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なぜ、あなたの苦渋の決断が誤解されるのか

はじめに

最近、ある出来事をきっかけに、意思決定の質について考える機会があった。

仕事の中で、ある人が専門家の方の振る舞いに対してこう評価していた。

「あれは、面倒くさいんだろうな」

つまり、その専門家の方は面倒くさいという感情をベースに判断しているのだろうという見立てだった。

その言葉を聞いたとき、私は少し違和感を覚えた。

なぜなら、私から見るとその専門家の方の行動には一定の根拠があるように見えたからだ。
少なくとも、専門家としての経験や知識に基づいて何かしらの判断をしているのだろうと感じた。

もし自分にとって違和感のある結論だったとしても、私はまず、

「何か自分の知らない前提があるのかもしれない」

と考える。

もちろん、専門家の判断が常に正しいとは限らない。
ただ、自分に違和感があるからといって、それをすぐに「感情」や「面倒くささ」に置き換えて理解することには少し危うさがあるように思った。

ずっと抱えていた違和感が、この出来事を起点として一気に理解できるようになる気がして「そもそもの意思決定」について考えた。

もしかすると人は、他人の意思決定を自分が普段使っている意思決定モデルで翻訳してしまうのではないか。

日常的に感情で意思決定している人は、他人の判断も感情で説明しようとする。
一方で、日常的に構造や目的や根拠から判断しようとしている人は、他人の判断にも何らかの構造や根拠を探そうとする。

この違いは、組織や人間関係においてとても大きいのではないか。


違和感を「防衛」に使う人と、「探索」に使う人

人が何かに違和感を覚えたとき、その扱い方には大きく二つあると思う。

ひとつは、違和感を防衛に使うこと。

「なんか嫌だ」
「あの人は自分勝手だ」
「どうせ面倒くさいだけだろう」
「自分たちのことを考えていないんだろう」

このように、自分の中に生まれた違和感を相手の問題としてすぐに処理する。

もうひとつは、違和感を探索に使うこと。

「なぜそう判断したのだろう」
「自分には見えていない前提があるのではないか」
「その人の立場から見ると、何が見えているのだろう」
「この判断の背景にある制約条件は何だろう」

このように、違和感を否定の材料ではなく、理解の入口にする

この二つの差は、表面的には小さく見える。
ただ、積み重なっていくと、意思決定の質だけでなく人間関係の質や組織の質を大きく変えてしまう

なぜなら、違和感を防衛に使う人は他人の判断をすぐに「感情」や「欲求」として読んでしまうからだ。

「あの人がやりたいだけ」
「あの人が嫌いなだけ」
「あの人が楽をしたいだけ」
「あの人が自分を守りたいだけ」

本当は、目的や制約や全体最適から出てきた判断かもしれない。
それでも、受け手がそれを感情ベースでしか読めなければ、判断の意味はまったく別のものに変わってしまう。

ここに、意思決定の誤読が起こる。

ここでの否定は、"攻撃"じゃなくて"防衛"なんだと思う。
他責もそう。何かを守るためなんだろうな。

意思決定は、プロセスの最後の最後

意思決定というと、私たちはつい「最後に何を選んだか」だけを見てしまう。

しかし実際には、意思決定の質は、もっと前の段階で決まっているのではないかと思う。

私なりに分解すると、意思決定は次のような流れで生まれている。

①現実をどう認識しているか。

自分はいま危機にあるのか。
それとも、一定の安心の中にいるのか。
世界を脅威として見ているのか。
それとも、理解すべき対象として見ているのか。

②情報をどう処理しているか。

主観や一般化で処理しているのか。
それとも、個別具体の事実として扱っているのか。

「どうせこういうことだろう」と決めつけるのか。
「まだ知らない前提があるかもしれない」と保留できるのか。

③思考の起点がどこにあるか。

自分を守ることが起点になっているのか。
それとも、目的や全体を前に進めることが起点になっているのか。

④意思決定する。

感情や反応をそのまま判断にしているのか。
それとも、感情を一度受け止めた上で、目的や事実に照らして判断しているのか。

つまり、意思決定の質は、最後の「結論」だけでは測れない。

その前にある、現実認識⇒情報処理⇒思考の起点まで見るとようやく理解できる

あの人は感情的だ!なんて人格まで誤読すると大変なことになる。

感情が悪いのではない

ここで誤解したくないのは、感情そのものが悪いわけではないということだ。

むしろ、感情はとても重要な情報だと思う。

不安には、不安になるだけの理由がある。
怒りには、何か大切なものが侵害された感覚がある。
違和感には、まだ言語化できていない危険や不一致が含まれていることもある。

