カシモフの首【小説】 Ⅰ.世界平和宮殿の設計 ➁
カタ……カタ、タ……カタ……。
ナースチャが美智の斜め前の席に座り、無言でコンピュータに向かっている。たどたどしいタイピング。背をかがめ、右手の人差し指でキーボードをいじる。まるで危険物でも扱うような手つきだ。
阿部くんがそばについてCADを教えている。
「そう、ここはそのショートカットで。うん、上手だね。なかなか筋がいいよ。じゃあ次は──」
子供をあやすような甘い声が嫌でも耳に入ってくる。
同輩のヨリコが美智のほうを向き、わざとらしく口をとがらせる。
「ちょっとぉ、美智、なにあれ? 気が散って集中できなーい」
もとは香港からの研修生で、そのまま事務所に居ついてしまった劉さんは、
「いや、若い。若いって、いいですねぇ~。ハッハッハ」
ベテランの高橋さんが両手で顔を覆い、頭を振りながら、
「オレの、オレだけの阿部くんなのに。ひどいじゃないか、ううぅ」
「もう!」
そこで美智は椅子から腰を上げる。
「誰にだって初めてはあるでしょ。みんな、温かく見守ってあげてよね。同じプロジェクトの仲間なんだから」
朝の設計室のあちこちで忍び笑いが起きた。
事務所にとっても美智にとっても、今、最も大事なプロジェクト──それがカザフスタンの新首都アスタナに建てられる国際会議場「世界平和宮殿」だ。
今年、二〇〇〇年の春、国際設計競技が告示され、世界の名だたる設計事務所とともに美智が勤める事務所も指名された。アレックスは若いスタッフを集めて新たな設計チームを作り、そのチーフに美智を抜擢した。美智は初めて大規模な公共建築を一から手掛ける機会を得たのだ。
ピラミッドはどうだろう、と初回の打ち合わせで言ったのはやはりアレックスだった。
「途上国の指導層というのは強くて明快なイメージを好むものだ。小さな形態が寄り集まって緑の中に埋もれているような、そんな優しい案じゃだめだよ」
いかにも老練なアレックスらしいと美智は感心した。敷地は川を挟んで大統領官邸の対岸だ。そんな場所にピラミッド型の建築物が建つとすれば、新都にふさわしい象徴になるかもしれない。ちょうど、ワシントンDCにおける連邦議会議事堂と巨大なオベリスクの組み合わせのように。
美智はまずランドスケープを操作して、なだらかな正四角錐台の丘を築いた。そして、この丘の上面にぴったりと載る総ガラス張りのピラミッドを描いた。高さと底辺がともに六十メートル。エジプトの本家と比べ、もっとほっそりしたプロポーションを持つ。
それから美智は設計競技の要項に沿って、丘の地中に3層の客席を備えた大会議場を収めた。ピラミッドについては、1層目を多目的広間、2~8層目をオフィスやビジネスセンターに充て、それらを中央のアトリウムのまわりに配した。このアトリウムは建物の外殻と相似形、つまりピラミッドの内なる中空のピラミッドだ。最上階の9層目は展望台を兼ねた小会議場とした。総床面積はほぼ三万平方メートルに及ぶ。
Marvelous! と一言だけ言って、アレックスはすぐにこの構成を気に入った。
構造は、地中部分を鉄筋コンクリート造、ピラミッド部分を鉄骨造とした。とりわけ目を引くのは、3フロアごとに組まれたピラミッドのトラス構造だ。これはダイアグリッドと呼ばれるもので、建物全体を支えるのはもちろん、斜め格子の装飾的オブジェクトとして内外に視覚的な統一感を生み出す。
