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【聖なる経済学】 文明の危機

訳者コメント:
トランプ政権が暴走しています。これまで影に隠れてやってきた政権転覆工作と植民地化を臆面もなく正面からゴリ押ししています。ディープステート(闇の政府)と闘うと豪語していたトランプが、逆にディープステートを表の世界に解き放ってしまったかのようです。歴史を振り返ってみれば、資本主義が危機に陥るたびに、戦争と植民地化によって経済成長を維持して資本主義の延命が図られてきたのです。日本での庶民の暮らしは第二次大戦の敗戦によって大きな打撃を受けました。戦前戦中に持っていた資産は没収されたり紙切れ同然になりました。私の祖父は農業を営む小地主だったのですが、農地解放で大半の土地を失いました。人の一生の中で一度ぐらいは、このような経済の大変動を覚悟すべきなのだと思います。それでも人々の暮らしは続いてきました。経済が崩壊したところにコミュニティーが復活するという逆説があります。金塊を蓄えたところで経済崩壊を生き残れるわけではありません。今、こんな世の中だからこそ、チャールズ・アイゼンスタインの『聖なる経済学』を読んでみたいと思います。この章は、『人類の上昇』からの連続性が強く感じられます。


第7章:文明の危機

家は大きくなったが家族は小さくなり、
便利は増したが時間は減った。
学位は増えたが感覚は低下し、
知識は増えたが判断力は減り、
専門家は増えたが問題は増え
薬は増えたが健康は減った。
月まで行き来できるのに
通りを横切って隣人に挨拶さえできない。
かつてないほど多くのコンピューターでコピーを保存したが
本当のコミュニケーションは減り、
私たちは量に長けているが、
質には欠けている。
ファストフードの時代だが消化は遅く、
背丈は高いが人格は低く、
利益は急増するが人間関係は浅い。
窓辺は飾り物でいっぱいだが
部屋の中身は空っぽだ。

(ボブ・ムーアヘッド)

いま私たちが直面している金融危機は、もはや金銭に転換できる社会・文化・自然・魂の資本がほとんど残っていないという事実から生じています。何世紀にもわたりほぼ途切れることなく創り続けられてきた貨幣のおかげで、私たちはここまで貧しくなり、売るべきものは何も残っていません。森林は修復不能なほど傷つき、土壌は枯渇して海へと流され、魚は獲り尽くされ、地球が廃棄物を再生する能力は限界に達しています。歌や物語、画像や象徴といった文化の財産は略奪され著作権で囲い込まれました。あなたが思いつく限りの巧みな文句はもうスローガンとして商標登録されています。私たちの人間関係や能力さえも奪い取られて、逆に売りつけられたので、私たちは今や見知らぬ人々に依存し、お金に依存するようになり、つい最近までお金を払う人などほとんどいなかったようなものまで買うようになりました。食べ物、住まい、衣服、娯楽、育児、調理。人生そのものが消費財になってしまったのです。

いま私たちは神から授かった最後の遺産、つまり健康、生物圏、ゲノム、そして自らの心さえも売り払っています。ピタゴラスの「万物は数なり」という格言はほぼ現実となり、世界はお金へと転換されたのです。これこそが、現代において頂点に達しつつある流れであり、特にアメリカや「先進国」ではほぼ完了しています。「発展途上国」(このような用語には、私たちの経済制度こそ私たち以外の社会が目標にすべきものだという決め付けがある点に注目してください)には、自然と社会の富が未だ所有の対象とならない贈与ギフト文化の中で実質的に生きる人々が残っています。グローバリゼーションとは、こうした資産を剥ぎ取り、金融マシーンの飽くなき成長という、その存在の根幹に関わる欲求を満たすプロセスなのです。しかし他国からの資源の収奪も限界に突き当たりつつある原因は、奪い取るようなものがほとんど残っていないことと、うまく抵抗する地域が増えていることの両方にあります。

その結果、貨幣供給量と、それに対応する債務の量は、それが約束する商品やサービスの生産量を、数十年にわたり上回ってきました。これは古典派経済学における過剰生産能力の問題と深く関係しています。資本のマルクス的危機、つまり成熟産業における利潤低下、賃金低下、消費低迷、過剰生産という悪循環を先送りするため、高い利潤が見込める新たな産業と市場を絶えず開拓しなければなりません。私たちが知る資本主義を継続できるかどうかは、こうした新産業が無限に供給されることにかかっていて、そのためには本質的に、社会・自然・文化・魂の資本の新たな領域を際限なくお金に換えなければなりません。問題なのは、これらの資源には限りがあり、枯渇に近づくほどその採取が苦痛を伴うものになることです。そのため、金融危機と並行して生態系の危機と健康の危機が生じているのです。これらは互いに密接に関連しています。地球の資源も、私たちの健康も、もうこれ以上お金に換え続けることはできません。さもないと、生命の基盤そのものが脅かされることになります。