問題は、感情を意思決定に持ち込むことではない。
感情を現実そのものだと勘違いしてしまうことだ。

「私は不安だ」
ということと、
「現実が危険である」
ということは、同じではない。

「私は嫌だ」
ということと、
「相手が間違っている」
ということは、同じではない。

「私は傷ついた」
ということと、
「相手が私を傷つけようとした」
ということも、同じではない。

この区別ができなくなると、人は自分の感情を根拠に、他人の意思決定の由来まで決めつけてしまう。

そして、相手の判断を誤読する。


会社経営における誤読

この問題は、会社経営において特に大きく現れる。

経営者や管理職は、ときに厳しい判断をしなければならない。

すべての要望に応えることはできない。
すべての事業を残すこともできない。
すべての人にとって気持ちのよい判断だけを選ぶこともできない。

限られた資金、人員、時間、設備、市場環境の中で、何を残し、何を諦めるかを決めなければならない。

その判断は、受け手から見ると冷たく見えることがある。

「現場をわかっていない」
「自分たちを大事にしていない」
「あの人がやりたいだけだ」
「結局、自分を守りたいだけだ」

もちろん、実際に経営者側が未熟なことはある。
説明不足のこともある。
現場への敬意が足りないこともある。

ただ一方で、受け手側が「苦しみぬいて考えだした合理的な判断」を感情ベースの判断として誤読してしまうこともある。

本当は、会社を残すための判断だったかもしれない。
全体を守るために、一部を諦める判断だったかもしれない。
未来の選択肢を残すために、今の選択肢を捨てる判断だったかもしれない。

それでも、それを受け取る側が、

「あの人は自分たちが嫌いなんだ」
「あの人は自分がかわいいだけなんだ」

と解釈してしまえば、判断の意味はまったく違うものになる。

ここで起きているのは、単なる情報不足ではない。

意思決定の質の誤読である。

受け取り手次第で全部変わるのだけど、受け取り手だけの問題では断じてない。
私はよく意思決定をするけれど、説明をサボると絶対に悪いことが起きる

宗教、軍隊、家庭では、また違う

ただし、この話を会社経営だけに閉じて考えるのも危険だと思う。

なぜなら、意思決定の質は所属する共同体によって評価軸が変わるからだ。

会社におけるよい意思決定とは、事業の継続、顧客価値、利益、雇用、成長、再現性などに接続していることが多い。
つまり、事実や論理や目的合理性が重視されやすい

家庭では少し違う。

家庭においては、論理的に正しいことが必ずしもよい意思決定になるとは限らない。
正しくても、相手の感情を置き去りにすれば関係は壊れる

家庭では、感情はノイズではなく意思決定における重要な情報である。

「正しいか」だけではなく、
「愛情として伝わるか」
「安心が守られるか」
「関係が続くか」
が問われる。

宗教では、さらに違う。

宗教においては、外から見れば非合理に見える判断でも、教義や信仰や救済の物語の中では深い整合性を持つことがある。

会社では、物語や大義は安心を補う手段として使われることがある。
しかし宗教では、物語そのものが安心の源泉になる

軍隊では、また別の論理がある。

軍隊は、危機が前提の組織である。
そこでは、個人の納得よりも、任務遂行、統制、生存、命令系統が優先される場面がある。

安心があるから動けるのではなく、安心がない状況でも動けるように訓練される

このように、環境次第で何をもって「よい意思決定」とするかが変わる

だからこそ、意思決定を誤読しないためには、その判断がどの共同体の論理の中で行われているのかを見なければならない。

会社の論理を家庭に持ち込めば、人を傷つける。
家庭の論理を会社に持ち込めば、事業が壊れる。
宗教の論理を経済活動に持ち込めば、熱狂は生まれても検証が失われる。
軍隊の論理を日常に持ち込めば、規律は生まれても自由や対話が失われる。

