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青春なんてクソくらえ

Twitterの写真界隈てちょっとした、炎上までいかないボヤ騒ぎみたいなことが起きていました。
曰く。

一部高校生フォトグラファーの写真がダサい
”青春っぽさ”を撮ろうという姿勢が透けて見える

原文改変

「これでエモいでしょ」みたいな
何のメッセージも、主張も見えない

原文改変

確かに、制服の人物写真というジャンルは存在します。
いわばフォーマット化・様式化したような世界です。
その表現は(個人情報や性的な問題等がない限り)存在自体を否定されるようなものではありません。

また、写真にメッセージ性が必要かといえば、必ずしもそうとは言えません。
当該ツイート主の考えも十分尊重に値しますが、少々視野が狭いように思われました。

ただ私はこう思うのです。

そもそも
青春なんてクソくらえ

と。

青春の表現と、そのメッセージ性

創作における青春。
それはひとつのジャンルとして成立しています。
写真においても例外ではありません。

ことTwitter、Instagramではウケがいいこともあり、頻繁に題材として採用されています。
制服、自転車、友達・恋人、教室…
多くの人がかつて経験したあの光景、それを感受性豊かなリアル青春真っただ中の学生さんが撮るのですから、それはそれは素敵な作品です。

では冒頭の「メッセージ性がない」というキーワードについて考えましょう。
青春のメッセージは「青春そのもののすばらしさ」「ノスタルジック」に他ならないでしょう。
「あなたもかつてこんな光景、目にしましたよね?」みたいな。

しかしここで彼の人が発した「メッセージ性」はもっと芸術的な示唆に富んだ「教養のあるメッセージ」なのだと推察します。
つまり「芸術的にこのような主張に基づき、社会に〇〇ということを発信するもの」みたいな大層なインテリジェンスをお求めなのだと思うのです。

確かに写真を芸術作品としてとらえた場合はそう。
何かしらのイシューを掲げ、社会に問題提起するのが現代アートのコンテクストでは必要です。
おそらくここに溝があって、「青春フォト」は「アート」の文脈で撮られていないのに、十把一絡げに括ってしまっているから衝突が起きた。

その一方、「すでにやられまくって飽き飽きしてるんだこっちはよ!」という主張もさもありなん。
ただ、誰かが撮っているから自分は撮らなくていい、とは必ずしもならないのではないでしょうか。

ですがここで、私なりの主張を。

青春なんてクソくらえ

青春ってなんですか?????
そんなものなかったんですが???????????????
クソくらえ

撮影者の方が潜在的に抱いている感情は「青春って素晴らしいよね!」なんだと思うのです。
ほんとうにそうでしょうか???

私の学生時代は、いじめと排他といざこざの連続。
恋人にも友達にも恵まれず。
「タイムマシンで戻るとしたらいつ?」的な定番謎質問でぜっっったいに18歳未満の年代には戻ることはないくらいには生き地獄だったわけです。

そんなひねくれモンスターわたくしにとってみれば、「そんなFantasyが享受できる世界線なんてどこにあるのでしょうか?」と聞きたいんですよ。
青春なんてクソくらえ。

ただあなたの思う理想の(もしくは楽しくて仕方ない現実)青春の表現した形がそれなら、私はその表現自体は受け入れましょう。
私はそんなもの撮ろうとは思わないのですけど。

写真にメッセージ性は必要か

現代アートのコンテクストについて上で触れました。
もろもろ文献に当たりながら書いた記事もありますのでご参照ください。

つまるところ、歴史的文脈において自分の作品が「どこに、どのように寄与するのか主張しなさい」というのがアート分野におけるメッセージ性の役割です。
しかしこれはアートとして、評論家の眼にとまるのであれば必要である、ということにすぎません。

おそらく「こっちはただ写真撮って楽しんでるだけなんだよーーーーだ!」という主張であれば、そこにメッセージ性は不必要です。
風景写真にメッセージ性はないでしょう?
それと同じです。

「写真にメッセージ性は必要か?」
という問いに対しての答えは「かならずしもそうとは限らない」となります。
ただしケースによっては必要な場合があるし、私個人としては有った方がいいとは思います。

写真における目的の多様さ

「こっちはただ写真撮って楽しんでるだけなんだよーーーーだ!」
という主張をはじめ、写真を撮っている方の中には様々な目的をお持ちの方がいらっしゃいます。
例としては

①メカ、カメラ自体が好き
②撮影行為が好き
③撮った写真を眺めるのが好き
④写真をSNSに投稿して仲間と交流するのが好き
⑤写真をアートとして取り組んでいる
⑥写真はあくまで手段として扱っている

などです。
青春フォトは②~④あたりが目的の方の写真だと思われます。
ツッコミを入れた方は⑤を目指してらっしゃる。
そりゃズレますわな、と。

ただここ最近の東京都写真美術館 新進気鋭展の傾向を見るに、⑥への傾倒が必要な時代になってきているのです。
つまり「なにか表現したいものがあって、結果として選ぶ手段が写真であっただけ」というスタンス。
その延長に特殊なプリントやインスタレーションなどが存在し、撮影行為や写真そのもののクオリティは付加要素、な傾向が見られるのです。

そんな混沌の時代においては、自分のポジションと相手のポジションに相違がないか、お互いのテリトリーを侵食しないか、などもろもろ気を付けた方がいいなと今回気づかされました。
「なぜ写真を撮っているのか」
という根源的な問いを見つめなすいいタイミングになったかもしれません。

まとめと持論

まとめとしては
・青春フォトは「青春たのしー!」「写真撮るのたーのしー!」な層が撮っている
・意見を述べた方は異なる目的レイヤーの層にいる方
・見ている層が違うのですれ違うのはあたりまえ
・それはそれとして「青春なんてクソくらえ」
・手段としての写真についても知見を深めなければならない
です。

私個人としては「いまここ」にこそ興味があって、本質的な美しさが宿っていると思っています。
なぜなら写真という媒体は、いまこの瞬間を写すメディアだから。

いまここにいる理由も使命もないけど、いまここに生きているのだから、得られなかった青春を「ぶっ生き返す」ための写真を。
出来る出来ないは別として、私の目指すのは「ぶっ生き返す」。
これまで脳内でぶっ殺してきた自分の死体の山を歩き、これから先に向けて生きるための手段としての写真。

ま、グダグダ語るのは今度の記事にします。
5冊くらい読んで1本の記事にするつもりなので。
お楽しみに。

それでは。

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