ある古代中国の神話が、今起きていることを解き明かす手がかりとなります。伝承によれば、かつて饕餮とうてつ(タオティエ)と呼ばれる怪物がいて、飽くことのない食欲を持っていました。周囲のあらゆる生物を食い尽くし、やがて大地そのものまで貪り食いましたが、それでも飢えは収まりませんでした。そこでとうとう自分の身に食らいつき、腕も脚も胴体もむさぼり食って、しまいに頭だけが残ったのです。

頭は体なしでは生きられません。金融資本はそれが消費する金銭化されていない共有財の枯渇に直面して、自らの体、つまり本来奉仕すべき産業経済を食い尽くす道を選びました。商品とサービスの生産からの収入が債務の返済に足りなければ、債権者は代わりに資産を差し押さえます。これが米国経済と世界経済のどちらにも起きたことです。例えば、住宅ローンはもともと20%の自己資金から始めて無担保で自宅を所有する道筋でした。今日では実際にローンの完済を夢見る人はほとんどおらず、望めるのは延々と借り換えを続けること、つまり実質的には銀行から家を借り続けることだけです。世界的に見ても、第三世界諸国は同じような状況に陥っていて、国際通貨基金(IMF)の財政緊縮政策の下で国家資産を売却し、社会サービスを切り崩すことを強いられます。あなたが自らの生産的労働の全てを債務返済に捧げていると感じるのと同じように、国の経済全体が対外債務返済のための商品生産に向けられているのです。

IMFの財政緊縮策は、裁判所が命じる債務返済計画にあらゆる点で似ています。彼らはこう言います。「お前たちはもっと少ない収入でやりくりし、もっと懸命に働き、収入のもっと多くを債務返済に充てねばならないのだ。お前が所有する全てを私に渡し、将来の収入の全てを私に差し出すのだ。」労働者の年金、教師の給与、鉱物資源、石油。これら全てが債務返済に充てられます。皮肉なのは、長期的には緊縮策が債権者にも利益とならないことです。消費と需要を減らし、企業の投資機会を阻害することで経済成長を抑制します。雇用は消え、商品価格は下落し、債務を負った人々や国家はこれまで以上に返済能力を失っていきます。

金銭的利害には短期的な視野しかないので緊縮財政が好まれますが、その理由は、その中で債務者が言わされるのは本質的に「私たちの労働と資源をもっと多く債務返済に充てる」ということだからです。これにより、返済不能な債務がほんの少しの間だけ延命されます。欧州と南北アメリカ各国のあらゆる政府機関は、年金を削減し、社会サービスの民営化に合意して、債券保有者への支払いを保証しようとしています。債券市場と財政赤字という論理の中では、財政により大きな責任を求める主張を否定することはできません。しかしその論理を外から見るなら馬鹿げたものです。科学技術と生産性はこれまで通り進歩を続けている。我々はこれまで以上に幸福で、医療は充実し、社会事業とインフラ維持は順調で、余暇を楽しんでいるはずだ。ところが、単なる数字と、単なるデータの解釈によって、私たちはその反対を強いられるのです。

最終的に債務者は可処分所得と差し押さえ可能な資産を使い果たします。いま進行しつつある崩壊は本来なら何年も前に起きているはずでしたが、様々な偽装や水増し資産を作り出して延命を図りながら、金融という饕餮とうてつが自らを食い尽くし、借金を借金で賄ってきたのです。この建造物を補強しようとする努力が成功し得ないのは、成長の継続が必須である以上、全ての債務に利息が発生するからです。それでも金融当局は試みを続けます。「金融システムを救済する」という言葉を耳にしたら、心の中で「帳簿上の債務を維持する」と言い換えてください。当局が探しているのは、あなたが(そして債務国も)支払いを続け、債務を膨張させ続ける方法です。債務のピラミッドが永遠に成長を続けられないのは、最終的に債務者の資産が全て枯渇し、可処分所得の全てが債務返済に充てられた後、債権者が債務者に返済資金を貸し出す以外に選択肢はなくなるからです。やがて未払い残高が膨大になり、利息を払うためにさえ借金せざるを得なくなります。つまり、債務者から債権者への資金の流れが完全に停止するのです。これが最終段階であり、通常は短期間で終わりますが、現代ではウォール街の金融「魔術」によって延命されています。融資やそれに基づく金融派生商品デリバティブは価値を失い始め、その結果として債務デフレが起きます。

