簡単に人を傷つける道具だと理解して。写真を、ポートレートを、嫌いになった。
どうも、プロレスとか役者さんポートレートを撮っているたかはしです。
今回は定期投稿ではありますがネガティブというか、主張強めの記事です。
最近、写真絡みで色々悩ましいことに出くわしてしまい、精神的に参ってしまっておりました。
ここに書く内容は、私の独り言です。
しかし私のイデオロギーでもあります。
少しでも共感をもらえるように書けたら。
写真展での一幕
ゴールデンウィークはいたるところで写真展が開催されていました。
いくつか回った一つで、憧れのモデルさんが在廊してらっしゃる場所がありました。
初めてリアルで見たことと、生粋のあがり症・コミュ障を発症して、めっっちゃ緊張していました。
しかし問題はそこではなく、私が到着した段階でお話をしていた紳士(おそらくカメラマン)でした。
もうずーーーーーっと話し込んでるんです。
割りこみゃいいのでしょうが、私にはできず、結局話せず仕舞い。
何よりその内容が、私には許せなくて。
そのモデルさん、最近ナチュラルメイクでの撮影をなさっていたのです。
ナチュラルメイクでの撮影は基本的に受け付けておらず、信頼のおけるフォトグラファーさんと撮ったとのこと。
しかしその紳士は、こう主張なさる。
「自分にもスッピンで撮らせてほしい」
「君が大成するためには必要なんだ」
「カメラマンは不公平を嫌うよ」
「寝起きのランジェリー姿とかも撮りたいね」
挨拶だけでもと思って隙を伺っているところ、ずーーーーーっと。
話を聞いているだけで吐き気を催してしまいまして。
一言で表すなら。
モデルさんはお前の欲求を実現する人形じゃねぇ!!!!
かくいう私もメンズなので真意を汲んでいるわけではないですが。
すっぴんを見せてくれって、ヌードになってくれ、とほぼ同義なのではと考えています。
メイクは自分のイメージを作るとともに、コンプレックスを隠したり解消したりする武器だと思うのです。
そりゃ信頼関係がないと、見せるなんてとんでもない。
そもそもそのモデルさん、私の尊敬するフォトグラファーさんが、圧倒的な技術で表現なさっている方なのです。
何度も何度も、審査サイトで賞を獲得しているほどに。
大成がどうとか、余計なお世話でしかないんです。
まぁ、大して知りもしないモデルさんの心情を想像しているので、盛大に余計なお世話しているのですが。
私がモデルさんの立場話を聞いてたら、と想像すると耐え切れません。
私自身も同じ属性を有した、目の前の紳士と同じ種族なのかという圧倒的嫌悪に襲われ。
私はまた写真が嫌いになりました。
プロレス写真での一幕
これも勝手にモヤモヤしたエピソード。
かつて、スポーツ写真における性的な問題について取り上げました。
要約すると、
・女性の局部が大々的に写った写真が、ネット上に公開されることがある
・意図の有無にかかわらず、被写体となった人に精神的ダメージがある
・撮影禁止になった競技、会場もある
です。
かくいう私も、プロレス、特に女子プロレスを撮り、役者さんを撮り。
兎にも角にも、写し方については相当気を使っているつもりです。
そんな私のTLに、女子プロレスラーの相当際どい、黒寄りのグレーな写真が回ってきました。
重大なトラブルに発展するような写真ではなかったのですが、コスチュームが浮いて、際どいラインの肌露出が大きかったのです。
なにを考えてその写真をセレクトしたの???
