【土の中の子供】芥川賞読んでいく:7冊目【2005年受賞作】
芥川賞の受賞作を片っ端から読んでいくということをしています。読んできた中でいいと思った作品からNoteにまとめていきます。
背伸びせず、今持っている力でまとめていきますので冗長になります。計画性なしの見切り発車で書いていきます。前回まとめたのは、
もし読んでくれる人があるなら「ここの解釈はおかしいんじゃない?」とか「私はこう思うよ」とか「いいね」とか些細なものでもコメントしてくれたら嬉しいです。今回まとめるのは、
第133回、2005年、芥川賞受賞作。
ダメになってしまいたいって感じ
「その先に、そいつがどうなったのか。何ていうのかな、人間の最低なラインってどこなのかっていうかさ。どこまで行けるものなのかなって」私がそう言うと、彼女は笑った。
「変な人って多いからね、そうなる必要もないのに、わざとみたいにダメになった人とかさ。その人もそうだよ。最後に会った時、馬鹿みたいに笑ってて満足そうだったし。こういうのは、何かきっかけがあったとか、環境のせいなのかな。それとも、ただ単にそうなりたかった、ていうだけなのかもしれないけど」
「そうなりたい?」
「うん。ダメになってしまいたいって感じ、何となくわかるでしょう?ほら、集団自殺するネズミっているじゃない、そういう本能みたいなのがさ、人間にもインプットされてるとか」
なぜかその会話は、私に言おうとして、彼女がわざわざ用意していたものであるように思えた。
「・・・・わからないなあ」
「でも、そうだったら素敵だと思わない?そのネズミみたいに、日本中の若い人の全部がダメになっていくのよ。ダメな方へ、全員が次々と墜落していくの。そうなったら面白いよね」
彼女はそう言うとまた一人で笑ったが、私の曖味な反応のせいか、それから静かになった。
ダメになってしまいたい感じはわかるけど、それが集団自殺するネズミにつながるのは確かに不自然だね。集団自殺する動物はアサッテの人にも出てきたなあ。
ダメになってしまいたい、を書く芥川賞受賞作は他にもある。例えば、
・限りなく透明に近いブルー、村上龍
・蛇にピアス、金原ひとみ
が思いつきます。芥川賞に限定しなければ、やっぱり太宰治。人間失格もそうですけど、斜陽はよかったなあ、客観的な第三者から書くような感じで。
行為を止めようとする力が、私の意識に上がる前に、指に影響を与えているかのように思えた
飲んでいたコーヒーの缶を、窓から外へ落とそうとした。この部屋は四階にあるため、地面までは充分な距離があった。こうする度に、私はいつも緊張を覚えた。
指が硬直したように痺れ、缶を支えている接点が汗のために滑った。私は不安になる。心臓の鼓動が徐々に速くなり、行為を止めようとする力が、私の意識に上がる前に、指に影響を与えているかのように思えた。だが、逆らうように手を放した。
それが意志であるのか、ただ抵抗しただけなのかはわからない。手を放したあと後悔したが、しかし確かに湧き上がる解放感で、自分が満たされていくように思えた。
一般に、我々は行為の意識が行為自体に先行すると思っている。つまり、動かそうという意識→動かすという行為、というのが普通の理解で上の文章は、行為を止めようとする力→その意識、という一般的認識に反することを言っている。わかりやすく言えば、やった後にやったことに気づくとなるだろう。これは変な話かもしれないが、実は正しいかもしれない。
マインド・タイムという本は実験事実に基づいて、脳内において意識(Awareness)が行動の後に生じるということを主張している。正確には、意識につながる脳活動は、行動(運動)につながる脳活動の数百ミリ秒後に起こるというもので、その後の脳活動を阻害すると主体感(意識)がなくなるということを報告している。
思い出してまた記事にしたい本の一つですね。