意思決定の質は、単独では存在しない。
それは、何を守るための意思決定なのかによって変わる。

私はよく家庭に会社の論理を持ち込んで妻を怒らせています。ごめんなさい。

意思決定には種類がある

だから私は、意思決定を単純に「感情的か、論理的か」だけで分けない方がよいのではないかと思う。

少なくとも、次のような種類がある。

①反応的意思決定

不安、恐怖、怒り、面倒くささ、被害感から、ほとんど反射的に決めてしまう判断である。

これは、どの共同体においても誤解や衝突を生みやすい。

目的的意思決定

何を達成したいのか。
何を守りたいのか。
どの制約を優先するのか。
そうした目的から逆算する判断である。

会社経営や軍隊では、この意思決定が特に重要になる。

関係的意思決定

相手との信頼、安心、愛情、関係の継続を重視する判断である。

家庭や小さな共同体では、この意思決定を無視すると、たとえ正しくても人間関係は壊れる。

信念的意思決定

使命、大義、教義、理念、物語に沿って行う判断である。

宗教、軍隊、理念型の組織、創業期の会社などでは、これが大きな力を持つ。

習慣的意思決定

深く考えているようで、実際には過去の型、慣習、前例、空気に従っているだけの判断である。

これは、本人が意思決定しているつもりでも、実際には何も選んでいないことがある。

このように考えると、重要なのは「感情か論理か」ではない。

重要なのは、自分がいまどの種類の意思決定をしているのかを自覚することだ。

そして、他人がどの種類の意思決定をしているのかを早合点しないことだ。

⑤はよく批判されているけど、実際のところ一番多いよね。

誤解を生まないために必要なこと

では、意思決定の誤読を減らすためには、何が必要なのか。

まず、判断する側に必要なのは意思決定の由来を説明することだと思う。

「なぜそうするのか」
「何を守るための判断なのか」
「何を諦めて、何を優先したのか」
「どの制約条件の中で決めたのか」

これを説明しないまま、結論だけを渡すと受け手は自分の意思決定モデルで勝手に翻訳してしまう

だから、"厳しい判断ほど"結論だけではなく判断の前提を共有する必要がある

一方で、受け取る側にも必要な態度がある。

それは、違和感をすぐに相手の人格や感情に変換しないことだ。

「面倒くさいんだろうな」
「あの人がやりたいだけなんだろうな」
「自分を守りたいだけなんだろうな」

そう感じたときこそ、一度立ち止まる。

本当にそうなのか。
他に見えていない前提はないのか。
相手の立場から見たとき、何が制約になっているのか。
この判断は、感情ではなく目的や構造から出ている可能性はないのか。

