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下書きフォルダの言葉たち|短編小説(#風まかせ文芸部)

 僕のスマートフォンのメールアプリの「下書き」フォルダには、現在三百四十二通のメッセージが眠っている。それはさながら、行き場を失って成仏できない言葉たちの霊園だ。墓石の代わりに「保存日時」が刻まれ、本文には僕がその時々に飲み込んだ、苦い薬のような本音が並んでいる。
「今、何してる?」
「さっき、君が好きだったバンドの新曲がラジオで流れたよ」
「本当はあの時、僕が悪かったと思ってる」
 宛先は全て同じ。三年前まで僕の隣で、あくびを噛み殺しながらコーヒーを飲んでいた、元恋人の帆花ほのかだ。

 現代において、通信は光の速さで行われる。画面をタップすれば、僕の思考は一瞬で海を越え、電波の壁をすり抜け、彼女の手元で振動に変わるはずだ。でも、僕の親指はその数ミリの距離を移動することができない。
 送信ボタンは、僕にとって確定ボタンではない。拒絶される可能性への招待状だ。

 金曜日の夜、仕事帰りの駅のホーム。濡れたアスファルトが街灯を反射して、都会特有の冷たい光を放っている。僕は手持ち無沙汰に耐えかねてスマホを取り出し、慣れた手つきでメッセージ作成画面を開いた。

『今日、駅前のケーキ屋が潰れてた。あそこのモンブラン、結局一度も一緒に食べられなかったね』

 打ち込んで、読み返す。
 ――重いな。
 潰れた店の報告なんて、未練の塊でしかない。彼女は今、別の街で、別の誰かと、別のケーキを食べているかもしれない。そんな彼女に、僕の記憶のゴミを送りつけてどうするんだ。
 僕は迷わず「戻る」ボタンを押し、保存を選択する。霊園に、三百四十三通目の新しい墓標が立った。

「相変わらず、指先が臆病ですね」
 隣から声をかけられ、僕は肩をすくめた。同じ会社の同期で、飲み仲間の瀬尾せおだ。彼女は僕のスマホを覗き見していたわけではないだろうが、僕の「送信しない癖」を知っている数少ない人間の一人だった。
「別に臆病なわけじゃない。ただ……ベストな選択を探してるだけ」
「ベストな選択かどうかなんて、送ってみなきゃ分かりませんよ? 先輩の場合、返事をもらえないことより、自分の中だけで完結させてることに酔ってるだけじゃないですか?」
 瀬尾は相変わらず鋭い。彼女の言葉はいつも、僕が丁寧に包み隠している「自意識」という名の傷口を、消毒もせずに容赦なく突っついてくる。
「酔ってるわけじゃない。ただ、言葉は一度放つと、もう自分のものじゃなくなるだろ? 誰かに届いた瞬間に、誤解されたり、無視されたりして形を変えてしまう。それが怖いんだ」
「保存されただけ言葉は、死んでるのと一緒ですよ?」
 瀬尾はそれだけ言うと、やってきた電車に乗り込む。そして、ぽかんとしている僕に、車内から小さく手を振った。

 その夜、僕は部屋で一人、ウイスキーを炭酸で割りながら下書きフォルダの最深部を掘り返してみた。一番古いのは、別れてから一週間後のものだ。

『ごめん。やっぱり忘れられない』

 ――青臭い。
 今読み返すと、胃のあたりがむず痒くなる。もし、これをあの時送っていたら、未来は変わっていたのだろうか。あるいは、既読無視という冷徹な沈黙に、当時の僕は粉々に砕け散っていたのだろうか。
 ふと、画面の隅に「一括削除」の文字が見えた。この三百四十三通を全て消してしまえば、僕の心のなかの「帆花」という名のデータも、綺麗にフォーマットされるのではないか。
 指が削除ボタンの上で止まる。
 ――送信ボタンも押せず、削除ボタンも押せない。
 結局、僕は彼女との繋がりを絶つことも、繋ぎ直すこともできない。中途半端な境界線上で足踏みしているだけだ。
 その時、スマホが震えた。通知センターに表示された「帆花」という文字に、心臓が跳ねる。
 震える指でメッセージを開く。

『久しぶり。元気かな。さっき、駅前のケーキ屋がなくなってるのを見て、なんだか急に思い出して。あのモンブラン、一度くらい一緒に食べればよかったね』

 心臓の音が耳元でうるさく鳴り響く。それは、僕がさっき下書きに入れた言葉と、ほとんど鏡合わせのような内容だった。
 彼女は送ったのだ。僕が飲み込んだ言葉を、勇気を持って、あるいは単なる気まぐれかもしれないが、僕の元へと放り投げた。
 その一通が届いた瞬間、僕の部屋の淀んだ空気が一気に流れ出したような気がした。
 僕は下書きフォルダを開いた。そこにある三百四十三通の言葉たちが、一斉に僕を見上げているような気がした。
 それらは「死んだ言葉」ではなかった。ただ、僕が「現実」にするのを恐れて、止めていただけの感情だ。
 僕はさっきの下書きを呼び出した。

『今日、駅前のケーキ屋が潰れてた。あそこのモンブラン、結局一度も一緒に食べられなかったね』

 全て消し、新しく打ち直す。

『本当にそうだね。でも、あそこの代わりに、美味しいアップルパイの店を見つけたんだ。もしよかったら、今度一緒に』

 僕は初めて送信ボタンをしっかりと見つめた。これを押せば、僕の下書きフォルダの亡霊たちはようやく成仏できるだろう。
 返事が来るかどうかは、もう重要ではなかった。言葉が僕の手を離れ、誰かの元へ旅立つこと。その不確かさを受け入れることが、本当の意味で生きるということなのだと、瀬尾の言葉が今さら響いてきた。
 親指が画面を叩く。「送信完了」の文字が、暗い部屋の中で淡く光った。

 僕はスマホを置き、深く息を吐いた。下書きフォルダのカウントは、三百四十二に戻っていた。
 まだ先は長い。でも、残りの亡霊たちも、いつか一つずつ、光のもとへ逃がしてやれる気がした。

 窓の外では、夜の街が相変わらず静かに呼吸している。
 僕はぬるくなったハイボールを飲み干し、少しだけ軽くなった心で、次の言葉を探し始めた。

(了)


iさんの「風まかせ文芸部」に参加しました。
お題は「未送信」です。


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