カシモフの首【小説】 Ⅳ.怪火・亡霊のうわさ ➁
ある晩、美智は夢を見た。
泥のような眠りに心地よく身をゆだねるうち、気がついたら夜の草原にひとりたたずんでいた。風が水のにおいを運んできた。すぐ先に黒々とした水面が広がっている。さらに向こうを見やると、石積みの防壁が月明かりを受けて金色に照り輝いている。
──あれは……、アクモリンスクの砦?
驚きに目を見開いたその時、右手奥、荒れ地のやや小高くなったあたりからときの声があがった。騎馬の大集団が地勢に乗じて駆け下ってきた。カザフ遊牧民の軍勢だ。
草むらに立ちつくし、対岸の差し迫った情景に眺め入る。と、視点は体を離れて自由に飛びまわり、はるか高みから事の成り行きを見下ろした。夜鳥か、コウモリにでもなった気分だ。恐れは感じない。暑さ、寒さの感覚もそこにはない。
川に面した側を除き、砦は三方を濠と築堤で囲まれていた。が、火矢が放たれて夜空に弧を描き、次々と兵営の屋根に降りかかった。いくつかある稜堡、そのうちの一つに丸太組みの塔が立っており、上部の銃眼からコサック兵たちが発砲した。足元にある砲門からは大砲が火を噴いた。しかし、必死の応戦もむなしく、砦全体が煙に包まれつつある。
不意に左手の沼地から遊牧民の分隊が現れた。襲撃者たちは背をかがめ、防御が手薄になった隙を狙って濠を渡った。堤を乗り越えるやいなや、いっせいに刀を抜き放つ。そのままなだれを打って進み、日干しレンガ造りの兵舎へと突入していく──。
*
ドアを激しくたたく音がして、美智ははっと目を覚ました。
すぐには自分がどこにいるのかわからなかった。真っ暗がりの中、シーツの上でほてった体をよじった。またドアがたたかれた。
ヘッドボード脇の棚を見れば、置き時計の蛍光の針は午前四時前を指していた。しかたなくベッドから降りて戸口へ行った。ドアを小さく開ける。部屋の中をのぞかれないよう、できるだけ小さくだ。と、よほど慌てて宿泊棟まで走ってきたのだろう、女中が息も切れ切れに叫んだ。
≪Пожар!≫
「パジャールって……、火事! えっ、このお屋敷じゃなくて?」
美智はすばやく服を着てハミードフ邸の本館へ急いだ。車寄せに出ると、すでにランドクルーザーが横づけされ、その傍らで運転手が待っていた。ナースチャとともに後部座席に乗り込む。起き抜けのナースチャは丈長のTシャツにレギンスという姿で、頭から薄手のフーディーをかぶっていた。表情はぼんやりとして、目の焦点が合っていない。
車は闇のとばりをかき分けて走った。寝静まった街並みを抜け、イシム川沿いへ出たとたん、暗い川面の向こうで炎上中の平和宮殿のピラミッドが見えた。まるで爆撃でも受けたかのように黒煙が立ちのぼり、夜明け前の空を大きく焦がしている。
橋を渡ってまもなく現場に乗りつけた。サイトオフィスの周辺は投光器によって明るく照らされていた。が、かえって背後の宮殿の様子がよくわからない。深い群青色の空気の中に巨大な三角形のシルエットが浮かんでいる。その頂部は噴火直後の火山のごとく、オレンジ色のかすみに取り巻かれている。
コントラクターのオフィスに駆け込むと、そこはまさに戦場そのものだった。ひっきりなしに出入りするトルコ人たち。パジャマの上に作業服の上着を羽織り、現場所長のスナイが人の輪の中で対応に追われていた。大きな太鼓腹をした年輩の男で、額の禿げ上がった赤ら顔や黒く濃い口ひげには、いかにも親方といった貫禄がある。
その場にオルハンの姿を見つけ、美智は後ろから早口で詰め寄った。
「オルハン・ベイ! 状況を教えて。火元はどこ?」
「あ、美智っ、燃えているのは6階より上らしいんだ。今、参道に置いてある機材をどけさせようとしている。消防車が来たら、建物ぎりぎりまで近づけるように」
血走った目をぐりぐりさせるオルハン。
美智は歯噛みした。なんとタイミングが悪いことだろう。躯体が組み上がったばかりの建物地上部には、まだ連結送水管をはじめとする消火設備が整っていない。できることといえば、屋外から放水して火の勢いを止めるくらいなのだ。
その時、どたどたと足音がして、一人の作業員が部屋に飛び込んできた。
「おい、誰かがピラミッドのほうへ走っていったぞ! あれ、もしかして施主のお嬢さんじゃないか?」
美智はぎょっとなって周囲を見まわした。つい今しがたまでそばにいたナースチャの姿がない。
「オ、オルハン、宮殿の正面玄関、まさか開いていないよね? こんな時間だし」
