文化を分かつ断崖絶壁 親不知・子不知 難所を乗り越え渡った翡翠を思う【紀行文】
プレートの接点で出会う東と西
翡翠を巡る旅。
私は新潟県糸魚川市にいた。ここは大地の物語が刻まれた特別な場所だ。糸魚川–静岡構造線と呼ばれる断層の露頭部があり、フォッサマグナの西端で、北アメリカプレートとユーラシアプレートが出会う地点。日本列島を東西に分断する地質学的な境界線だ。
ここで一歩踏み出せば、私は別の大陸に立つことになるのだ。フォッサマグナパークの境界に立った時、私はそう思った。

さらに、現地の看板には、わずか数メートルの距離で、土壌も水の性質もまったく異なるという場所を紹介していた。


東と西、日本列島の文化と大地の境界がこの地で出会っている——それが糸魚川という土地の魅力なのだ。
前回の記事はこちら。
山が海に沈む場所 - 天下の険
糸魚川の断層を後にした私たちは、富山方面へと車を走らせた。向かう先は「親不知・子不知」(おやしらず・こしらず)と呼ばれる難所だ。
窓の外に広がる景色は次第に変わっていく。フォッサマグナに沿ってそびえる日本アルプスの山々が見えてきた。3000メートル級の峰々が連なる光景は、生まれも育ちも太平洋側の私にとって、まるで異国のようだった。

「あの雪をいただく高山の彼方に、私たちが住む太平洋側があるのか...」
そんな会話をしながら、国道8号線を富山方面に向かって走る。
なだらかな海岸沿いの道が、急に険しくなり、やがて山が海に沈み込むような地形、そしてトンネルが続く道に入った。
それが親不知・子不知だった。
切り立った崖が海へと落ち込む様は、車窓から一瞬見える景色だったが、恐怖を覚えるほどだった。
足元が少し震えた。
断崖絶壁と荒々しい波の狭間で、かつての旅人たちはどんな思いでこの地を通ったのだろう。
命がけの通行路 - 親と子の別れ道
立ち寄ったサービスエリアで親不知のパンフレットを手に取った。「明治の終わりごろまで、人々は波打ち際を歩いて越えていた」そう書いてあった。
途中車を停め、親不知の断崖絶壁を眺めることができる場所に上った。
目の前に広がる風景からは、その危険さが手に取るように分かる。波が荒い日には、親子が手を取り合って歩くことすらできず、互いの姿を見失うほどだったという。「親不知」の名は、そんな過酷な状況から生まれたのだ。



ある古歌が残されている。
親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく
平頼盛の夫人が詠んだとされるこの歌は、源平の争いの時代、夫を慕って越後に向かった際、幼い子を波にさらわれた悲しみを詠んだものだという。
その痛みが、千年の時を超えて私にも伝わってくる。
展望台から見下ろすと、険しい断崖の下に、四度にわたる道路建設の痕跡が歴史の層のように重なっていた。
昭和48年の「親不知トンネル」開通、平成19年の北陸自動車道整備と、時代とともに人々は自然の難所に挑み続けてきたのだ。

恐ろしいほどの難工事であったことが分かる。

東西文化の境界線
「そういえば、フォッサマグナパークへ向かう途中、東西の文化の違いを示す展示がありましたね」
同行者の言葉に、私はハッとした。なぜこの地で文化の違いを語るのか——その理由が今、目の前の地形を見て腑に落ちた。
親不知・子不知の険しい地形は、文字通り文化の「断絶点」だったのだ。交通の困難さから、西日本の文化はここで止まり、東日本の文化もまた、ここで途絶えた。
その名残は現代にも残っているようだ。
灯油缶の色が東日本では赤、西日本では青であったり、おにぎりの形が三角か丸か、餅の形が丸か四角かといった違いが生じたのも、この自然の障壁が一因なのかもしれない。
目の前の崖は、単なる地形ではなく、日本の文化を二分する境界線だったのだ。
信仰にも現れる東西の分断
私は車窓から海を見つめながら、その日の朝立ち寄った能生白山神社を思い出していた。茅葺の印象的な拝殿があったあの神社。
今は白山神社の祭神として知られるククリヒメ(菊理姫)を祀っているようだが、その創建の時代には、ヌナカワヒメをメインに祀っていた。


後日、ざっとネットで調べた程度ではあるが、ヌナカワヒメの信仰圏は東北地方および内陸の信州方面に広がり、一方、白山信仰は石川、福井、岐阜とつながっている。
また、八海山の信仰圏が南魚沼や会津を中心に広がっていたのに対し、白山信仰圏は越中・加賀・美濃を中心に展開されてきた。
明確に親不知で線引きされていたという証拠は乏しいものの、この地域が信仰の緩やかな境界線となっていた可能性は十分にある。
それもまた、この難所が人々の交流を阻んできた証なのだろうと思った。
海路が繋いだ縄文の絆
帰路は富山から白馬や乗鞍の麓を通り安房峠を越え、信州の松本へと出た。峻険な道のりは、車でさえきついものだった。かつての人々はどうやってこの難所を越えたのだろうか。
私は、古墳期以前まで、糸魚川は翡翠の産地として知られ、縄文時代ににはすでに、その交易範囲は山陰の出雲、そして九州北部にまで及んでいたという事実を思い出す。つまり、古代の人々は、この東西の断絶を乗り越えた交流をしていたのだ。
彼らは陸ではなく、海を通じて繋がっていたのだ。北陸の陸路は、ここで閉ざされていたが、しかし、交流は海路を使って行われていたのだ。
改めて、日本海の鈍い灰色を眺める。厳しい断崖が人々を隔てる一方で、海は人と文化を繋ぐ道だったのだ。


古代の人々は島影を頼りに、海を渡ったのだろう
新潟から富山への二泊三日の最中、方角の感覚がまったく逆転していると感じていた。私たち太平洋側の人間にとって、山は北に、海は南にある——それが日常の風景だが北陸では、海は北に、山は南にあるのだ。

親不知・子不知の圧倒的な自然の姿を目の当たりにして、私は北陸の人々の暮らしの厳しさと、それを乗り越えてきた強さを感じる。太平洋側と異なる風土、文化があると感じた。
日本列島を分かつ大地の裂け目と、それが生み出した文化の境界。親不知・子不知の旅は、地質学的な不思議さと歴史の重みを同時に教えてくれる忘れがたい経験となった。

続きはこちらへです。富山の史跡や文化財センターへ行きました。
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