本質的に、差し迫った金融危機と文明のより深い成長危機は二つの点で結びついています。利子に基づく債務貨幣は経済成長を強制し、債務危機は成長が鈍化するたびに現れる症状なのです。

現在の危機は1930年代に始まった流れの最終段階です。金利に合わせて膨張する貨幣に歩調を合わせるという根本的問題に対し、次々と解決策が適用され、もう万策は尽きました。最初に効果を上げた解決策は戦争で、1940年以来これが常態化しています。幸か不幸か、核兵器の登場と人類の意識変化が止めどない軍事的激化という解決策に制限をかけました。大国間の戦争はもはや不可能です。その他の解決策は、グローバル化、これまで商品化されていなかった人間の機能を技術で代替する新商品やサービスの開発、かつては手出しできなかった天然資源を技術により略奪、そして最終的には金融が自分自身を共食いするという状況でしたが、これらも同じように行き着くところまで行きました。私が思いもしないような富の領域が存在し、私たちの貧困・悲惨・疎外を新たな深みへと突き落とすのでなければ、避けられない結末をこれ以上先延ばしにすることはできません。

現在の経済的苦境の原因とされる信用バブルは、根本原因ではなく単なる症状に過ぎませんでした。1970年代初頭に資本投資の収益率が低下し始めると、資本は拡大を維持する新たな手段を必死に模索し始めました。1970年代後半の商品バブル、1980年代の貯蓄貸付組合(S&L)の不動産投資バブル、1990年代のインターネット関連株バブル、2000年代の不動産・金融派生商品バブルがそれぞれ崩壊するたびに、資本は即座に次のバブルへと乗り移り、景気拡大という幻想を維持しましたが、実体経済は停滞していました。生産能力の過剰を吸収するだけの需要は存在せず、換金できる社会資本や自然資本も枯渇しつつありました。

貨幣の指数関数的成長を維持するには、商品とサービスの量がそれに追いつくか、帝国主義と戦争を無限に拡大できるかのいずれかが必要ですが、いずれも限界に達していて、もう逃げ場はありません。

今日、自然を商品に転換し、人間関係をサービスに転換する能力の行き詰まりは、一時的なものではありません。転換できるものはほとんど残っていません。技術が進歩し工業的手法を改良したところで、海からより多くの魚を獲ることはできません。魚はもうほとんどいなくなってしまいました。木材の伐採量を増やすこともできません。森林はもう限界まで搾取されています。より多くの石油を汲み上げることもできません。埋蔵量はもうすぐ枯渇します。サービス部門を拡大することもできません。お金を支払わず互いに行うようなことはもうほとんどありません。従来の意味での経済成長、つまり生命と世界をお金に転換する余地は、もう存在しません。したがって、たとえ左派のもっと急進的な政策提案に従い、債務免除と所得再分配によって新たな経済成長を喚起しようとしても、自然と文化とコミュニティという神聖な遺産を使い果たすだけでしょう。

成長の生態学的な限界が経済学者の間である程度注目されはしましたが、社会的な限界を理解した人はほとんどいませんでした。それを認識していた一人がロバート・ゴードンで、『アメリカ経済成長の盛衰:南北戦争以後の米国生活水準』の著者です。彼が主張するのは、19世紀後半から20世紀の技術的ブレークスルーが可能にした生産性の著しい向上は、二度と起こりそうにないということです。最近のデジタル革命も同じだと彼はいいます。家電製品、自動車、セントラルヒーティング、上水道、エレベーター、エアコン、飛行機旅行、電気通信などのおかげで、膨大な生産的労働が解き放たれ(それに加えて圧倒的な大量消費が可能になり)ました。しかし、このような生産と消費の増大は頭打ちになりました。1900年のアメリカで自家用車を持っている人はほとんどいませんでしたが、1970年代までにほとんどの家庭が2台を所有していました。その増加率はもはや頭打ちで、実際1人1台以上の車を必要とする人はほとんどいないのです。

