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【死んでいない者】 芥川賞読んでいく:3冊目【2015年受賞作】

芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。
今出せる自分の力で、読んだ本の感想を書いていきます。
今回は、第154回 芥川賞受賞作 死んでいない者
テーマが多く、好き勝手書いたら雑多な内容の記事になってしまいました。反省。


以前読んだ時のメモ

「わざわざ考えたい文章は今のところない」と書いているが、本を見返してみたら結構チェックが入っていて(気になったところはチェックを入れて読んでいる)、気にはなったけど、当時はじっくり考えなかったんだなと思う。今回はそれを引用しながらまとめてみよう。

なんで泣く?

考えてみれば、それがどんな感慨であったにしろ、心理的な揺れや変化が直接的にはなんの刺激もない目玉から水分を出すに至るというのは想像を超えている。

それもこれも生きていればこそなのだ。短絡、安直に過ぎるとは自覚しつつも、何かにつけてそう結論づけてしまう。誰かが死んだ時は通常の短絡が短絡でなく、安直が安直でなく感じ入る。大人だって、死ぬとはどういうことなのかなどわからない。単に、わからないでいることに慣れたか、諦めたか、混乱しないでいられるだけだ。実際、父がもう長くはない、と知った時から、吉美たちはその死に慣れはじめていたように思う。自分の死についてだって、それがなんなのかさっぱりわからないまま、刻々それに近づいていっている、あるいは近づかれている。

ここには二つのトピックが潜んでいる。

1)「心理的な揺れや変化が直接的にはなんの刺激もない目玉から水分を出すに至る」のはどうしてか
2)「死ぬとはどういうことなのか

1)は「泣く」という行為の原因は何か、という心理学のResponse -Stimulus的なことが念頭にあり、ただ、我々は葬式とかでじわじわと来て泣くから、その場合の原因っていったいなんなんだ、という実体験から定義された問題であるように思う。目にゴミが入って涙が出るなら納得はできるけど。
 実際、私も祖父が死んだとき、死んだすぐ後は涙は流れなかったのだけど、死んで二日目くらいかな、思い出の場所を通りかかったときに意識せずに涙が出てきたことがある。前触れがなく自分でも驚いたものだ。

そもそも涙を流すというのは自律神経の活動ダイナミクスが重要であると読んだことがある。一度交感神経の昂りを経た後に、副交感神経の活動が高まると涙が出るのだという。下の本で読んだ。

とまあ、迂回して書いたけど、なんでこうした場合(悲しい時でも怒られた時でも、またなんでもないような時でも)涙が流れるのだろう。目の乾燥を防いだり、相手に感情が伝わりやすいという機能があるかもしれないけど、潜在的な神経の混線の結果、副次的に何だが流れるということもあるかもしれない。なぜこんなにくどく書いているのかというと、原因の曖昧な涙というのは芥川賞受賞作でも何度か目にしてるし、他の小説でも度々見かけるからだ。例えば、ニムロッドでもなんでもなく涙が(しかも片目から)出てくる人間が出てくる。

死ぬとはどういうことなのか

2) の「死ぬとはどういうことなのか」という話題も小説ではよくみられる。ノルウェイの森とか
今思い出したのは、養老先生の言葉だ。

「生死については、考えてもしょうがないです」

自分自身の死が「一人称の死」
親しい人の死が「二人称の死」
赤の他人の死が「三人称の死」

自分の死(一人称の死)は経験できないから、どう考えればいいのかわからない。だから、考えるとしたら他人の死になる。養老先生はこの話題の時、よく生死の境界はどこかとか、先生のお父さんの話や、先生のそのまた先生の解剖のことをお話しされる。
とりあえず、本に戻ろう。

確率ってそういうものなのかな

夫のダニエルはアメリカのウィスコンシン州で生まれ育ち、紗重は日本の鎌倉で海を見ながら育った。そんな遠くで生まれ育ったふたりが出会い、子どもを持ったことは奇跡的なこととしか思えない。ダニエルと知り合う前に付き合っていた高校時代の同級生だった男とくらべて、ダニエルと出会う確率の低さはどうだろう。

確率ってそういうものなのかな。

この確率とか運命についてのテーマもよく小説で取り上げられるものだと思う。確かに同じ田舎で出会った人と結婚するより、遠く離れたアメリカ人と出会って結婚するというのは確率的に低そうではある。
人の脳は出来事の確率を見積もる時、どのように計算しているのだろう?例えば、確率の分母はどう計算するのか。

先に進もう

アメリカ人夫のダニエルは面白いことを言ったりする。

義理ってなに?

「義理を感じる」って普通に言わない?例えば、義理チョコっぽいものもらった時に義理っぽいなとか。小学生の頃みんなで話したな、義理と本命はどこからか、みたいな。ある女の子は本命チョコをいくつも用意して、本命度と義理度がグラデーションになってるみたいな話して笑った。「お前は義理だろ」とか言って。
義理の親とかも血縁関係はなく、最初は義理っぽさ満載なんだけど、それが生活してくうちに荷台から降ろされてくみたいに無くなっていくんだ。義理っていうのは背負うものか?