「いや、それが……。昨日一昨日と、地下階で機械室の壁の塗装をやったろ。玄関も、北と南の車両用出入り口も、換気のために夜どおし開けてあるんだ」
オルハンが言い終わらないうちに、美智はもうオフィスを飛び出していた。
未舗装のままの参道を宮殿に向かってひた走る。途中、資材置き場から幾人かの作業員が火の手を見上げていた。彼らに大声で呼び止められたが、美智はかまわず先へと突き進んだ。広い参道の最後の九十メートルは、人工の丘に掘り込まれた切通しだ。建物に近づくにつれ、左右の擁壁がぐんぐん高くなっていく。
正面玄関には両開きのガラス扉が五つ並んでいて、オルハンが言ったとおり、すべて開け放しになっていた。美智は吸い込まれるように風除室をくぐり、真っ暗な玄関ホールを通り抜けた。そのままスピードに乗り、大階段を駆け上がる。体は不思議なほど軽かった。それこそ羽が生えたみたいに。
一気に最上段までのぼりつめ、アトリウム1階へ出た。そこには赤々とした炎光が降り注ぎ、照明の落とされた大広間をまだらに照らしていた。目を凝らせば、はたしてナースチャはその中央に立ちすくんでいた。顔を上向け、光を垂直に受けて闇に浮かぶ姿は、スポットライトを浴びる舞台上の人物さながらだ。
美智はナースチャのそばへ走り寄り、耳元でわめいた。
「ナースチャ、どうして建物の中に入ったりするんだ? 危ないだろ!」
ナースチャは美智の声がまったく聞こえていないらしかった。やはり棒立ちのまま、なにかに憑かれたように吹き抜けを見上げている。
そこで初めて頭上を仰ぎ、美智はあっと息をのんだ。正方形の天窓──吹き抜けのくびれ部分──の先で小会議場の環状デッキが火に包まれていた。つい先日、ナースチャと一緒に歩き、話し込んだ場所。ぎこちなく笑い合い、成り行きで口づけをしたまさにそのデッキだ。
漆黒の夜空に浮かぶ巨大な炎の輪。それはあたかも意図されたかのごとく、美しく均一に燃えさかっている。火のはぜる音が聞こえてくる。すぐには身の危険を感じないのは、あまりにも現実離れした光景だからだろう。実際、二人が立っている1階フロアの空気は澄んでいる。ここが火災現場だとは信じがたいほどに。
ふと、ナースチャがかすれ声で言うのが耳に届いた。
「ごめんなさい。どうか許して、どうか」
美智はやっと我に返り、ナースチャの両肩をつかんで揺さぶった。
「またそういうおかしなことを! なぜナースチャが謝るの?」
「……私、やっぱり無理だ。こんな、こんなにひどいのは」
「無理って、なにが? ううん、それより今は一刻も早くここから──」
ナースチャは呼びかけに応えることなく、ぶつぶつと意味不明の文句を唱えつづける。
「本当にやるの? 憎しみに駆られるまま、彼らと同じことを、同じやり方で。いいの、それで? 私たちにはもうほかに道はないの?」
「あなた、いったい誰に向かって……」
美智は絶句するほかなかった。
ナースチャのロシア語のつぶやきは不思議なほどはっきりと聞きとれた。ただし、一つ一つの単語の意味はわかっても、どういう脈絡なのか、さっぱり要領を得なかった。天を見つめる彼女の瞳は、悲愴なまでの決意を宿している。まるで、強く念じれば小会議場が焼け落ちるのを防ぐことができる、壮大な炎のゆらめきをいつまでも宙にとどめておける、といわんばかりに。
しかし、魔法の時間は長くは続かなかった。やがて金属のよじれるような音が響いたかと思うと、会議場のリングの底からアルミニウム製の化粧パネルがまとめて剥がれ落ちた。それは6階スラブの縁に当たって砕け、ちょうど二人がいるところめがけて飛んできた。美智はとっさにナースチャを抱き寄せ、その頭を両腕で覆った。パネルは彼らのすぐそばをかすめ、火の粉をまき散らしながら床の上を滑っていった。「行こう、ナースチャ、早く!」
美智はナースチャの手を取り、もと来たほうへ走りだした。
火のついた建材が次々と落下してきた。今やそこらじゅうで煙が立ち始めていた。みるみる視界が失われていく。のどが、肺が、焼けるように苦しい。ナースチャは腕を引っ張られるまま、熱に浮かされたように繰り返した。無理だ、無理なんだよ。もう無理……。
大階段の降り口まで来ると、二人は激しい風にあおられた。ナースチャの髪が翼のように広がり、高く舞い上がった。