ローマ時代から1800年まで、人間が移動できる最高速度はまったく変化しませんでした。それからほとんどの地域で、鉄道と自動車によって5倍になり、航空機によって再び5倍になりましたが、1950年以来ほとんど増加していません。さらに言えば、総移動距離の増加も頭打ちになるはずですが、これは生態学的な理由だけでなく、移動の限界効用が逓減ていげんしたことによります。

同じように、洗濯機やテレビが(ある見方では)大きな生活改善だったとしても、3台の洗濯機や5台のテレビを所有するメリットはほとんどありません。ゴードンによれば、基本的な問題の解決は一度限りでいいのです。数を増やしたところで得られる社会的資本はもうないのです。

経済成長鈍化の最後の要因は、人口増加の成長が鈍化し、間もなく(30年ほどで)減少に転じるだけでなく、これに先立って高齢化が起きることです。このことについては本書の後半で詳しく述べます。ここでの要点は、成長鈍化の結果である現在の危機は、生態系と社会の全体に内在する要因から生じていることです。この問題は今日広く言われているよりもはるかに深刻です。金融専門誌に掲載された典型的な事例を考えてみましょう。

「〔ポール・〕ボルカーは正しい。債務担保証券(CDO)、抵当付不動産担保証券(CMBS)など、コンピューターが生み出した複雑な金融商品やおもちゃは、経済における基本的なニーズへの解決策ではなく、ウォール街の満たされぬ貪欲への解決策であった。これらが存在しなければ、銀行は資本と人材を企業や消費者の真のニーズに応えるために注ぎ続けるしかなく、危機も暴落も不況も起きなかっただろう。」[1]

ここに書かれているのは、債務担保証券(CDO)などが単なる症状に過ぎず、より深い問題の最も表面的なレベルを説明しているに過ぎないことです。より深い問題とは、銀行が資本を投じることのできる「真のニーズ」が不足していたことであり、その理由は、金利を上回る利益を生み出すニーズだけが、融資の正当な機会であるからです。過剰生産に悩まされる経済で、こうした機会は稀です。そこで金融業界は数当てナンバーズ賭博に走りました。CDOなどは金融危機の症状であって原因ではありません。その危機は経済成長が金利に追いつけないことから始まっていたのです。

様々な評論家が指摘するように、バーナード・マドフの出資金詐欺は、不動産担保付き金融派生商品などが作る金融業界のネズミ講と本質的に変わりません。それ自体がバブルを形成しており、マドフの詐欺商法と同じように、絶えることのない、実際には指数関数的に増加する新規資金の流入によってしか維持できないものでした。その点で、これは現代を象徴する存在であり、人々が思う以上に深い意味を持っています。持続不可能なネズミ講はウォール街のカジノ経済だけではありません。より広い経済システムもまた、有限の富を永遠に貨幣へと転換する仕組みに基づいていて、持続不可能なのです。それはまるで、利用可能な燃料が尽きるまで、どんどん高く燃え上がるよう定められた焚き火のようなものです。燃料の供給が有限なのに、火の燃え上がる高さが永遠に増し続けると考えるのは愚か者だけです。この比喩を拡張すれば、最近の経済における脱工業化と金融化は、熱を利用してより多くの燃料を生み出す行為に等しいものです。熱力学第二法則によれば、生み出される量はそのために消費される量より常に少ないのです。明らかに、以前の債務の元本と利息を支払うために新たな資金を借り入れる行為は長続きできるものではありませんが、それこそが経済全体が減速する中で行われてきたことなのです。

しかしこの愚行を捨て去ったとしても、私たちは依然として燃料の枯渇に直面せざるを得ません(ここで言う燃料とは、文字通りのエネルギー源ではなく、商品化可能なあらゆる自然や文化の絆を指すということを思い出してください)。現在の経済危機に対処する提案の大半は、結局のところより多くの燃料を見つけることに尽きます。もっと多くの油井ゆせいを掘ることであれ、もっと多くの緑地をつぶして舗装することであれ、消費支出の促進であれ、その目的は経済成長を再燃させること、つまり商品とサービスの領域を拡大することにあります。それは私たちがお金を払う新たな対象を見つけるということです。現在、私たちの先祖には想像もできなかったことでしょうけれど、水や歌にさえもお金を払っています。お金に転換できるものは、他に何が残っているでしょうか。

