白人至上主義の宴(2) チャールズ・アイゼンスタイン
訳者より:白人至上主義は必ずしも白い肌の人々だけが陥る罠ではありません。脱亜入欧を目指した明治の日本人は、西洋文化に圧倒されるような劣等感を抱き、それを裏返すように植民地支配を進めていきました。第二次大戦の敗北が呼び覚ました強烈な劣等感が高度経済成長と技術立国への道を選ばせました。しかし経済大国の地位が揺らぐと同時に旧植民地諸国へのヘイトスピーチが噴出します。劣等感と優越感のコンプレックスに、どうやら日本人の心理は支配されているようです。チャールズ・アイゼンスタインの2020年のエッセイ日本語訳、今回は第2部です。(第1部はこちら。)
存在論的帝国主義
このどれも、現代医学が伝統文化に提供できるものは何もないということではありません。たしかに、イマニュエル医師自身が医学校で学び、テキサス州で医師として開業し、推奨するのは3種類の近代医薬物質の組み合わせです。多数の現実や多数の神話の中で活動するこのような能力は、非近代心理の中心となる特徴です。それと対照的なのが「白人」文化の存在論的支配で、他の全ての人に白人文化が何であるかを伝え、他の知識体系を排除するか、迷信として切り捨てるか、人類学の研究対象として許容するか、二級品の比喩的な真実と位置づけるか、「先住民の智慧」という微妙に上から目線のカテゴリーに入れて崇拝します。
ここで「白人」をカギ括弧に入れたのは、サーミなど色白の先住民の人なら誰でも分かるように、肌の色とは偶然の関係があっただけだからです。しかしここには〈ホワイトウォッシング〉[白人化すること、あるいは上辺を糊塗すること]の感じもあって、単一の均質化パラダイムという淡い色で全世界を塗りつぶします。さらに、近代という神話を最高度に発展させ全世界に広めたのが、偶然にも白い肌の文化だったのです。キリスト教の伝道者が前例を作り、経済と科学の布教者がそれに続きました。
ですから、ここに流れている存在論的帝国主義には2つのレベルがあります。一つ目は単に「我々が正しくて、お前たちは間違っている」というものです。二つ目の、もっと微妙なレベルは、「正しいのは私たちとあなた達のどちらか一方だけだろう。なぜなら私たちの物の見方とは矛盾しているからだ。これは二者択一だ」というものです。でもヒンドゥー教徒なら、地球は亀の背に載っているのだが、隕石が降着して出来たのでもあると言って、何の問題もないかもしれません。さらに、降着円盤は本当だが亀は比喩なのだというように、一方を他方より真実でない地位に格下げすることもないでしょう。
存在論的支配と他の形の(経済的、政治的)支配の間に、関連があるのが分かりますか? あなたは存在論的支配が習慣になっているので、私にこう問い返したくなるでしょう。「でもチャールズ、悪魔とのセックスで〈実際に〉婦人科の病気になるなんて、本当は信じてないんでしょう? 宇宙人や爬虫類のDNAが〈実際に〉医学治療に使われていたり、爬虫類の地球外生命が〈実際に〉政府内に潜入しているなんて、本当は信じてないんでしょう?」多数の神話を次から次へと飛び移るように使いつつ関わることに、私たちは文化として慣れていません。先に挙げた問いでは「実際に」という言葉に存在論的な優越性が刻み込まれています。別のモデル化をするなら、私はこう答えます。ふつう私は、魔女や悪魔、宇宙人、爬虫類という世界の物語には生きていません。ふつう私はそのような言葉で考えません。ふつうとは言えないまでも多少は、「脾臓の気」や「風の熱」といった言葉で考えます。でもこのような世界の物語を見下したり即座に退けたりすることもありません。私は好奇心をもって尊重するという態度を取ります。それらの持つ力とは何で、その限界とは何だろう? そこに住む人は何になるのだろう? 得るものは何で失うものは何だろう? 彼らの言葉で世界を見るのはどんなものだろう? その言葉を話すとどんな考えや感じが湧いてくるだろう? 私はこの同じ問いを、近代の科学と医学への関わりに投げかけます。
