メートル四方の天窓のような開口で終わる。そこから先、吹き抜けは逆四角錐状に開いていくのだ。それは9階レベルで建物の外殻と接し、ピラミッド頂部のがらんどうと溶け合う。
 要するに、設計変更を経て実現したアトリウムは、中間の狭くなった部分を境に上下二つの空洞から成っている。この砂時計のようにくびれた吹き抜けを通して、自然光がピラミッドのてっぺんから屋内へ深く射し込む。反面、これほど大きなアトリウムを抱え込んだことで、周辺のオフィスやビジネスセンターはつけ足しにすぎなくなった。
 結局のところ、この建物は鉄とガラスでできた現代の神殿であり、新首都アスタナを盛りたてる舞台装置なのだ。

 ある時、美智はナースチャとともに6階スラブへ上がり、日がな一日、アトリウム上段の空洞内に小会議場が設置される様子を見上げて過ごした。
 外径十九メートルのドーナツ状の小会議場は、閉じた部屋ではなく、吊り構造のオープンデッキだ。内径七メートルの「ドーナツの穴」のまわりに会議テーブルが造り付けられ、計二百席の議席が同心円状に配される。会議の出席者はガラス張りのピラミッド頂部の中に浮かび、アトリウム1階へと落ち込む大穴を囲んで議論するわけだ。
 この奇想天外な小会議場の組み立てを行うため、ピラミッド頂部にはまだ外壁ガラスが入っていなかった。タワークレーンが鉄骨フレームの合間から会議場の部材を吊り下ろす。9階レベルに組まれた足場の上で作業員がそれを受け止め、溶接が行われる。
 突風に注意しつつ作業は続けられ、午後遅くに無事終了した。美智とナースチャはアトリウムの内壁に沿ってらせん状のスロープをのぼった。最後に細いブリッジを渡り、人けのない議場デッキへ出る。
「うわあ、これ、会議中にペンが転がったら、アトリウムの底まで落っこちちゃいそうだ!」
 美智は歓声をあげ、大きな輪を成している会議テーブルに駆け寄った。内装工事はこれからだが、デッキと一体構成のテーブルだけは、前もって組み付けられていた。天板に両手をつき、こわごわ「ドーナツの穴」をのぞき込む。はるか下の1階フロアに、作業員たちの小さな影が点々と動いているのが見えた。
「あんまり身を乗り出すと、あなた自身が落ちるよ。二度目はもう助けてあげないんだから」
 ナースチャが美智のパンツのウエストをつかんで後ろへ引っ張った。その声からは春以来のとげとげしさが薄れ、かつての甘くかすれた響きが戻りつつある。
 二人はヘルメットを脱ぎ、会議テーブルにもたれて一休みした。円環状に並ぶ議席の列は、外側に行くほど高くなっていた。それらは水平方向への眺望を遮りながらも、空の全体に向かって開かれている。見上げると、夕暮れにはまだ間があるにもかかわらず、ピラミッド頂点の鉄骨の先に少し欠けた月が懸かっていた。
 ナースチャが顔を上向け、吹きさらしの風に長い髪をなびかせた。彼女は白い袖なしのポロシャツを着て、ジーンズの腰に黄色いウインドブレイカーを巻いていた。美智はその伸びやかな姿ににんまりと見とれ、それからまたテーブルにひじをついてアトリウムへと視線を落とした。
「国際会議場として設計したこの建物が、ほんとの本当にケネサリー・カシモフの霊廟になるなんて……」
 先日、屋敷でカシモフの首の実物を見せられ、ハミードフ氏からおおまかな話は聞いていたものの、美智は目の前の事実にあらためて驚くばかりだった。ナースチャが隣に並び、やはり階下を見下ろしながら言う。
「正式な発表はまだ先だけどね。父が今、政府内で最後の根回しをしているところ」
「工事は現行の図面に沿ってどんどん進んでるよ。どうするの?」
「あとで地下大会議場だけ造り替えて、カシモフの墓室にする。ピラミッドはいじらずに、歴史博物館、資料館として利用する。この小会議場では、年に数回、宗教者会議や民族代表者会議のような催しを開くことを考えているらしい」
 美智はすでに、サンクト・ペテルブルグで行われたカシモフの首強奪のあらましをほのめかされていた。ナースチャは多くを語らなかったが、そこに血染めの葛藤があったことは感じられた。東京に来たカリムが腕を吊っていたわけ。インターポールを通じてナースチャが国際手配された真の理由。今や欠けていたパズルのピースがそろいつつある。