私の知る限り、この根本的問題と貨幣制度との関連性を最初に認識した経済学者は、ノーベル賞受賞者であり核化学の先駆者であるフレデリック・ソディです。彼は1920年代に経済学へと関心を移しました。ソディは無限の指数関数的経済成長というイデオロギーを最初に疑問視した一人であり、トマス・マルサスの論法を人口問題から経済学へと拡張しました。ハーマン・デイリーはソディの見解を簡潔にこう述べています。

人々が相互の負債関係から生じる利子だけで生きていけるという考えは…単なる永久機関の構想に過ぎない。これはつまり、壮大なスケールで繰り広げられる粗野な妄想だ。ソディは、社会全体にとって明らかに不可能なこと、すなわち全員が利子で生計を立てることは、公平性の原則として個人にも禁じられるべきだと主張しているようだ。もしそれが禁止されない、あるいは何らかの形で制限されないならば、いずれ限られた収入に対する債権者の抵当権が、将来の生産者が支えようとする、あるいは支えられる能力を超える水準に達し、衝突が生じるだろう。この衝突は債務不履行という形で現れる。債務は複利で増大するが、純粋に数学的な量なので、これを減速するような限界はない。しばらくは富も複利で増大するが、物理的次元を持つため、その成長は遅かれ早かれ限界に直面する。[2]

経済成長と資源消費のこの関連は、特にピークオイル理論家たちの間で今日広く共有されていて、石油生産が「長期低落」を開始したら経済が崩壊すると予測します。彼らを批判する人々が主張するのは、技術革新、小型化、効率改善などによって、エネルギー使用量とは独立して経済成長が可能であるし、実際に起こり得るということです。1960年以降、米国の経済成長はエネルギー使用量を上回り、この傾向は1980年代に加速しました。(図1参照)ドイツはさらに顕著で、1991年以降の著しい経済成長にもかかわらずエネルギー使用量はほぼ横ばいです。しかしこの反論は、より大きな論点を浮き彫りにしているに過ぎません。確かに、経済成長の維持は共有資源の消費をある部分から別の部分へ移し替えることで可能になります。例えば石油の代わりにガスを燃やす、たら漁業の代わりに人的サービスや知的財産を商品化するといった形です。しかし社会・自然・文化・魂の共有資源の総体として合計すれば、ピークオイル論の基本的な主張は依然として有効です。私たちが直面しているのはピークオイルではなく、あらゆるもののピーク、「ピーク・エブリシング」なのです。

2008年に金融危機が襲ったとき、政府の最初の対応である銀行救済措置と金融刺激策によって、債務に債務を重ねた塔を支えようとしましたが、それは実体経済の基盤をはるかに超えたものでした。したがって、その表向きの成功は一時的なものであり、避けられない結末を先送りするに過ぎず、ウォール街の一部が呼ぶように「ごまかしと延命」だったのです。もう一つの対応である景気刺激策は、より深い理由から失敗に終わる運命にあります。失敗する理由は私たちが「限度に達している」からです。文明の生態学的基盤を破壊せずに廃棄物を受け入れる自然の容量は限度に達しています。コミュニティとつながりの喪失に耐える社会の能力は限度に達しています。森林がさらなる皆伐に耐える能力は限度に達しています。枯渇し毒された世界で人間の身体が生存する能力は限度に達しています。私たちの信用も限度に達しているということは、もはやお金に転換できるものが何も残っていないことを示しているに過ぎません。本当に道路や橋がもっと必要なのでしょうか[3]。その道路や橋や、それに伴う産業経済をこれ以上維持できるのでしょうか。政府の景気刺激策は現在の経済システムを延命させ、沈滞気味の成長を2、3年なんとか絞り出しながら、自然や魂、身体、文化を略奪し尽くしてきました。こうした共有財の痕跡が消え去ったなら、貨幣システムの〈大崩壊〉を食い止められるものは何もありません。

この崩壊の詳細や時期を予測することは不可能ですが、私たちがまず経験するのは持続的なデフレ、停滞、富の二極化で、その後に社会不安、ハイパーインフレ、あるいは通貨崩壊が起きるでしょう。機能不全が深刻化するほど、本書で探る代替案はより魅力的なものとなります。

