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水の流れとともに下越の旅―胎内市から村上市岩船まで【紀行文】

 天井から幾本もの鮭が吊るされている。
 塩と川魚の匂いが充満した部屋は薄暗かったが、それぞれの腹が裂かれ、乾いた断面を晒しているのがわかった。グロテスクといえばそうだが、この暗さと匂いこそが、人々の命をつないできたものだ。
 ここは新潟県村上市の町屋。
 信州の松本を出発点として、信越の古層を巡る旅に出た私は、長岡市に宿を取り、翌日、東北地方の文化と接するこの地域までやってきた。

古代の湿地に浮かぶ塚 城の山古墳

 長岡市に宿を取り、翌日早朝、北陸自動車道で新潟へ、そしてさらに北上し胎内市へと進んだ。
 信濃川や阿賀野川の流域の平地には網の目のように川が流れている。胎内市内にも山間から流れ出た川が交通網となり、暮らしが営まれてきた。平坦な湿地や田が広がる中、塚状に盛り上がった場所が不思議とある。
 自然に形成されたその小高い土地に、人はおのずと何かを感じ、塚や古墳をつくっていった。
 そういう場所の一つに訪れた。

城の山古墳の墳頂にあった石碑
川沿いに形成された集落は、川を挟んで墓域として分けられた

 古墳や遺跡の位置を地図で見ただけでは分からないことも、こうして現地を訪れ、あたりの景色、土地の起伏、こうした経験を加えていくと、見えていなかったものが見えてくる。
 ここが旅の面白いところだ。点と点が線になり、やがて古代の人の動きが浮かび上がってくる。

 今回、向かったのは新潟県胎内市の城の山(じょうのやま)古墳。
 水田の中にこんもりと盛り上がった円墳で、高さは5mほど。四世紀前半の築造で、前期古墳としては日本海側の最北端に位置する。
 国指定史跡 奥山荘城館遺跡の一つである。

古くは大塚山や一籠山と言われていた
いずれかの時代、ここが国境のようになっていたようだ

 出土品は、近くの奥山荘歴史館に展示されている。
 奥山荘(おくやまのしょう)は中世の荘園遺跡で、10か所が国の史跡として指定されている。
 胎内市では、奥山荘歴史の広場を整備し、国指定史跡 奥山荘城館遺跡のうち復元整備した江上館と、そこから出土した遺物などを展示した奥山荘歴史館からなる。 

奥山荘歴史館は、令和8年4月にリニューアル 当面土日のみの開館なので、訪れる際は確認したほうがよい
江上館が平面展示で復元整備されている

 歴史館の二階に上がり、城の山古墳の解説を見る。
 発掘調査により、全長8メートルの舟形木棺からヒスイの勾玉、靫(ゆき)、盤龍鏡、国内最古の両頭金具、鉄の大刀が出土した。棺の周囲には赤い顔料が大量に用いられていたという。

舟形木棺の埋葬時の再現写真

 副葬品の豊かさは、この地と大和政権との深い結びつきを示している。
 盤龍鏡は後漢から魏・晋代にかけての中国に見られるデザインで、大和を経由してここまで運ばれてきたものと考えられている。いわゆる空白の四世紀の気配を伝えるロマンある遺跡だ。
 日本海を北上した文化と権力の波が、この地までおよび、そして留まった。その最北の勢力との境・痕跡が、田んぼの中にひっそりと残っていた。

城の山遺跡の出土品

 この辺りに、新潟と山形の文化圏の境目であり、大和政権の北方経営の拠点として、この地の首長が機能していた、その結果がこの豪華な出土遺物なのだろう。
 そして、舟形木棺という形は、海からやってきて、水を巧みに使って生きた人々の記憶を封じ込めているように思う。

日本最古の石油採掘 黒川のくそうず

 その後、市内に産出する「くそうず」を訪ねた。古代よりこの石油を使った土器や石器の補修や接着を行ってきた。
 日本書紀にも「越の国より燃ゆる土と燃ゆる水を天智天皇に献上した」とある。