このようにして、すべてを均質化する標準的な世界の物語へのこだわりを捨てると、いくつかのメリットが得られます。第一に、現代医学が(それ自体の「力と制限」という構造のために)上手く働かないとき、中医学や近所の有能なブードゥー祈祷師の力を借りることができます。私の人生では3つ全てから確実に恩恵を受けてきました(ほとんどは中医学ですが、一度は悪魔払いにも助けられ、近代の歯科医による緊急治療がなければおそらく死んでいたところだったので、それにも感謝しています)。第二に、「唯一の正しい現実」に縛られなければ、不確実性と変化への恐れが少なくなり、適応性や柔軟性が増し、頼れる手段が増えます。第三に、他の文化、他の世界の物語を持った人々と敬意を持って関わることができ、自分のほうがその人たちより良く知っていると考える、上から目線の人種差別が避けがたく付きまとうことがなくなります。これこそが本当の尊敬です。尊敬とは、別の人々の世界に招き入れられ、彼らの習慣を敬い、言葉を学ぼうとする意志のことです。お互いの文化の宴の席に座り、客人とそれをもてなす主人の精神を私たちが理解するなら、文化の盗用をめぐる現在の激しい議論は、解消するかもしれません。外国に旅行したことがあるなら、現地の言葉を学ぼうとする努力を、どんなに拙いものであっても人々は称賛するという体験をしたかもしれません。尊敬が歓迎への扉を開きます。信念体系の言語についても同じことがいえます。
これを、真実は権力を孕んだ人類文化の構築物にすぎないというポストモダニズム思想を推し進める主張と間違えないでください。世界が亀の背に乗っているというのは真実で、「空飛ぶスパゲッティ怪獣」が世界を創ったというのは真実でないという、不思議な道理というものがあります。真実は発見されたり明かされたりするのであって、作られるのではありません。
もしかすると、「世界の亀」はインドや中国、北米の互いに無関係な数多くの神話に現れるので、真実であるように聞こえるからかもしれません。原初の惑星が隕石の降着で作られたという説については、どのようにして惑星ができるかについて天文学者の間でも意見が大きく異なっています。つまり言っているだけなのです。
今では誰でも私の(もうひどく不正確な)ウィキペディアのページを編集しに行って、「アイゼンスタインは世界が本当に亀の背に乗っていると主張している」と書くことができます。
包摂か消去か?
表向きは人種差別に反対する多くの運動に、私がここで言っている文化的な人種差別がまぎれ込んでいます。自分自身の文化的優越性を完全に信じるなら、人種不平等を解消する方法は、抑圧された人種が平等に成果に有りつけるようにすることです。「開発」し、「近代化」し、テクノロジーの恩恵を世界に届け、医療、教育、農業、経済、政治システムを西洋の姿に似せて作り直す熱心な組織的運動の中に根深く潜むのは、ビクトリア朝時代の「白人の責務」という原則です。覚えておかなければいけないのは、人種的抑圧の最も悪質な行為のいくつかは、未開人の向上、異教徒のキリスト教化という名のもとに行われたことです。たとえば、アメリカ先住民を二世代から三世代にわたって拉致し、寄宿学校に入れ、先住民の言語と文化を意図的に破壊したのは、高潔な理想に満ちた行為だったのです。彼らをアメリカという「人種の坩堝」に入れ、私たちと同じように作り替え、後進的で迷信に満ち劣った文化を近代的で優れた文化で置き換えるという考えでした。
人種差別反対の運動をするとき、(___この空欄を埋めよ:たとえば上位1%のCEO、医師、大学教授…)に有色人種の比率が低いとか、貧困層や拘留中の人に有色人種の比率が高いとかいうことを、大げさに扱いすぎる現在の態度にも同じことが現れています。このような格差が本当の人種差別から、現在あるものと特に過去の人種差別の両方から生じている一方で、それだけに注目するのはもっと深い全体的な不公平を見逃す危険があります。単に肌の色が違う人々を既存の役割と関係の中に加えるのは、現体制にとってそれほど破壊的なことでもないでしょう。そのような役割と関係そのものが、私たちが白人と呼ぶ覇権主義的な文化のマトリックスから出たものです。だからこそ、そのマトリックスを変えられないことが当たり前と思うなら、人種平等が比率の問題なのは確かです。でもそれは白人の独占を打ち破ることでしょうか、それとも自分が白人になることでしょうか? これこそが、ナイジェリア(そう、またしても、《あの》ナイジェリア)の知識人であり詩人、文筆家のバイヨ・アコモラフェが次のように書いて拒絶したものです。「言うまでもないが、我々の命の奥底には絶えざる自己嫌悪が流れており、白人文明の高みに登れと駆り立てる。場違いな日射しの下でも三つ揃いのスーツを着るよう駆り立てる。いつの日かあなた達に追い付くため、我々自身の伝統を悪者扱いするよう駆り立てる。」