その時になって美智はようやく気づいた。この建物は下から吸い込んだ空気をアトリウムに向かって吹き上げているのだ。というのも、オルハンの言葉どおりなら、地下階の出入り口は三か所とも開いている。そして、ピラミッドの頂部にはいまだすべてのガラスが入っていない。つまり、建物の最下層からアトリウムを介して空へと抜ける空気の通り道が出来ているわけだ。それはまさしく暖炉の煙突と同じことだった。
美智はどうにか風に逆らいながら、深い闇の中を一歩一歩降りていった。片手で階段の手すりをつかみ、もう一方の手でナースチャの手を引いた。のぼるのに比べ、降りるほうがはるかに難しかった。耳元で空気がうなり、油断すればすぐ体が浮き上がる。気流はどんどん勢いを増しているようだ。
ナースチャは途中で何度も背後を振り仰いだ。アトリウムから落ちてくるオレンジ色の光の束。その妖しいまたたきに後ろ髪を引かれるように。彼女が足を止めるたび、美智は声を枯らして叫んだ。
「前を向いて歩くんだ、ナースチャ。ほら、しっかり!」
結局、火は引き続き数時間にわたって燃えつづけた。まだ薄暗いうちから大勢の野次馬や報道関係者が押し寄せ、敷地東側の大通りに鈴なりになって火事を見物した。幾度となく爆発音が鳴り、ピラミッドの頂部から火柱が上がった。黒々としていた煙が白っぽくなってきたのは、日がとうにのぼって本格的な放水が始まってからだった。
「これはまた、なんというザマだ!」
事務机の向こうに座るハミードフ氏が、珍しく顔を赤くして声を震わせた。そのすぐ脇にカリムが立ち、横一列に並んだ関係者にさげすむような目を向ける。
午前十時を過ぎたころ、サイトオフィスの施主の執務室には、美智、現場所長のスナイ、現場監督のオルハン、それにオルハンと同年輩の安全管理担当者が呼ばれていた。ナースチャはこの場にはいなかった。彼女は火事場に入った際に少し煙を吸ったらしく、医務室へ手当てを受けに行っているのだ。
大声の叱責が続く間、美智は陽光あふれる窓の外へたびたび目をそらした。あらためて眺める鎮火直後のピラミッド。形こそしっかり保っているものの、最上部の鉄骨は真っ黒に焼け焦げている。
「わからないなどということがあるものか。原因を言え、出火の原因を。いったいなにが燃えたんだ?」
ハミードフ氏の怒りは収まらない。トルコ人たちはそろって神妙な面持ちで立っていたが、やがてスナイが口ひげをもぞもぞと動かした。
「昨日はピラミッド頂部に複層ガラスをはめ込む作業が続けられていました。これには溶接、溶断作業が含まれます。そして真下の小会議場のデッキには、断熱材のウレタンなど、燃えやすいものが積んであった。上から落ちてきた火花が残っていて、あとになって引火したのかもしれません」
そんなはずはない、と安全管理者の男が横から抗弁した。
「あのウレタンは難燃性だ。しかも保管の際には防炎シートで二重に覆ってあった。間違ったって、あそこまで盛大に燃えやしないんだ!」
分厚いメガネをかけた、いかにも神経質そうな男。かわいそうに、すっかり取り乱している。彼はさらに言い募ろうとして、スナイに押し止められた。ハミードフ氏がいきり立つ。
「どうして小会議場を資材置き場にした? 一時的とはいえ、規定違反じゃないかね。スナイ君!」
「ミスター・ハミードフ、ほかにどこにも適当な場所がないのです。あの建物の構造では」
「ちょっと待ってくれ、やっぱりおかしい」
だんまりを決め込んでいたオルハンが口を挟んだ。彼は誰に向かって言うともなく、
「火が出たのは、夜間シフトの業務が終わってから何時間もあとの深夜だった。これはどう説明するんだ。そんなに長い間、火種がくすぶっていたってのか? で、それからやっと出火し、無人の現場でメラメラ燃え広がったと?」
一同は口をつぐみ、たがいに顔を見合わせるばかり。その問いに答えられる者はいなかった。額を手のひらでなであげつつ、スナイが疲れた声で言った。
「今の時期は空気も乾いているし、風にあおられたということもあるでしょうな。いずれにせよ、すぐにも火災の原因と損害の調査が行われます。その結果を待ちましょう」
コントラクターの面々が出ていくと、部屋の中はハミードフ氏とカリム、美智の三人きりになった。
次は自分が絞られる番か、と美智は身を固くして立っていた。施工監理者は、施主に任じられたいわば「工事のお目付け役」だ。今回の火事が起きた責任の一端は免れない。
さて、とつぶやき、ハミードフ氏が机の上に置いていた手をあごの下で組んだ。
「美智、君がナースチャを火事の現場から助け出してくれたそうだな」
「……いえ、私、たいそうなことはなにも」
「いやいや、もう少しで危ないところだったと聞いている。心から感謝するぞ」