差し迫る危機を前に、人々はしばしば自分を守るために何ができるかと問います。「きんを買おうか。缶詰を買いだめしようか。僻地に要塞を築こうか。どうすべきだろう?」私は違う種類の問いを提案したいと思います。「私ができる最も美しいことは何でしょうか?」お分かりのように、迫り来る危機は途方もない機会をもたらします。デフレ、つまり貨幣の破壊が絶対的な悪であるのは、貨幣の創造が絶対的な善である場合に限られます。しかし、私が挙げた例から明らかなように、貨幣の創造は様々な方法で私たち皆を貧しくしてきました。反対に、貨幣の破壊は私たちを豊かにする可能性を秘めています。それは失われた共有財の断片を貨幣と所有の領域から取り戻す機会をもたらすのです。

不況が訪れるたび、これが繰り返されるのを目にします。人々は様々な商品やサービスを購入できなくなり、代わりに友人や隣人に頼らざるを得なくなります。取引を促進するお金のない所では、贈与ギフト経済が再び出現し、新たな種類のお金が生まれます。しかし通常、個人や組織はきるだけ長く古いやり方にしがみ付こうとします。経済危機への習慣的な最初の反応は、より多くのお金を作り出して維持すること、つまり、あらゆるものをお金に転換するプロセスをさらに加速させることです。全体的なレベルでは、債務の急増によって共有財の商品化を拡大する強大な圧力が発生します。アラスカでの石油掘削や深海油田掘削の開始を求める声などに、この動きが見て取れます。しかし今こそ、逆のプロセスを本格的に始める時です。物事を商品とサービスの領域から引き離し、ギフト・相互扶助・自給自足・コミュニティ共有の領域へと戻すのです。通貨崩壊の余波で人々が職を失い、物を買う余裕すらなくなる時、これは意識しなくとも起こります。崩壊が深刻なものなら、本物のコミュニティが再び出現するかもしれません。でも崩壊を待つ必要があるでしょうか。この通常なら無意識の流れを、私たちは意識的に開始し、世界がどんなもので有りうるかというビジョンを示し、実際にやってみせることができるのです。

あなたが自分自身の将来の安全を最も重視しているとしても、コミュニティは最良の投資先でしょう。金融システムが崩壊すれば、ほとんどの投資は単なる紙切れや電子データに成り下がります。それらが価値を持つのは、社会的合意の網の目がそれらを包含し解釈するからです。事態が本当に悪化したなら、きんという物質でさえほとんど安全保障にはなりません。極度の危機が訪れると、政府は通常、民間が保有する金を没収します。ヒトラー、レーニン、ルーズベルトも皆そうしたのです。そもそも政府が崩壊すれば、銃を持った者たちがやってきて、あなたの金やその他の富の蓄えを奪い取るでしょう。

私は自由主義のサイトを時々読んでいます。その見解によれば、金地金きんじがねなど現物商品以外の資産は今や安全ではないといいます。この論理にはある程度同意しますが、それでは不十分です。金融制度が破綻して通貨崩壊に至れば、貨幣と同じく社会的慣習である所有の制度も崩壊するでしょう。社会が混乱する時代に、数百オンス〔数キログラム〕の金を所有することほど危険なことはないでしょう。本当の安全はコミュニティにしかありません。あなたの周りの人々の感謝と繋がりと支援の中にしかないのです。今あなたが富を持っているなら、私は投資アドバイザーとして、あなたの周りの人々を末永く豊かにするためにその富を使うことをお勧めします。

今のところ、現在のシステムが崩壊するまでの間、自然資源や社会資源を換金されないよう守るためのあらゆる行動は、崩壊を早めると同時にその深刻さを和らげるでしょう。あなたが開発から守った森、建設を止めた道路、設立した協同保育所。自らを癒す方法、家を建てる方法、料理を作る方法、衣服を作る方法をあなたから教わった人。あなたが公共の領域に作り出し追加した富。世界を貪る金融マシーンからあなたがしりぞけ守ったもの一つ一つが、金融マシーンの死を早める助けとなります。そして貨幣制度が崩壊した時、もしあなたの生活必需品や楽しみの一部でも貨幣への依存から解き放たれていたら、貨幣崩壊による移行はあなたにとってそれほど過酷なものではなくなります。これは社会のレベルでも同じです。生物多様性であれ肥沃な土壌であれ清浄な水であれ、あらゆる自然の富、そして共同体や社会制度のうちでも生命をお金に換える手段でないものはすべて、お金の後の生活を支え豊かにするでしょう。私たちが守り修復したものが十分に多ければ、「崩壊」を崩壊と感じることはなく、ただ変容と受け止められるでしょう。