ある文化が別の文化を征服した状況では、征服された人々が勝者の側に加わりたいと望むのは、まったく無理もないことです。昔から、保守派は「お気の毒さま、我々は勝ちあなた方は負けたのです」と言い、リベラルは「ああ、私たちは不運な人々に優しくして居場所を与えなければなりません」と言うのが常でした。そのどちらも、現代医学と教育、政治と科学、貨幣と市場を全世界に拡げる勝利そのものが、望ましいかどうかを問うことはありません。
こんなことを言うと、私の持っているものを欲しがるべきではないと、白人が他のみんなに言っているように聞こえるかもしれません。世界全体が現代医学や現代学校教育、経済発展を本当に求めているのに。彼ら自身がそれを欲しいと言っているではないか。何の問題もない。でも疑問視しなければならないのは、この渇望の文脈です。自分の文章の引用をお許し頂けるなら、文化を破壊し私たちのようになりたいと望むようにするやり方について、『人類の上昇』からの一節です。
「外部から消費財を導入して互恵関係のネットワークを破壊せよ。魅惑的な西洋のイメージで自尊心を削げ。布教活動と科学教育で神話を卑しめよ。外部のカリキュラムを使う学校教育を導入して土着の知識を受け継ぐ伝統的な方法を解体せよ。その学校では英語などの国家言語や国際言語で教育して土着の言語を破壊せよ。安い食料を輸入し地域農業が成り立たぬようにして土地との繋がりを切り捨てよ。そうすれば正しいスニーカーを渇望する人民を作り出せるのだ。」
お分かりのように、「彼らがナイキを(つまり近代の生活様式を)欲しがっているのだし、それを持つなと言うのは人種差別だ」という主張は、植民地化のプロセス全体を検討せずに放置します。
これを、医療や食料、権力、金銭の配分に人種不平等があることに対し何もするなという主張と受け取らないでください。それとは反対に、覇権主義的な白人モデルの外側でそのような必要を満たすという問題なのです。また、抑圧された集団にいながら白人の世界で成功しようと努力してきた人々への批判と受け取らないでください。彼らの生き方は状況への自然な反応です。私が言っているのは、人種差別の治癒(と回復)は白人が構築し白人化された世界への包摂よりも、ずっと大きな問題だということです。
「包摂性」は人種差別反対運動の決まり文句ですが、黒人が白人と一緒に世界を破壊し人間を搾取するマシーンの舵取りをするというのでは、人類にとっての勝利とはならないでしょう。これまで「包摂」が消去を意味することがあまりに多く、白人文化が最終的に全世界で勝利をおさめることを黙って認めることを意味しました。人種差別を真の意味で解消するには、支配的な文化の中で以前は隅に追いやられていた人々を寛大に「含める」ということではなく、支配のパターンを完全に終わらせることでしょう。大勢の白人の人々がこのことを直感していて、そのため彼らは自分たちの外の文化に包摂されることを切望するのです。それが文化の盗用に向かうこともある一方で、その憧れは私たちの文化が結局のところ最高ではないかもしれないと認める謙虚さの高まりから来るのかもしれません。
(第3部につづく)
原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/the-banquet-of-whiteness/
【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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