氏はさっきまでとは打って変わり、落ち着いたまなざしで美智を見上げた。さして大事なことでもないんだが、というように彼は続ける。
「ところで、あの子は近ごろときどき、宿泊棟の君の部屋で夜更かししているようだね。昨夜も君のところにいたのか?」
気を抜きかけたところに不意を打たれ、美智は驚いてハミードフ氏の顔を見なおした。カリムが窓のほうを向いて立ったまま、横目でこちらをとらえているのがわかった。ごくりとつばがのどをくぐる。頭をかすめたのは、ハミードフ邸の本館と宿泊棟を結ぶ渡り廊下に設置された防犯カメラだ。
「あっ、はい、ひとりで退屈していると私が言ったものですから、ナースチャが遊びに来てくれて……、そのまま一緒に眠りました」
「今朝がた火事の知らせが入るまでずっと? 確かかね?」
美智は黙ってうなずいた。
「そうか。いや、いいんだ。つまらないことを聞いたな。下がっていい。今日はもう屋敷に帰ってゆっくり休みなさい」
ハミードフ氏はそそくさと話を切り上げた。その表情には一抹の気まずさ、ばつの悪さが漂っていた。氏が小首を傾けてカリムにちらりと目配せする。カリムは無言のまま、不服そうに眉を寄せただけだった。
美智はざわざわと騒ぐ胸の内をどうにか抑えようとした。場違いにも、今ごろになってナースチャの肌のぬくもりがよみがえる。
──う、うそは言っていない。堂々としていればいいんだ。でも、なぜこんな質問をするんだろう。娘に手を出すなという警告? まさかね……。
美智が頭を下げて部屋を出ようとした際、ハミードフ氏がぎこちない笑みとともに言い添えた。
「美智、これからもぜひ、ナースチャによくしてやってくれ」
*
翌日から火事場の後片付けが始まった。美智は朝一番にサイトオフィスを出て、平和宮殿のアトリウへのぼった。作業のはかどり具合を見守るためだ。
頭上を仰ぐと、巨大な吹き抜けの先に四角い夏空が開いている。その澄んだ青の中に、焼け残った小会議場の円い骨組みが浮かんでいる。なにか動物のようなにおいがするのは、床のところどころにたまった消火薬剤のせいだ。あたり一面に散らばる焦げついた建材の破片。それらを末端の作業員たちがげらげらと品なく笑いながら蹴り飛ばす。
無力感とやりきれなさが美智の上にのしかかってきた。秋には竣工式だというのに、まだタワークレーンあり、足場ありの突貫工事。それに加えて今回の火災だ。現場では誰もが疲れきっている。
いったん階下へ降り、地下階をくまなく見て回った。
組み立てが始まったばかりの大会議場──つまりはカシモフの墓室──の円筒壁、その足元に広がるホワイエ、軽やかな鉄骨造の大階段。どこもかしこもまったく無傷だった。あれだけ派手に炎が上がったことを考えれば、不思議を通り越して奇跡だ。フロア周縁部に並ぶ機械室まで来ると、もはや煙のにおいすら残っていなかった。
各機械室を結ぶ入り組んだ廊下を巡りながら、美智は火事のさなかの出来事を思い返した。
アトリウムの中央に立ちつくし、燃えさかる小会議場を見上げていたナースチャ。あんなふうに自暴自棄になった彼女を、前にも一度見たことがある。去年の暮れ、東京に初雪が降った夜だった。明治通りを行き交う車のヘッドライト。まぶしい光芒の中で振り向いた、あの涙顔が今も忘れられない。
しばらくたってアトリウム1階に戻ると、早くも昼休みの時間になろうとしていた。上階で仕事をしていた作業員たちがぞろぞろ降りてくる。彼らはこの大広間で合流し、三々五々連れ立って大階段のほうへ歩いていく。
十数人の集団とすれ違った際のことだ。美智はぎくりと体を震わせ、その場で足を緩めた。なにかが意識の端に引っかかったが、それがなんなのか初めはわからなかった。さらに数歩歩いてから立ち止まる。そこでようやく後ろを振り返った。
──そうだ、あの男だ!
美智は急いで引き返し、大階段の降り口へ駆け寄った。そのまま走り降りようとして、すぐさま人だかりに阻まれた。ちっとも先へ進めない。踊り場の手すりから精いっぱい身を乗り出し、現場作業員でごった返す玄関ホールに目を注いだ。
たった今、ほかの作業員に混じってうつむき加減に歩いていた男。上背があって、とても長い腕をした若い男。彼、昨年末に東京・歌舞伎町でナースチャと一緒にいた男に似ていなかったか?
☞ 次回へつづく
いいなと思ったら応援しよう!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?