恋文供養人 第七話「燕」
僕は席に座ると同時に、バッグから一通の手紙を取り出し、カウンターに置いた。二年前、仕事中に拾った、あの三つ折りの手紙だ。
マスターは一瞬だけ手紙に視線を落としただけで、何の反応も示さない。
「この手紙が僕のところに来た理由を知りたいんだけど」
全ては、この手紙から始まった。
「理由なんてないわよ」
左から女性の声がした。一番左の席に、ブレザーの制服を着た女の子が座っている。高校生だろうか。染めたのか照明のせいなのか、肩にかかるくらいの髪は栗色に見える。
「理由なんて知ってどうするの?」
「ただ知りたいだけ。理由なんてないよ」
「ふん」
偏屈な答えに気を悪くしたのか、女の子は頬を膨らませてそっぽを向いた。社会人六年目の人間をナメてもらっては困る。
「君、名前は?」
「サオリ」
「僕は本間颯太。よろしく」
「よろしく。本間颯太さん。昨日のデートは楽しかった?」
――こいつ。
自分に「落ち着け」と言う。相手のペースに乗せられてはダメだ。僕は笑顔で「ええ、とっても」と答えた。
「ふふ」
「ん? 何がおかしいの?」
「本間さん。変わった人ね。そう言われない?」
「うーん。変わってるからここに来てるんだと思うよ?」
「そうね」
サオリさんは僕の方を向いて笑った。美人だ。高校ではさぞかしモテただろう。
「私ね、高校二年の時に九州の人と文通してたの。雑誌の文通相手募集のコーナーに、『学校のこととか趣味のこととか、いろいろ語り合いませんか?』って載せて。
「へぇ。文通か」
電子メールやSNSが全盛の時代、手書きの文通にはむしろ憧れる。ロマンを感じる。
「でも、文通は自宅の住所がバレるから、怖くなかった?」
「平気よ。相手は九州で、私は東北だったし」
時代の違いだろうか。SNSで身バレしてトラブルや事件に巻き込まれるなんて、今では日常茶飯事だ。文通には憧れるが、やっぱり見ず知らずの人に自宅の住所を教えるのは抵抗がある。
「一週間くらいして、手紙が来たわ」
「手紙をくれたのはどんな人?」
「私と同じ高校二年生の男の子。シンイチ君。嬉しかったわ」
「文通ってどんなこと書くの?」
「やっぱり学校のことかな。部活のこと、好きな科目のこと、嫌いな先生のこととか、住んでる街のこととか。本当にいろいろよ」
「恋の話とか?」
「もちろん」
サオリさんは微笑む。さっきまで「このガキ」と思っていたが、やっぱりごく普通の少女のようだ。
「シンイチ君はバスケ部で、インターハイに出たんだってさ」
「君は何部だったの?」
「弓道部。成績はまぁまぁって感じ」
「弓道部か。カッコいいな」
バスケのことも弓道のことも、映画やドラマなんかで見るくらいで詳しくは知らないが、イメージとしては、やはりカッコいい。
「お互いに運動部で、きっと話が盛り上がったんだろうね。楽しそうだなぁ。文通」
「全部嘘っぱちよ」
全く予想していなかった言葉に、僕は固まった。
「嘘って、どこからどこまで?」
「文通してたのは本当。でも、部活はやってない。やりたくてもできなかったの。病気のせいで、二年からはほとんど病院で過ごしたわ」
「でも、弓道部って……」
「弓道部の友達をモデルにした創作よ、創作」
「いや、創作って。なんでそんなことを?」
「悪いと思ってるわよ! でも、入院中なんて書いたら、手紙なんてくれないでしょ? 気を遣うでしょ? めんどくさいって思うでしょ? 手紙の中では、せめて普通の高校生でいたかった。普通ってことがどれだけ特別なことか、みんなには分からないでしょう? 文通を始めたのは、まだこの世界に自分が存在して、人の世界と繋がってるってことを確かめるために書いたのよ」
サオリさんは僕から顔を背けた。別に責める気はない。僕にそんな権利はない。
インターネットやSNSがない時代でも、結局人がやることは同じだ。なりたかった自分、理想の自分を演じようとする。例えそれが虚構だとしても。
「私はもう病院から一生出られないって覚悟してたわ。四角い窓から見える四角い空は、何だかつくりものみたいな気がするの。つくりもので、まがいもので、全部幻みたいに消えてなくなればいいのにって思ってた。私が消えるのが先か、世界が消えるのが先かって。奏太さんに届いた手紙は、真夜中に書いたものよ。私が目覚める前に、世界が消えていますようにって祈りながら」
幸いなことに、僕は今まで大きな病気や怪我をしたことがなく、入院というものに無縁だった。入院している人たちのことなんて、考えたこともない。ただ、「病院から一生出られない」という、あまりにも悲痛な言葉に、僕は唇を噛んだ。同情、憐み……いろいろな感情が心に湧いては消えたが、それを表に出すわけにはいかない。僕は全力でポーカーフェイスを決め込んで、意味もなく宙に視線を走らせた。
「病院は個室でね、入院費用はママの新しい恋人が全部払ってくれてたみたい」
「え……そんなことってあるんだ」
「私はね、その人のことが吐き気がするほど嫌いだったけど、一応お礼は言ったわよ。ありがとうって。そしたら、面白いくらいに顔に出てた。『早く死んでくれよ』って」
「おいおいおい、さすがにそれは……」
「だってそうでしょ? 私はね、ママの恋人に餌をもらって何とか生きてる犬ころと同じなの。邪魔以外の何者でもないでしょ? 窓から飛び降りてやろうって毎日思ってた」
話が複雑になってきて、頭がくらくらした。自分の母親に恋人ができて、しかもその恋人に入院費用を払ってもらっている……。サオリさんにとって、耐え難い屈辱と絶望だろう。