この保留の態度があるだけで、誤解はかなり減るはずだ。

ここがほんとうにむずかしい。

安心がないと、人は事実を受け取れない

ここで大切になるのが、安心である。

人は安心しているとき、事実を事実として受け取りやすい。
しかし、不安や危機感が強いとき、同じ情報でも脅威として受け取ってしまう

だから、組織でも家庭でもただ正しいことを言えばいいわけではない

相手がそれを受け取れる状態にあるかどうか。
ここを無視すると、どれだけ論理的に説明しても相手には攻撃として届いてしまう。

安心とは、甘やかすことではない。

安心とは、厳しい現実を共有するための土台である。

安心があるから、厳しい話ができる。
信頼があるから、痛みを伴う判断を共有できる。
関係性があるから、すぐに悪意として読まれずに済む。

逆に安心がないと、人は事実ではなく自分の不安から聞いてしまう。

相手の言葉ではなく、自分の恐怖に紐づけてしまう。

ここに、誤読が生まれる気がする。

私はここを軽視してしまっていた時期が長くあった。猛省。

使命感や大義は、安心の代わりになることがある

もう一つ考えておきたいのは、使命感や大義の力である。

安心がない状況でも、人は動くことがある。

会社が危機にあるとき。
戦場のような環境にいるとき。
宗教的な共同体の中にいるとき。
あるいは、強い理念を持った組織にいるとき。

そこでは、安心の代わりに使命感や大義や物語が人を支えることがある。

「自分たちは何のためにやっているのか」
「この苦しみには意味がある」
「自分たちは大きな物語の一部である」

こうした感覚は、人を強くする。

ただし、同時に危うさもある。

使命感や大義は、人を前に進める。
しかし、強すぎると自分で考えることをやめてしまうことがある。

物語の中に自分を埋没させることで、不安は消える。
けれど同時に、自分の違和感や判断力まで手放してしまうことがある。

だから、使命感や大義は必要だと思う。
ただし、それは安心の上に乗っていないと危うい。

安心の不足を埋める麻酔としての大義ではなく、
安心の土台の上で人をより遠くへ連れていくための大義こそ必要である。

いわゆる「やりがい搾取」になっちゃうかもしれない。気を付けよう。

人は、自分の意思決定OSで他人を翻訳する

感情で決めている人は、他人の判断も感情で読んでしまう。
習慣で決めている人は、他人の判断も前例や空気で読んでしまう。
目的から決めている人は、他人の判断にも目的を探す。
関係を重視して決めている人は、他人の判断にも関係性のメッセージを読み取る。
信念で決めている人は、他人の判断にも信念や大義を見ようとする。

だからこそ、私たちは気をつけなければならない。

自分がそう感じたからといって、相手がそう考えたとは限らない。
自分ならその理由で動くからといって、相手も同じ理由で動いたとは限らない。

「あの人は面倒くさいんだろうな」

そう思ったとき、本当にそうなのか。

「上司がやりたいだけなんだろうな」

そう感じたとき、本当にそうなのか。

「自分のことが嫌いなんだろうな」

そう受け取ったとき、本当にそうなのか。

もしかすると、そこには自分の知らない前提があるかもしれない。
自分には見えていない制約があるかもしれない。
自分とは違う種類の意思決定が働いているのかもしれない。

その可能性を保留にできるかどうか。

そこに、人間理解の深さが表れるのだと思う。

これはもう皆がそうしてしまうもの。普通に生きてたらこうなる。仕方ない。
この傾向を理解したうえで、自分はどうするか。

意思決定の質を誤読しないように生きる

意思決定の質を高めることは大切だ。

しかし、それと同じくらい、他人の意思決定の質を誤読しないことも大切だと思う。

なぜなら、どれだけ質の高い判断も、受け手がそれを誤読すれば、意味が変わってしまうからだ。

論理的な判断が、冷たさとして受け取られる。
関係を守るための判断が、優柔不断として受け取られる。
信念に基づく判断が、独善として受け取られる。
危機対応の判断が、支配として受け取られる。

こうした誤読は、組織を壊す。
家庭を壊す。
人間関係を壊す。
社会の分断も、きっとこうした誤読の積み重ねの中にある。

だから、私はできるだけ他人の判断をすぐに感情や欲求に置き換えないよう気を付けようと改めて強く思った

違和感を持ったときほど、いったん保留したい。

「自分には何が見えていないのか」
「この人は何を守ろうとしているのか」
「この判断は、どの種類の意思決定なのか」

そう問い直せる自分でありたい。

そして、自分が意思決定する側に立つときには、結論だけでなく、その判断の由来を伝えられる人でありたい。

なぜなら、人は結論だけではなく、その結論に至った道筋によって相手を信頼するからだ。

意思決定の質とは、正しい答えを出す力だけではない。

自分の感情を現実と混同しない力。
相手の判断を自分の物差しだけで読まない力。
違和感を防衛ではなく探索に使う力。
そして、自分の判断の由来を他者に共有する力。

それらが総合的に混ざり合った力なのだと思う

誤解をゼロにすることはできない。

でも、他人の意思決定をすぐに低い次元へ引きずり下ろさずに踏みとどまることはできる
決めつける前に構造を探すことはできる
自分の不安を、相手の悪意に変換しないことはできる

その小さな保留が、人と人との間に、少しだけ余白をつくる。

そしてその余白の中にこそ、理解や信頼や、よりよい意思決定の可能性が生まれるのではないだろうか。

気を付けよう。ほんと気を付けよう。

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