「平和宮殿はつまるところ、廟としての機能を軸にした宗教・文化施設となるわけか。ナースチャの東京行きの目的は、その方針に従って設計の流れを誘導することだったんだね」
「ごめん、美智。今までうそばっかりついて」
 ナースチャは目を伏せ、静かに言葉を続けた。
「去年の夏、国際コンペの選考結果が出た時点では、父はクンストカメラからの首の奪還が成功するかどうか確信を持っていなかった。でも、うまくいくという前提で、私を事務所に受け入れるようアレックスに求めた。もちろん廟のことは伏せたまま。その後、実際に首強奪が成し遂げられ、私は予定どおり東京へ飛んだ。ただ、美智も知っているように、父が自ら渡日して設計変更を要請したのは、ずっとあとになってからだった。大統領の内諾を得るのにそれだけ時間がかかったんだ」
「ハミードフ氏が要求したあの四項目の変更は……」
「美智の想像どおり、建物をカザフの廟建築の伝統に沿わせるためだよ。中でも、天頂から真っすぐ採光するという条件は譲れなかった。なにせ魂の通り道だから。覚えてる? 草原において、死者の魂はまさにドーム頂部の天窓を介して廟に入ってくる。墓室に安置された遺体との再結合をめざして」
「彼はそもそも、そこまで計算に入れてうちの事務所のコンペ案を選んだんだよね。その理由は、私たちの案には必要な要素がそろっていたから? 大きなアトリウムとか」
「それもあるけど、一番の決め手はあなたのデザインの『質』だよ。単純明快な構成の建物なら、どんな目的にも転用しやすい。厳格な幾何学的形態は、とりわけ儀礼的、象徴的な用途には向いている。以前、父が夕食会の席で遠まわしに言ったでしょう?」
「ふうぅ、あなたのお父さんって、やっぱりすごいよねぇ。正直、初めは怖いだけの人かと思っていたけど」
 美智は感服のため息を漏らした。すると、それまで穏やかだったナースチャの横顔に影が差した。
「美智、父があなたをカシモフの首の件にまで引き込んだことを甘く考えちゃいけない。あなたは今、とても危険な事に関わろうとしている。外国人だからって、安全とはかぎらないよ。興味本位で首を突っ込んでいると──」
「わぉ、施主の秘密を知りすぎたために、その身を危うくする若手建築士・美智! はてさて、彼女の運命やいかに?」
「冗談やおふざけじゃないんだってば、もう!」
 ナースチャが語気を荒げた。これまで見せたことのない、あからさまな感情の表し方だった。彼女はすぐ後ろめたそうに顔をそらすと、
「父はもともと信心みたいなものとは縁遠い人だった。首のことだって、あくまで政治的、実利的な動機から始めたんだ。それがこのところ、急に度を越してのめり込むようになった。あんな彼を見るのは初めて。よくないきざしだよ。だからあなたはこれ以上深入りせず、なるべく早い時期に東京へ帰るべき。それと、カリムに注意すること。絶対に彼と二人きりにならないで」
「カリム? なんでまた」
「……黙って私の言うとおりに従えばいいの」
「お兄さんとはめったに顔を合わせないし、そもそも私、彼に興味なんか──」
 軽く受け流そうとして、美智ははっと言葉を飲み込んだ。ナースチャのその警告が、先日起きた家政婦長の事件と関係しているのではないかと思ったのだ。ロンドンにいる娘のところへ移りたいと明るく語っていた家政婦長。彼女が自殺したとは、美智にはいまだに信じられなかった。あの件以来ハミードフ邸に漂う嫌な雰囲気──誰もが息をひそめ、互いの顔をうかがっているような──も気にかかっていた。
「そ、それはそうと、家政婦長さんが亡くなってから、私、お屋敷で話し相手になってくれる人がいなくなっちゃった。ちょっとさびし……、いや、退屈だな。ナースチャはちっとも宿泊棟に遊びに来てくれないしね」
 美智は震える声を抑えつつ、ぎこちない笑みを隣へ向けた。ナースチャはじっとうつむいていたが、やがていっそう暗い調子で言った。