先に進もう

意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような

知花という中学か高校生くらいの女の子が出てくる。不登校だっけな。

兄との電話で話すのは、自分の学校生活のささいなことが多く、あまり深い話にはならない。深まらない、長い話がだらだらと続く。意味がなくて記憶からもこの世の事実からも消えていくような話を連ねて連ねて長さだけが延びていくような兄との電話が知花は好きだった。

意味というのも芥川賞で特に取り上げられる話題の一つだ。社会生活では至る所に意味が求められるので、それにストレス(人によってはストレスどころではない)を感じて「意味ってなんだろう」と人は必然的に考えるのだろう。それで、意味から逃れたいという感情を表現した作品が共感を呼び、受賞しやすくなるような気がする。実際、考えるべき問題である。

そのどうでもいい会話が、祖父が死んだ日にたしかに交わされたのだ、と知花はその晩お風呂につかりながら思った。たしかにあったどうでもいいことは、この世界にどのように残りうるのか。それともそのどうでもよさゆえに忘れられ、いつかは消えてなくなってしまうのか。肌と、たぶん肌の内側でも感じているこのお湯の温度、というか熱さを、温かさを、祖父の体はもう感じない、と透明な湯を見ながら知花は思った。風呂を出て、布団に入ってからも、さっきの会話を思い返した。

どうでもいいようなことは忘れられていく。この肌の感触も温かみも。
本当にそうだろうか?ノルウェイの森を引用しよう。

記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそんな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこんでいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。

風景はどうでもいいもの
隣を歩く美しい女、自分、その関係が大事なこと
だったけど

でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やかさを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。とてもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もいない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたものは、彼女やそのときの僕や僕の世界は、みんなどこに行ってしまったんだろう、と。そう、僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のない背景だけなのだ。

ノルウェイの森

大事だと思っていたものが記憶から抜け落ち、どうでもいいと思っていたものが残る。
そういうことってあるような気がする。旅をしていると実感する。

今回の本に戻ろう

どれくらい歩いたか、そこに時間の感覚はもうなくなってしまっているのでわからない。十分ほどだったようにも、何時間もかかったようにも、想像ができる。
地図を見ればおおよその見当がつくかもしれないが、結局そこにあるのは距離であってあの日の道のりや時間ではない。あの日立ち止まったり、遠回りをしたり、道に迷ったりしたことまでは地図に書かれていない。しかし重要なのは絶対にそちらの方で、だから地図を見るのは記憶を殺すことになりかねない。だから俺はもう絶対地図は見ない。
はっちゃんは強くそう決心した。思い出せないのなら思い出せないでもう構わない。そうやってたくさんのことを忘れてしまって思い出せないのだし、もはや忘れたことすら気づいていない記憶がたくさんある。忘れてはいないのだが、もう死ぬまで思い出さないかもしれない記憶もあって、考えようによったら忘れるよりもその方が残酷だ。
なにかを思い出すことはだから嬉しいけれど、そんなに仔細に思い出したいわけじゃない。詳細になれば嘘になる。とはいえこうして具体的な場所が意識にのぼれば、いやおうなしに記憶は自ら記憶を掘り返しはじめ、穴や理由を埋めようとする。余計なことしてくれるなと思うが、とめようがない。

記憶についても色々と書いている。テーマのオンパレード

最初この本を読んだときにわざわざ考えなかったのは、多分テーマが多すぎたからじゃないかとふと思った。当時の自分は処理しきれなかったのだ。今だって、こんなに多くのテーマについて1日で考えるなんて不可能だ。

次で最後のテーマだ

強いとか弱いとか

自分よりも弱い者を前にしただけで、まるで自分が強い者であるかのように振る舞わなくてはならないことになり、一緒に弱くなれない。変わらず自分も弱く愚かで、もしかしたらお前たちとほとんど変わらないか、もしかしたらお前たちよりも簡単に逃げてしまうことができるのだから本当はもっと弱いのかもしれない。けれども逃げることを知らぬお前たちは逃げて虚勢を張ってる俺を強いかのように頼ってくるから、俺も強い者であるかのように振る舞うが、俺には何も、お前たちの頼りにできるようなものなどない。

子どもの頃はいろんなことから逃げられないよね。学校は逃げられないもののうち最大のものだった気がする。同列で親。友達や部活の先輩後輩たち。そして受験。今の自分が当時の状況に放り込まれても、全てにうまく対処するなんて無理だっただろう。大人になれば逃げるのは自由だ。何から?

弱いという言葉でよく思い出すのは、羊をめぐる冒険の鼠の言葉だ。

「キー・ポイントは弱さなんだ」と鼠は言った。
「全てはそこから始まっているんだ。きっとその弱さを君は理解できないよ」
「人はみんな弱い」
「一般論だよ」と言って鼠は何度か指を鳴らした。
「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。俺は今とても個人的な話をしているんだ」

今回の記事は過去最大にバラバラな内容になってしまいました。
ただ、問題定義という点で見た場合、少し内容に触れつつ紹介できたのかなと思っています。各テーマについては今後、別々に書いていこうと思います。


読んでいただき、ありがとうございました。

これまで読んできた小説はここにまとめています。



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