もし指を離そうとするアウェアネス(意識につながる後の脳活動)が生じなければ、止めようとしたという主体感が生まれない。行為の実感が生じるのか、生じないのかはどうやって決まるんだろう。なんとなく、行為に慣れてくると数百ミリ秒後の脳活動が消失してくるんじゃないかな。それを抑制するシグナルが生じてくるというか。(おそらく最初の神経活動がフィードバック的に後の神経活動を抑制するようになるんじゃないかな)ただの妄想です。
下へ落ちていく缶を見届けながら、胸がざわついていた。自分が緊張から解放される感覚と、新たに生まれた不安に、首筋に汗が悩み、急かされるように呼吸が速くなっていた。もう、私の力ではどうしようもない。これは私の行為であるが、既に私のコントロールの外にある。もう、全ては遅いのだ。下にゆきつけられるのは、いつだろうか。もう、叩きつけられてもいい頃のはずだった。まだだろうか。不意に、高く固い音が響き、心臓を打たれるような重みを胸に感じた。缶は地面から大きく跳ね、二回宙に浮いたあと、捨てられたものとして転がっていた。予想よりも、時間がかかった。次はもっと重く、抵抗のあるものを落としたいと思った。
好きというより、ただそういうことを繰り返していた
以前から、妙なことだが、ものを落とすのが好きだった。いや、好きというより、ただそういうことを繰り返していた、といった方が正確だったような気がする。幼少の私を引き取った施設は小高い丘にあり、裏口から出てしばらく歩くと、二十メートルほどの崖が断層を作っていた。崖の前には緑色の高い柵があり、それは私達とその崖との関係を遮断していた。しかし私はまだ小さかった手を棚の隙間から出し、様々なものをそこから落とした。ビン、石、缶、鉄層、砂….....しかし、一番心が騒いだのは、トカゲなどの、生き物を落とした時だった。既に尻尾の切れたトカゲや無自覚なカエルを掴み、柵から腕を出し、手を、ぱっと放す。一つの生物が落下し、まだ死んではいないが、数秒後に確実に死のうとしている。それを見届ける時いつも不安を覚えたが、その不安は、なぜか私を慰めた。動揺していく感情の中に確かに生まれる、ノスタルジーのような、甘味の漂う感覚が、自分に拡がるのを感じた。
あることを繰り返すこと、すなわち好きだと言えないだろうか。
例えば、僕はこうして本を読んで感想を文章に起こしている。それを繰り返してきた。これが好きか?と聞かれれば、多分好きです、と答えます。
ただ毎日起きた後、コーヒー(最近は緑茶)とか淹れるけど、確かに好きというよりかはただ繰り返しているのかもしれない。好きかどうかでいうとやや好き寄りなのかもな。
今の個人的な考えだけど、好きという感情と繰り返すような行為は脳内でも別経路ではないかと思っている。
上の方では、快楽と依存の経路についてこのように述べられている。
腹側被蓋野のドーパミン作動性ニューロンから前頭前野に分泌されたドーパミンは、「主観的な快感」を増強する。一方、側坐核にドーパミンが分泌されると、「その結果のもとになったの脳が判断した行動」が強化される。(中略)
ということは、動物や私たちは前頭前野で「主観的な快感」を得たから何かに病みつきになるのではなく、側坐核が快感のもととなったと判断した「行動」が強化されて、その行動に病みつきになるのだ。このように、主体的な快感と行動の強化は別々の経路で起きている。
これについても長くなるのでどこかでまとめます。
自分が人間になる以前の人間へと、人間として完成する前の未完成な、しかし存在の根源であるような固まり
主人公は育ての親から暴力を受けたりしている。
自分の身体が、その姿形が消え失せ、黒いモヤになったような感じだった。黒いモヤから、私の生きる意欲がーそれは眠りたいであるとか、水が飲みたいといった単純なものだったがー微かに生まれ、その都度加えられる力の痛みで死んだ。私はそういった感覚の固まりと化していた。その時、奇妙なことだが、これが人間にとって本当の姿ではないかと思ったことがある。自分が人間になる以前の人間へと、人間として完成する前の未完成な、しかし存在の根源であるような固まりに、なったような気がした。
生きる意欲というのが、ある種の痛みで消える。