夏にアスタナで選考が行われ、美智たちの案は見事に一等を勝ち取った。並みいる強豪を押しのけての快挙だった。その後、カザフスタン側と正式に契約が結ばれ、設計チームは晴れて宮殿の基本設計に取りかかったわけだ。
気もそぞろに午後の会議をやり過ごし、美智は大急ぎで設計室に戻った。ナースチャを見ると、背筋をぴんと伸ばし、もう両手でキーボードを操っている。さっきまで人差し指一本だったのに。
阿部くんのところへ行って、小声で尋ねた。
「で、首尾は? どんな感じ?」
阿部くんは困惑したような笑みを浮かべ、
「普通じゃないよ、あの子。もちろんいい意味でさ。こっちが言うことを、一度聞いただけで片っ端から覚えていくんだ」
「ほんと? なら、ひとまずだいじょうぶだね」
美智はほっと息をついた。
「それにしても困ったもんだ。みんな、気晴らしのためにからかうようなことばかり言って」
「はは、別に悪気があってのことじゃ……」
「昨日面接で、今日が彼女の初出勤なんだよ? この歓迎のしかたはあんまりでしょ」
「ま、たしかにね。大人げないといえばそのとおり」
ナースチャが平和宮殿チームに配属されたのは、当然といえば当然の成り行きだった。ソ連邦解体から約十年。その構成国の一つだったカザフスタンでは、いまだロシア語がカザフ語より広く使われているという。また、プロジェクトの契約上も、設計図書は英語とロシア語の二か国語で表記することになっていた。ロシア語ができる人材は貴重だ。
問題はひとつ。近ごろの設計事務所では、CADで平面図や立面図などの二次元図面を描き、3Dソフトを使ってCGパース──建物の完成予想図──を作る。ナースチャには、まずこれを覚えてもらわなければならない。
指南役の阿部くんは小器用で、あらゆる建築系ソフトウェアに通じている。まさに適任だ。が、美智は彼に任せきりにせず、暇を見つけては自らナースチャの演習の進み具合を点検した。そのためにこそ、彼女を目の届く場所に座らせたのだから。
「図面を描くときは、いつも誰かに見せて説明する心構えでね。CGはもっとこう、きゅっと遠近感を効かせたほうがいいかな」
美智はなるべく気さくな調子で話しかける。基本、英語でのやりとりだ。ナースチャはこくこくとうなずき、試し刷りされた自分の図面に視線を注ぐ。彼女が落ちかかる髪をかき上げると、ミルク色のほおの滑らかさがいっそう引き立った。まつげの陰で淡い瞳が揺れる。なにか思いつめたような光を帯びながら。
一見落ち着きはらっているが、この子はやはり必死なのだ。彼女のしぐさの端々にそう思わせるものがあった。秘めた意志の強さ、プライドの高さが伝わってきて、美智はじんわりと胸を打たれた。
──そうだ。私が預かった子なんだから、まず私自身が信じてあげなきゃ。
阿部くんが漏らす。「しかし美人だよな」。
クボタさんに言わせれば、「クール」だ。
ナースチャは作図上の注意事項をよく守った。また、CG制作における技巧やちょっとしたコツを貪欲に吸収した。彼女が基本的なことを覚えるまでには、一週間とかからなかった。
コンピュータで製図するなら誰がやっても同じ、とはならない。確信を持たずに描かれた図面はどこか収まりが悪いものだ。その点、ナースチャの手になる二次元図面は、精密かつ信頼に足るものだった。さらに、彼女のパースには独特の透明感と奥行きがあり、それは時間とともに誰もが認めるところとなっていった。
そんなある日、いや、ある晩のことだ。
美智は斜め前の席を見やり、そこに座る背中に向かって小さくひとりごちた。
──今日も遅くまで精が出ますね、同志……!