「美智、くどいようだけど、父に見込まれたことを深刻に受け止めてほしい。私が怖いのはね、あなたの設計には彼のような権力者を引きつけるものがあるってこと」
「またまた大げさな。だいたいピラミッドだって、もとはといえばアレックスの発案で──」
「でも、それを形にしたのは美智でしょ。あなたの数学的な美意識や純粋なものへの志向が重宝がられ、利用されてるんだ。あなたが意図しないやり方で、あの人の名誉欲のために」
「たとえそうだとしても、私、ぜんぜんかまわないよ。それに実をいえば、国際会議場だろうと、霊廟だろうと、そんなのあまり大事じゃないんだ。ナースチャと一緒にこの建物を完成させることができるなら、私はじゅうぶん幸せ。そのためにアスタナへ来たんだから」
 特に気負うでもなく、美智は淡々と言った。気がつけば、ナースチャが目を大きく開き、まじろぎもせずにこちらを見返している。
「美智、今の、もう一回言って」
「国際会議場だろうがなかろうが……。な、なに? 私、まずいこと言った?」
「あなた、気にしてないの? 建物の用途が変わったこと」
「これっぽっちも。実際に建ったこの案も嫌いではないし」
「どういうこと? 東京では、無茶な設計変更を押しつけられて、ひどく落ち込んでいたでしょ。心血を注いできた国際会議場が、施主の気まぐれで台無しにされちゃうって」
「うーん、あれはあれ、これはこれ。要は、ちゃんと建てば満足なんだ。身も蓋もない言い方かな。でも、建築家ってそういうもんじゃない? ぶっちゃけた話」
 ナースチャはあぜんとした表情のまま固まっていたが、やがてくすくす笑いだし、ついにあははと声をあげた。
「それでそれで? 美智はただ私と一緒にいられれば幸せなんだ?」
「なんかしゃくに触るなあ、その取り上げ方。平和宮殿がどうなってもいいってことじゃないよ?」
「わかってる。この建物そのものがあればいいんだね。用途はともかく」
「そのとおり。よく入れ物より中身が大事なんて言うけど、私たち建築家にとっては入れ物が核心だもん。それに、世の中は移ろいやすくて、用途や機能は時とともに変わってしまう。むしろよく出来た建物本体のほうが長く生き延びると思うんだ。ナースチャのことも──」
 美智が話している最中に、ナースチャがふと手を伸ばしてきた。彼女は美智のあごを上げさせ、左ほおのかすかな傷痕──絆創膏はとうに取れていた──をためつすがめつする。
「続けて。『ナースチャのことも』?」
「……ナースチャのことも同じ。春に再会したころ、ナースチャ言ったよね、私があなたのことをなにもわかっていないって。そうだよ、私には人の中身なんて見えない。あなたの行動や立ち振る舞いに魅かれたから、ここまで追いかけてきたんだ」
 その言葉が終わるのを待って、ナースチャが顔を近づけてきた。目をのぞき込み、慎重に同意を確かめてから、ナースチャは美智の唇に自分の唇を重ねた。やんわりと、ほんの数秒の間。続いて、彼女はテーブルに寄りかかっていた美智を真っすぐ立たせると、両手をつかんで上下左右にぶんぶん振りまわし始めた。
 これからワルツでも踊ろうとするかのようなはしゃぎぶり、浮かれた身のこなし。またひとしきりくすくす笑いが続き、嬌声が小会議場に響きわたる。血の気の薄かった顔に赤みが差し、琥珀の瞳が光を取り戻している。
 今度は美智があっけにとられる番だった。
 ──これって、やっと彼女と仲直りできたってこと? 私、なにか言ったっけ。こんなふうに場の雰囲気をひっくり返すほどたいそうな言葉を?

 美智がアスタナへ来てから三か月半がたとうとしていた。
 東京にいたころから抱き続けてきた二つの疑問。そのうちの一つ目、世界平和宮殿プロジェクトの真相については、もはやすっかり明らかになった。他方、残されたもう一つの問い、くるくると移ろうナースチャの心模様はといえば、いまだはかり知れない謎のままだった。

☞ 次回へつづく


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