僕はもっと若い頃、家出をしたりしてたんだけど笑、自転車に乗って何百キロも走ったりしていた。目的地はなく、ただただ遠くへ行きたかった。未成年だからホテルにも泊まれず、公園とか神社の人が来ないところで寝ていた。寝る場所というのは大事だ。という当たり前のことを知って、ホームセンターで一番安いテントを買った。自転車の後ろにくくりつけて走った。今だからこうして書けるけど、昔は切迫した問題、つまり死活問題だった。トラックがびゅうびゅう通る暗い山道を自転車を押しながら登ったり、誰もいない海岸線沿いを走りつづけた。向かい風の中では前に全然進まなくて本気で呪った、風に対して怒りや呪いをぶつけられるはずもなく、消耗するのは体力と精神だけだった。それでもなぜか止まっていられずに走りつづけた。そうすると、不思議と感情が抜けていって、体は疲れているんだけどペダルを踏む脚が意識とは独立に回っていく状態におちいった。それが”感覚の固まり”なのかなと思った。ボロボロで未完成で、人間とは呼べそうにもないんだけど、僕はその時の感覚をまだ覚えている。
小説の中では他人から加えられる暴力によって、感覚の固まりにある点で僕と違っている。そして、自分がこの小説(というか中村文則という小説家)を心の底から評価できない理由がここにある。他人の、特に暴力に依存して、書かれた文章というものは、暴力や犯罪を描く傾向にあると思っていて、僕は面白くないと思っている。限りなく透明に近いブルーもドラッグとか蛇にピアスも、ドラッグとか他の何か(小道具)に頼って、自分の内面に降りて行こうとするところが、僕は気に入らない。真に問うべき問題というのは、それら外力と関係するかもしれないが、そもそも独立に存在すると考えているから。つまり、暴力やドラッグがなくても、その僕が意図する問題は十分考えることができるということだ。今後まとめたいから、具体的にはあえて書かずに勿体ぶっておこうと思う。ただ、カミュとかが明確に提示している。
彼の言う「あいつら」とは、何を指していたのか
ある友達ができて、その彼に言われる場面。
彼は私の、ものを落とすという行為を注意し、時折力ずくで止めさせた。そういう時、彼は自分に言い聞かせるように「それじゃあ思うつぼだよ」と言うことがあった。「不幸な立場が不幸な人間を生むなんて、そんな公式(彼は時々、奇妙な言葉の使い方をした)、俺は認めないぞ。それじゃあ、あいつらの思う通りじゃないか」
彼の言う「あいつら」とは、何を指していたのか。多分、親などの身近な人間ではなく、もっと全体的な世界のことを意味していたのだと思う。
ものを落とすこと自体を否定しているわけじゃない。もしそれ自体を否定するなら「危ないから」っていうから。じゃあ、何を否定したのか。
そもそも、ものを落とすこと、それを抑制しようとする意思(倫理?)、さらにそれを抑制しようとする意思、という潜在的な二重抑制が小説で描かれていた。

時に、我々は何かのために倫理に背くであろう行為を選択することがある。ものを高いところから落とすのはまさにそうである。楽しいからという安直な潜在的理由の時もあるし、他の理由の時もある。小説では、その理由を探ろうとしていると思われる。
ものを落とすことを止めてきた友達は、二重抑制の潜在的原因をあいつらにある、として否定したのだと考えられる。小説では「もっと全体的な世界のこと」と述べているが、いったいなんのことだろうか。思い浮かばないので、思いついたら追記します(助言ください)。
終わりに
アサッテの人とテーマがにていると思ったけど、中村文則の小説は暴力とか犯罪関連が多く、今回の本も例外ではない。疎外の原因が暴力等にあるとしても、関心がそこに向くのは個人的に面白くないと思う。でも、彼の作品は割と好きで何冊か読んでいます。(書く側として学ぶ部分が多いから)
もっと書けるなあと思うトピックが上がったので、それは忘れずに書こうと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
ブックオフで100円の本買いたいです