世界平和宮殿プロジェクトを任されて以来、美智は毎日のように残業している。ナースチャはたいてい、美智が帰り支度を始めるまで自席でコンピュータに張りついていた。その晩も例にたがわず、人けの失せた設計室には二人きりだった。
夜のとばりが下りると、美智はいつものようにカーテンウォールのブラインドを上げた。ガラスには煌々と明るい室内照明が映り込む。それでも東京の夜景はうっすらと見え、少し息をつくことができる。
しばらくして、ナースチャがディスプレイに向かったまま言った。
「美智、玄関ホールの天井を切り取って、2層吹き抜けにしてもいいんじゃないかな」
美智はナースチャのそばへ行き、後ろから画面をのぞき込んだ。えっ、と目を見開く。
「これ、平和宮殿の入り口部分の3Dモデルでしょ。ナースチャ、こんなのやってるの?」
「昼間、インストラクターの彼が言った。もうそろそろ実図面に触れてもいいだろうって」
「阿部くんが? でも、いきなりこんな難しいところを……。それで、天井を切るとはどういうこと?」
つややかな黒髪の頭を見下ろしつつ、美智はさりげなく尋ねた。ナースチャは首を後ろに反らし、ちらりと美智を仰ぎ見てから、
「今のままだとね、玄関ホールから奥の大階段が一部しか見えない。ホールの上にかぶさっているスラブを取っ払うのはどう? アトリウムへのぼっていく階段がもっとはっきり見えるようになるよ。そのほうが美しいじゃない?」
やや鼻にかかった低めの声。ナースチャがこれほどまとまった言葉を、しかも自分から話すのは初めてのことだ。美智は身をかがめ、ナースチャの肩越しにマウスをつかんだ。3Dソフト上でカメラを宮殿の正面玄関前に据える。初めてこの場所を訪れた客になったつもりで。
そのころ設計チームでは、盛り土で隠れる最下部の3層を「地下階」、ピラミッド部の9層を「地上階」と呼ぶようになっていた。正面玄関は「地下2階」だ。それは丘の斜面にうがたれた切通しの突き当たりにある。
美智が人差し指でマウスのホイールを回すと、カメラはCGによって組み立てられた建物の中へずんずん入っていった。ガラス張りの風除室を突っ切り、そのまま真っすぐ進んだ。ほの暗い画面いっぱいに問題の玄関ホールが映し出された。
左右に広い玄関ホールは、どこかしらがらんとした感じ。すぐ先で床と天井が切れていて、地下の中庭とでもいうべき四角い吹き抜けの大空間に面している。そしてその奥にすっぽりと収まった円筒形の施設。あれが大会議場だ。
「たった半日でここまでできちゃったの? がんばったねぇ」
平静を装いつつも、美智の声はうわずっていた。
ホールの端までカメラを進め、吹き抜けをじっくり見まわした。正面には大円筒が圧倒的な量感でそそり立つ。階下の地下3階に目を落とすと、円筒壁の足元に大会議場前ホワイエが広がっている。吹き抜け空間はそこから一気に4層分上昇し、会議場の真上に当たる地上1階アトリウムの前端へとつながっている。深い縦穴、あるいはクレバスを思わせる険しさだ。この中を左右対称の大階段が二手に分かれて駆けのぼっていく。
「ドラマチックだし、なかなか悪くないと思うんだけど……」
美智は首をかしげながらカメラを後ろに引き、玄関ホールの中央へ戻した。それからマウスを前後に動かし、画面上で3Dモデルをくるくると回転させた。天井を振り仰ぐ。ホールの隅まで寄っては見返す。
そうしているうちに、ナースチャがなにを言いたいのか、次第にわかってきた。ホールの高さが不足しているのだ。そのせいで玄関から奥への見通しがきかず、先ほどの大きな吹き抜けもじゅうぶんに活きていない。ただ、天井スラブを切り取るのは無理な注文だ。そんなことをすれば、上階、つまり地下1階の床面積が減ってしまう。
と、不意にナースチャがマウスを握る美智の手の上に自分の手を重ねた。ほんのりとした暖かみが、吸いつく手肌の感触が伝わる。なぜか胸に鋭い痛みを覚え、美智は思わず目をつぶった。