「お金の後の生活」と言うとき、それは私たちの知っているお金のことです。本書ではこの後、善きもの、真実なるもの、美しきものすべてがお金に転換されていく流れを強いることのない貨幣制度について述べていきます。それは現在支配的なものとは根本的に異なる人間の自己認識、根本的に異なる自己観を実現します。私の分が増えればあなたの分は減る、という法則はもはや真実ではありません。個人のレベルで、私たちが実現できる最も深遠な革命とは、自己認識、すなわちアイデンティティにおける革命です。デカルトとアダム・スミスがいう個別ばらばらの自己はその役割を終え、廃れつつあります。私たちは互いから、そして生命の総体から切り離せないということを自覚しつつあります。高利貸しをすることはこの一体性を否定します。なぜならそれは、切り離された自己の拡大を求め、外部にある何か、つまり他者を犠牲にするからです。おそらくこの本をお読みの誰もが同意なさると思いますが、この世界はみな相互に連関し合っているのであり、魂の視点でも生態学の視点でもそうなのです。今こそそれを実践する時です。この世界に分断のないことの感覚的理解を具体化する「ギフト精神」へと踏み込む時です。あなたにとっての不利が、私にとっても不利であることを、(あらゆる次元において)今や明白に認識せざるを得ないのです。永遠の成長というイデオロギーは、私たちを息も絶え絶えの極貧状態へと追いやりました。そのイデオロギーと、その上に築かれた文明こそが、今まさに崩壊しつつあるのです。

崩壊に抵抗したり先延ばしにするのは、事態をさらに悪化させるだけです。経済成長の新たな道を探るのは、残された富を消耗させるだけです。人間性の革命に抵抗するのをやめましょう。いま展開している複数の危機を乗り切りたければ、その中で「生き延びよう」としてはなりません。それは分断という物の見方です。それは抵抗であり、死にゆく過去にしがみつく行為です。そうではなく、再合一へと視点を移し、私たちが何を与えることができるかという観点から考えましょう。より美しい世界のために、私たち一人ひとりは何を貢献できるでしょうか。それが私たちの唯一の責任であり、唯一の安全保障なのです。

このテーマ、つまり正しい生き方と正しい投資については、本書の後半で展開します。崩壊する経済の中で無意識に行われる貨幣破壊ではなく、私たちは意識的かつ意図的な貨幣破壊を実践できるのです。もし投資する資金が残っているなら、コミュニティ作り・自然保護・文化的共有財の保全を明確に目指す事業に投資することです。投資利益がゼロかマイナスになることを覚悟してください。それは、世界をますます金銭へと転換する意図しない行為を避けているあかしです。投資の資金があってもなくても、売り払われたものを取り戻すために貨幣経済から一歩離れることは可能です。自らのため、他者のために、何かをお金を払わないでする方法を学ぶこと。再生材や廃棄物を活用すること。購入せず自ら作り、販売せず自ら与えること。新たな技能、新たな歌、新たな芸術を独学したり他者に教えること。これら全てが貨幣の支配を弱め、来るべき変革期を生き抜くための贈与ギフト経済を育みます。原始的な贈与社会、生態系の網の目、そして古来の精神的な教えを反映した「贈与ギフト」の世界が、今まさに私たちの目前に迫っています。それが私たちの心の琴線に触れ、寛大さを呼び覚まします。地球の美しさが残っているうちに、その呼び声に応えようではありませんか。


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注:
1. ドン・コックス(Coxe, Don).「Financial Heroin(経済のヘロイン)」p. 13.〔訳註:ポール・ボルカーはアメリカの経済学者。1979〜1987年に邦準備制度理事会(FRB)議長を務めた。〕
2. ハーマン・デイリー(Daly, Herman).「The Economic Thought of Frederick Soddy(フレデリック・ソディの経済思想)」 p. 475.
3. 第三世界諸国は生活水準向上のために道路や橋梁をもっと必要としていると言う者もいるでしょう。しかし、世界銀行の投資の典型である大規模インフラ事業は、かつて自立していた経済をグローバル商品経済に統合する鍵であることを考慮すべきです。おそらく彼らが必要としているのは、より多くの道路や橋ではありません。おそらく彼らが必要としているのは、道路や橋が媒介するグローバル商品経済の略奪から身を守る手段なのです。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-7-the-crisis-of-civilization/


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