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銀の秒針|短編小説(#風まかせ文芸部)

 ――カチ、カチ、カチ……。

 静寂が支配する工房の中で、その音だけが私の心臓の鼓動と同期している。
 ピンセットの先で、米粒よりも小さな歯車を摘み上げる。レンズ越しに覗くその世界は、埃一つ許されないほどに研ぎ澄まされていた。
 私の仕事は、止まってしまった時間を再び動かすことだ。でも、父の遺品である、この銀色の懐中時計だけは、もう五年もの間、沈黙を貫いている。腕利きの時計修理技能士だった父が、生涯で最後に取り組んでいた未完成の時計。
「いいか、ハル。時計修理技能士の仕事は修理じゃない。『選択』だ」
 幼い頃、父はよくそう言っていた。油の匂いが染み付いた大きな手で、私の頭を撫でながら。
「部品を新しくするのは簡単だ。だが、古い部品の摩耗した溝には、その人が刻んできた人生が詰まっている。それを残すか、あるいは捨てるか。それを選ぶのが俺たちの本当の仕事なんだ」
 二十八歳になった私は、父と同じ道を歩んでいる。でも、この時計だけはどうしても動かせなかった。この時計の心臓部、テンプと呼ばれる部品の軸が折れている。それを直すには二つの選択肢があった。
 一つは、最新の旋盤で削り出した、寸分の狂いのない完璧な代用品に交換すること。
 もう一つは、父が遺したいびつな手作りの予備パーツを、私がさらに削り、調整して使うこと。
 完璧な部品を使えば、時計は正確に時を刻むだろう。しかし、それは父の時計ではなくなってしまう気がした。一方で、父のパーツは素人目に見ても脆く、私の技術では、それを生かし切れる自信がなかった。失敗すれば、この時計は二度と動かない。私はその選択から逃げ続けていた。

「ごめんください」
 カウベルの音が響き、一人の老婦人が店に入ってきた。彼女は古びた紙包みを大切そうに抱えている。その紙包みの中にあったのは、随分と使い込まれた、革ベルトがボロボロの腕時計だった。
「これ、動くようになりますか?」
 彼女の指先が震えている。
「亡くなった主人が、戦後、初めての給料で買ったものなんです。どこへ行っても『部品がないから修理不能だ』と言われてしまって……」
 中を開けて絶句した。内部の部品はひどく錆びつき、いくつかの歯車は欠けている。メーカーの保証期間など、数十年前に過ぎ去っているだろう。最新のパーツで代用しようにも、規格が違いすぎておそらく適合しない。
 唯一の方法は、似たような古い時計から部品を移植し、一つ一つ手作業で形を整えること。それは気の遠くなるような作業で、しかも成功の保証はない。
「奥様、これはかなり難しい作業になります。今の部品を捨てて、全く別の機構に入れ替えることもできます。そうすれば確実に動きますが、中身は別物になります」
「中身が……別物に?」
「はい。ですが、思い出を形として残すなら、それも一つの選択です」
 老婦人は愛おしそうに時計の風防――ガラスを指でなぞり、静かに微笑んだ。
「主人は不器用な人でした。何度も失敗して、遠回りをして、それでも私を支えてくれた。この時計は主人の人生そのものなんです。例え明日、また止まってしまうとしても、正確な時間を刻まなかったとしても、私は主人の生きた証が動くところを、もう一度だけ見たいんです」
 胸の奥が熱くなった。
「分かりました。お預かりします」
 私は彼女の「選択」を受け取った。同時に、自分が何を恐れていたのかを悟った。
 私は、失敗して父の思い出を壊すのが怖かったのではない。父の不完全さを肯定する勇気がなかったのだ。

 その夜、私は自分の作業机に向かった。まず、老婦人から預かった腕時計に取り掛かる。内部の錆を落とし、欠けた歯車を別の古い時計から切り出した金属で補う。滑らかではないが、部品同士が噛み合う瞬間、確かな手応えがあった。
 そして、父の時計。
 私は「完璧な代用品」を箱の奥にしまった。代わりに、父が遺した歪な銀のパーツを手に取る。顕微鏡で見れば、そこには父の指紋のような、細かな削り跡が残っていた。父が病床で、震える手で最後まで向き合っていた証だ。
 私はヤスリを手に取った。父の癖をなぞるように、慎重に、けれど大胆に、一ミリの千分の一、そのさらに先にある「正解」を探して。
 外では雨が降り始めていた。窓を叩く雨音を聞きながら、私はひたすら金属を研いだ。
 選択とは、何かを捨てることではない。何と一緒に生きていくかを決めることだ。

 夜が明ける頃、老婦人の腕時計に最後のネジを締め、ゼンマイを巻いた。
 ――チ、チ、チ、チ……。
 少し急ぎ足のような、でも力強い鼓動が響き出した。
 ――よし。
 続いて、父の時計。
 私が削り出した、父と私の共同作業とも言える心臓部の部品――テンプを組み込む。祈るような気持ちで、そっとピンセットで弾いた。
 ……沈黙。
 ――ダメだったのか。
 落胆が押し寄せた、その瞬間。
 コトン、と小さな音がした。眠っていた巨人が目を覚ますように、銀の秒針がゆっくりと、重々しく、最初の一歩を踏み出した。
 カチ……カチ……。
 その音は、これまでに聞いたどの時計の音よりもかっこ悪く、何よりも美しい音楽に聞こえた。
 正確ではないかもしれない。一日に数秒、あるいは数分ずれるかもしれない。でも、そこには間違いなく、父の呼吸と私の決意が宿っていた。

 数日後、腕時計を受け取りに来た老婦人は、動き出した腕時計を見て、子供のように泣いた。
「ああ、お父さん、お帰りなさい……」
 彼女が時計を胸に抱きしめる姿を見て、私はようやく自分の選択が間違っていなかったことを確信した。
 彼女が去った後、私は父の懐中時計を自分のポケットに入れた。少しだけ進みすぎるその秒針は、まるで「もっと先へ行け」と私を急かしているようだった。
 私は作業着の袖をまくり、次の修理品を手にする。
 今日もまた、誰かの止まった時間に出会うだろう。そして私は、迷わずに選ぶのだ。完璧な未来よりも、愛おしい欠陥のある過去と共に歩む道を。
 私の指先が、新しい「時」を刻み始めた。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「選択」です。


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