国指定史跡 奥山荘城館遺跡の一つとして、この臭水油坪跡も整備されている

 ここ黒川石油公園では、今でも、湧き出る天然資源のボコボコという音、そしてあたりに立ち込める油の臭気に、神秘的な驚きと恐ろしさを感じた。

黒川のくそうずとして新潟県天然記念物にもなっている
あたりは公園として整備されているが、臭気はただならない
今でも湧き出る原油
現代、それこそ戦後までここでの石油採掘は続いた
千年間もの間、石油をこの黒川の地で産出していたのだ
口縁を奥に進むと窪んだ「坪」と呼ばれる場所があり、そこには黒い塊が浮かんでいた

 地表近くの石油を含む層から湧いた水がくぼ地(坪)に溜まる。これをカグマという植物を使って掬い取り、灯火につかったりした。
 その臭いから「くそうず」と呼ばれ、水の色から黒川の名の由来になったようだ。日本書紀にも見える石油献上の地は、この黒川のくそうずであったとされる。

この穂先に黒い油の塊がつくので、こちらをこそぎ落として持ち帰ったのだろう
臭水井戸 明治時代に英国の医師シンクルトンが指導し、たて堀の井戸が開発された。ここは昭和15年に機械堀に変わるまで、ずっと使われた。
穴は深く、臭気もあり怖さを感じる

 日本最古の油田、黒川のくそうず。
 日本書紀に見えるのが最初だが、縄文のころから、石油由来製品である、アスファルトを使い、土器の補修を行ってきた。
 自然に湧き出た油を使い、縄文の昔から人々は、このくそうずと共に暮らしてきたのだ。

縄文の記憶を追って 奥三面(おくみおもて)

 胎内市の奥山荘を出発し、さらに北上し村上市へ。その山間にある、縄文朝日の里へ向かった。三面川の上流、奥三面地区はかつて集落があった場所だ。

ダムに沈んだ奥三面のムラの歴史を伝える縄文の里 朝日

 奥三面ダムの建設に伴い集落が水没するため、昭和63年から平成10年にかけて大規模な発掘調査が行われた。
 19か所の遺跡が確認され、ストーンサークルや砂利で舗装された道など、全国的な注目を集める発見が相次いだ。旧石器時代から人が住んでいたことも確認されている。
 この辺の山奥にはまだ手つかずの場所も多い。さらにいくつもの集落があったのだろう。

日本海に近く、同時に東北の文化圏に接している
川沿いにいくつもの集落が発見されている

 縄文後期の遺物が多く見つかるが、中期のそれは少ない。後期になり、人々の暮らしの何かが変わって、この山奥に人々が入り込んできた。

縄文後期の集落跡 配石遺構のほか治水工事の形跡もみられる
装飾品などからも高度な文化があったことがうかがえる

 この縄文 朝日の里では、時系列で朝日集落の歴史を紹介するほか、同時に民具を紹介しており、展示方法が独自で面白いと思った。
 山奥の縄文の暮らしと技術が、つい最近まで続いていたことを思わせる展示だった。

異形石器といわれるおよそ実用とはおもわれない石器が多数発見されており、祭祀に使われたのだとされる また漆塗製品が発見されているのも驚きだ
遺物と当時も使われたような木製品が並んでいた
暮らしを総合的に再現し、また当時の文化が近代まで残っていたことがわかる
出土した火焔型土器 信濃川流域との交流もあった
一方で東北地方の特徴である注口土器も出土し、文化の交流点・結節点であったことがわかる

 縄文後期には、土器の色が黒みを帯びてくる。土器の焼成方法の変化だとも言われているが、もしかしたら「黒」に何かしらの特別な意味が見いだされ始めたときだったのかもしれない。

後期の土器は、かなり黒っぽくなる

 中期に比べ、後期のは厳しい環境の中で生きていた。気候が変動し、食糧事情が悪化した。出生率は下がり、死は身近だったはずだ。
 人々は分散して普段は暮らし、特別な祭祀の時期に見晴らしの良い台地状の地に集まり暮らしたのではなかろうか。そこには、ヒエラルキーはなく自発的に集まった人々による神殿が作られる。

 国家が当たり前となっている現代人には想像しづらい、ある意味新しい社会の形がここにはあったのだ。

小規模なストーンサークルがあった

 苦しい暮らしの中で、自然への祈りの機会が増えていったのだろう。
 月に祈り、星に願い、この世に命を送り込もうとする。縄文後期の人々は、生と死をめぐる祭祀をいっそう切実なものとして、月の女神に向かって祈りを捧げた。