ナースチャの声がする。
「照明の設定がまだだから、暗くてちょっと足元が危ないかな……」
すぐそばで聞いているはずなのに、それはどこか遠くから届くように感じられる。
まぶたを開くと、ひとり薄闇の中に立っていた。そこは設計室ではなかった。真っ暗な天井に覆われた、左右に平べったい空間。ついさっきまで画面で検討していた、世界平和宮殿の玄関ホールだ。
照明の消えたホールには、やはり頭を押さえつけられるような圧迫感があった。視界が上下に狭まり、その向こうがぼんやりと明るんでいる。大階段はといえば、ここからはかいま見える程度。思い描いた空間の膨らみが足りない。
美智はおそるおそる歩を進め、くだんの4層吹き抜けに出た。ちょうどそこが大階段ののぼり口だ。それはいわゆる両階段になっていて、独立した左右のスケルトン階段が切り立った吹き抜け空間の両縁を巡っている。金属フレームに支えられた軽やかな美しさ。
はっと左手の階段を見上げると、ナースチャが半階上の踊り場に立っていた。
「ほら、美智、ここからあそこまでの3スパンだよ」
玄関ホールの天井スラブは吹き抜けで途切れ、軒先のように端がむき出しになっている。ナースチャは両腕を広げ、取り払うべき範囲を示した。それから階段を少し上がると、手すりを越えるほど身を乗り出し、指先でスラブのへりに触れた。とたんにスラブはするすると縮み始め、美智の立つホールが2層分の高さへと吹き抜けた。
天井に遮られていた視界がにわかに開けた。何度か折れ曲がりつつ上へ向かう大階段は、今やその全貌があらわになった。それまで暗かった地下広間に荘厳な光の束が降り落ちてくる。
──ああ、そうか。そういうことなんだね。
美智は身震いとともに、肺が苦しくなるほど息を吸い込んだ。
ナースチャが階段の途中から手を差し伸べていた。黒御影石のステップを踏み、美智は走って彼女に追いついた。いっそう間近く迫る大会議場の円筒壁。頭上を仰げば、すでにアトリウムの一部が見え隠れしている。巨大なV字柱が城門のごとくその縁に並んでいる。柱越しに射し込む光に導かれ、二人はアトリウムをめざして大階段をのぼっていく──。
そこでオフィスチェアのきしむ音が聞こえた。
つないでいた手と手がほどけた。宮殿の建築はたちどころにかき消えた。まるで深い闇の中へ溶け崩れてしまったかのように。次の瞬間には、美智はもう設計室の白々とした均一な照明のもとに戻っていた。
うーんと声を発し、ナースチャが大きく伸びをした。彼女はそのまま椅子の背にのけぞると、後ろに立つ美智のみぞおちのあたりにぐったり頭をもたせかけた。琥珀色の瞳が逆さまに見上げてくる。例によって、言葉よりも雄弁に語りかけながら。
美智、あなたは私の言うとおりに従うの。いい──?
「これでいこう」
翌朝の役員室。アレックスはそのCGパースを見て即座に言った。天井スラブが切り取られ、新たに2層吹き抜けとなった玄関ホールのインテリア・パースだ。
「ふむ、むしろこっちのほうがしっくりくる。玄関ホールから大階段、アトリウムまでの流れがぐっと滑らかになった」
アレックスはしきりにうなずきながら、パースと断面図を見比べた。美智は同じくA3用紙に印刷された地下1階の平面図を示し、
「上のレストランと展示場エリア、だいぶ狭くなっちゃうんだけど」
「まあ、なんとかなるだろ。世界平和宮殿くらいの規模の公共建築なら、やはり玄関ホールにもそれなりの見せ場が必要だ。悪くない、悪くないぞ、美智! 近ごろますます勘が冴えてきたな」
「あ、いや、私じゃなくて……」
美智は首を振った。それからガラス越しに設計室のナースチャの席を指さした。アレックスは、えっ? と顔を上げ、きょろきょろあたりを見まわした。
☞ 次回へつづく
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