そんな疑問しかない1枚。
たとえ自分が「変な顔になっちゃったから避けよう」「際どく写ってしまったからボツ」と配慮を重ねようとも、それは自己満足なのだと悟りました。
また尽きない問題として、無断転載があります。
「写真を公開するときに伴うのは責任だけであってほしい」という記事に書いたのですが、もう根絶は無理なんだろうなと諦めの境地です。
最近はその意図の有無にかかわらず、「無断転載・無断二次利用する人は、その人を貶す目的で行っている」とすら思えてしまいます。
私の配慮は無に帰す恐れがあって、自分の作品は悪用されようとしている。
周囲には実際に被害にあった方もいる。
好きな選手やカッコいいシーンを撮って共有したいだけなのに、こんなにもメンドクサイのはなんでなんだろう。
写真って、撮るだけ空しいんじゃないか。
とすら思えてきました。
写真は人を傷つける道具たりえる
写真展の話、プロレスの話、それぞれ論点は違います。
しかし共通しているのは、被害者がいる、もしくは被害者を生みかねない、というところ。
撮影という行為を「非日常的で異常な行為」と捉えています。
ポートレートの場合、さらに一定の時間を共有しなければなりません。
プロレスだって、撮られるならデビューが必要ですし、撮るにしても機材買わないといけません。
人によっては一生のうちに一回経験するかしないか、そんな行為です。
異常だから非倫理的だ、という論ではありません。
しかし「異常な行為をしている」という認知を自らに課すことで、様々な言動にブレーキを掛けることができると思っています。
逆に言うと、写真を撮る行為、そして出来上がった写真は、ブレーキが利かなくなったとき”人を傷つける道具”たりえるのです。
誰でもスマホを持ち、皆が皆カメラマンを名乗れる時代にはなりました。
しかし機材を揃えて、勉強もして、一定以上の作品を残す人というのは、特殊な存在であることは間違いありません。
特殊であるがゆえに特別であると認識しがちですが、それは技能に対しての評価であって、人物・人格に対しての評価ではないと肝に銘じるべきです。
小さいところなら、変な顔や白目向いてる写真が撮れてしまったり、見えて欲しくない箇所が見えてしまったり、立ち入り禁止の場所に入ってしまったり。
大きいところなら、カメラマンが卑猥な撮影行為をしたり、某映画監督の性的暴行が明るみになったり、演劇の演出家がハラスメントを働いたり。
行為や作品への評価と人格的評価を同一視することは、犯罪行為と地続きなのだと、自らに言い聞かせています。
一方で写真が悪用される点に関しては、防ぎきれないというのが正直なところです。
もうこれは声を上げていくしかないですし、実際に悪用されているなら地道に通報していく他ありません。
写真は人を勇気付けたり、感動させたりができると信じていますが、同時に刃物であると知っています。
包丁を正しく使えば料理ができるように、写真は人を傷つける道具であると認識しながら、正しい使い方をしていこうと。
そして、自分は文章を書けるのだから、伝達できる形にしよう、と。
写真の嫌いな面はたくさん見ましたが、
写真を止めるほど嫌いにはなっていないみたいです。
私は人を撮るのに向いていない
これはゴールデンウイーク中、別の写真展に行った時の話。
有名なポートレート写真家さんの作品を見てきました。
すごく没入というか、その場にいる人間の視点に入り込んで見ているような、そんな感覚になる力強い写真でした。
しかし、その写真を見て私は気持ち悪くなります。
その場に自分がいる、というメタな認識をし、自分を否定してしまうから。
撮影会の写真も、一流写真家の写真も、ポートレートというジャンルにおいては私が座れる鑑賞者の椅子が少ないと、再認識させられました。
こだわりや主張が強くて、なんか勝手に傷ついて。
ほんと人を撮るのに向いてないなぁ…としみじみ。
写真に関しては強くこだわりを持っている人間だと自覚しています。
プロレスラーさんや役者さんが、特定の性的趣向やルッキズムのために消費される写真にしたくない。
自分が鑑賞者として見たとき、気持ち悪いと思わない写真にしたい。
特定の写真に対するアンチテーゼで撮っているような。
上述の「べき論」もあり。
メンドクサイ人間だなぁ…。
たとえ面倒な人間であっても、メタ認知暴走させて苦しかろうと、私は自分を制御して取り組みたいのです。
そんな私にでも、撮ってほしいとか、撮ってくれてありがとうとか、声を掛けてくださる人がいるから続けられているのです。
また私みたいな考えの人がどこかにいて、鑑賞者の椅子を求めているのだとしたら、何かしらヒントを提供できるのでは、とも。
一番は、被写体さんが喜んでくれることです。
自己肯定感あがったり、撮られる楽しみを知ったり。
スマホの片隅に残った写真を見返したり。
そんな存在でありたい。
ひとりごと、おわり。
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