「ママもそのうち面会に来なくなって、思ったんだ。いつも見てる、ツバメの巣に取り残された雛。あの子と同じなんだって」
ここでようやく、僕は理解した。僕が拾った――僕のところにやってきたあの手紙は、サオリさんが書いたものだと。
僕は三つ折りの手紙を手に取り、目で読んでみる。
◇◇◇
毎日暑いですね。
私は相変わらず病院の中ですが、四角い窓から夏の世界が見えます。
ツバメは巣立ちの季節を迎えました。
病室の窓の近くの巣から、大きくなった雛たちが一羽、また一羽と飛び立って行きます。
でも、一羽だけずっと巣の中にいるのです。
いないことを願っていつも窓から巣を見るのですが、やっぱりその子だけポツンといるのです。
きっと見捨てられたんだ。
私は残された巣と雛を見て、毎日笑うことにしました。
親に捨てられた哀れな子。
お前は病院から巣立つことができない私と、ここで死ぬのだ。
でも、親鳥は来ました。
親鳥に導かれて、初夏の空に飛び立つ雛を見て、私は泣きました。
一人にしないで、と。
◇◇◇
「あのね……」
少し落ち着いたのか、サオリさんは再び僕の方を向いた。
「なんでその手紙が颯太さんのところに届いたのか、私も分からないの。というより、その手紙はどこにも出してないのよ。多分、手紙が自分の意志で行きたいところに行ったんだと思う。書き終わった時点で、もう私の手から離れているから」
「なるほど。それで僕のところに、か」
めちゃくちゃな話に聞こえるが、なぜか素直に納得できた。この手紙は、いろいろなものに埋もれながら、表に出る機会を、誰かの手に渡るのをずっと待っていた。そして、僕の元に来た。
「ちょっとよろしいですか?」
マスターが突然喋り出す。
「もしかして、この手紙には続きがあるのでは?」
「あ、実は僕もそう思ってた」
サオリさんはフッと笑った。
「マスターも颯太さんも、どんな続きか想像ついてるんじゃない?」
マスターは僕に「どうぞ」と促した。
僕は大きく息を吸い込む。
「一人にしないで」
――私も連れて行って。
言い終わると同時に、バサバサと羽ばたく音が響く。そして一羽のツバメが僕の左肩に留まった。僕は席を立ち、出入口のドアを開けて外に出る。ツバメはなかなか飛び立とうとしない。
「大丈夫だから。さぁ」
ツバメは一直線に夜空へと舞い上がった。小さな羽がふわりと僕の手に落ちる。月の光に照らされた羽は、一瞬きらりと輝いて消えた。
「よかったな。四角い空じゃなくて」
夜空に向かって呟く。
店内に戻り、席に座る。
「あれ? 手紙は?」
マスターは黙って首を横に振る。
「そうか……」
「もうあなたには必要のないものでしょうから」
どういう意味なのか聞こうとしたが、やめておいた。水割りのおかわりをもらう。
「あのさ、僕がここに迷い込んだ時にいた人」
「ああ、平松さんですね」
「どのくらい見届け人をやってたの?」
「九年です」
「うっそ! 九年も!?」
「平松さんは特別ですよ。普通は一年、長くても二年か三年が限度です」
「どうしてそんなに続けられたの?」
「平松さんは新聞記者でした。文字を扱う仕事をしていたからこそ、文字の力をある程度制御する術を持っていたのでしょう」
「なるほど。そっちの人だったんだ。そりゃ強いわけだ」
「ただ、平松さんは見届け人としての禁を破りました」
「え……禁ってなに?」
そんなものがあること自体、初めて知った。そういうことは最初に教えてもらわないと困る
「ここで出会った人や手紙の内容を文字や言葉にして、外に出してはいけない、ということです。雑談でさらっと話す程度なら問題ないんですが」
沢本さんの顔が思い浮かぶ。危なかった。見届け人のことは何も話していない。
「平松さんはフィクションという名目で、ある雑誌のコーナーに見届け人のことや手紙の内容を掲載してしまいました」
「文字にしたら、どうなるの?」
「文字というのは一種の呪縛ですから、平松さんは一生文字に縛られて生きていかなければなりません。一生見届け人を続けるしかないのです」
「でも、僕が後継者だって言ってたような……」
「平松さんは見届け人をやめた翌日、亡くなりました」
「待って待って。なんでそうなっちゃうの?」
「禁を破った代償です。見届け人を続けている間は生きていられますが、やめたら死ぬ。ご本人も納得の上です」
僕は頭を抱えた。興味本位でやるんじゃなかった。やっぱり沢本さんが言ってた通り、リスクが伴う役目だった。
「見届け人をやめたいって言ったら、僕も死ぬの?」
「本間さんは見届け人のことをSNSに書いたり、誰かに話したりしましたか?」
「してないしてない」
「本当ですね?」
「本当です! 誓います!」
マスターはじっと僕の目を見た。
「であれば、問題ありません。やめるやめないはご自由にどうぞ」
「はー……」と長い息を吐く。
「ホント? ホントにいつでもやめられるの?」
「ええ、いつでも」
大きな心配事があっけなく解決されて拍子抜けした。
「あのさ、マスターの話、聞かせてくれない?」
マスターはぴたりと動きを止めた。
「面白い話なんて、何もないですよ?」
「いや。聞きたいんだよ。次に来た時に、聞かせてよ」
僕は空になった水割りのグラスを置いて席を立つ。
「分かりました」
「それじゃ、また」
何となく後ろ髪を引かれる思いで、バーを後にした。
(第七話 完)
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