 ストーンサークルは、未だその用途がはっきりとしないが、環状に並べられた石は、天体の動きと対応していたとも言われる。見晴らしの良いこの地で、天体の運行を読みながら、命の再生を願う祭りがここで行われていたのではないかと思う。

川と海が作った景色と文化 村上城跡と鮭

 朝日の里を出て、村上市街へ戻り、村上城跡(臥牛山)へ登った。麓にある駐車場に車を停め、20分ほどで天守台のある見晴らしの良い場所に出る。村上の町並みと日本海が一望できる絶景だ。

村上城跡は、国指定史跡

 本丸・二の丸・三の丸の石垣や天守台が良好に残り、山麓には外郭土塁や下渡門跡も確認できる。中世の竪堀や曲輪跡と、江戸期の石垣が同じ場所に残る姿は全国的にも貴重であり、中世の山城と近世城郭が融合した史跡として評価されている。

先ほどまでいた縄文朝日の里を望む
よく残る城壁・石垣
石積みが整然としているので江戸期のものか
天守付近の石垣

 城跡に登ると、村上の町並みが一望でき、そしてその奥には日本海が広がっていた。山の上から見ると、川がどこへ向かって流れているか、港がどこに開いているか、はっきりわかる。
 山裾を流れる三面川は、先ほどまでいた朝日の集落から続いている。この川の流れがこのまちの歴史・文化をつくってきたのだ。

村上城の上から眺める三面川と村上の町並み

 冒頭に書いた塩引き鮭は、まさにこの三面川の文化と歴史の産物だ。
 村上の町屋では江戸以来の文化が残り、鮭を使った塩引きづくりが今も続いている。あの暗い空間と強烈な匂いは、この土地が紡いできた歴史と文化の臭いでもあるのだ。

圧巻の鮭! 鮭が取れると入れ替えるので一年間こうして干し続けるそうだ

 村上の町を歩いた。村上は町おこしの成功例として有名だが、その立役者となったのが「千年鮭きっかわ」。
 ここで購入した塩引き鮭は家族にも好評で、非常に滋味深い味わいだった。

平安時代に都への献上品として記録が残る
雰囲気を残す風情ある町屋もみどころ

水にしたがって生きてきた人々

 村上には、ほかにも瀬波温泉と、天磐船伝説が残る石船神社がある。

 主祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)。
 天磐船に乗って天降ったとされる神で、物部氏の祖神でもある。
 岩船という地名そのものが、この伝承に由来するという。天磐船とは、神の世界と人間の世界を往来するための乗り物だ。

 蘇我氏との争いに敗れた物部氏の一族がこの地に根を張り、祖神を祀ったのではないかという説がある。出雲から北へ、海流に乗ってやってきた人々がいたのだろう。それがこの地方の伝承のなかにひそかに刻まれているのだ。

岩船神社の祭神 ニギハヤヒよりも古層の神を感じる古峯大神がひっそりと祭られていた

 神社のある明神山は、海岸にせり出した丸い山だ。
 奈良盆地の天香具山に似た形をしているとも言われ、海から見たときに特徴的な山であったのだろう。そこに神が宿るという感覚、そして海の彼方から船でやってきた神、その物語がこの場所で重なり合っているのだと思う。

海に向かって立つ鳥居が象徴的だ

 信州から、川を辿って新潟、越の国に入り、そこから北上して入った下越。ここは、川と海が人と文化を運んだ。
 そこには、驚くほど海の記憶が刻まれている。  
 城の山古墳の舟形木棺、村上の鮭、石船神社の天磐船伝説・・・
 縄文時代から、人々は海と川を使って交流し、命をつないできた。山の上での祈りは、やがて各地の集落に届けられ、新たな生きる希望へと繋がっていった。
 そして、時代は下り大和朝廷の時代になって、新しい文化が流れ込み、日本神話に接続するような物語も生まれてきた。

村上城跡天守付近よりの眺め

 水の流れとともに辿ってきた、古き神々とその信仰を訪ねる旅は、折り返し地点に来た。明日は新潟市内を巡り、そして長岡市に戻る予定だ。

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