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白人至上主義の宴(3) チャールズ・アイゼンスタイン

訳者より:現代の日本人が「白人文化」の中に生きていることは疑いようがありません。自分たちがアジアで、世界で「指導的」な立場にあると考えていることに、それが現れています。訳者はJICAの海外協力隊に参加した経験がありますが、善意の国際貢献や海外技術援助として日本流のやり方を押し付けても、必ずしも受け入れられて効果を上げるとは限らないという例をいくつも見聞しました。そのような驕りが「白人文化」には含まれていることを、その外側に身を置くことで実感できたのだと思います。そのような上から目線の独善的な押し付けは自分たちの中にも向かうので、コロナ禍に対する社会の反応として、唯一の「科学的」方法だけを推し進めるということにもなったのです。チャールズ・アイゼンスタインの2020年のエッセイ日本語訳、今回で完結です。(第1部第2部はこちら。)


(本文ここから)

同様のことが人種議論のもう一つの決まり文句の「特権」にも当てはまります。特権を議論する人はこう言います。「白人よ、あなたはうたげの席に座っているが他の者たちに席はない。さらに、あなたは他人を貧しくすることから直接利益を得ている。」今のところはその通りですが、この言い方だとその宴が本当に参加する価値のあるものかどうかということを見逃してしまいます。何も疑わずそれが申し分のないごちそうだと考えるなら、正義、公平、進歩が意味するのは、用意されたメニューが現代医学、自由市場、集団教育、新自由主義的な民主主義だけという宴のテーブルに、全員が座れる席を用意することだと、私たちは当然のように思ってしまいます。

ホットドッグとチーズフライ

状況はむしろ次のようなものだと思います。じつはこの宴は大食い大会で、メインディッシュはホットドッグとチーズフライに炭酸飲料です。このシステムの中で、抑圧された人種と階級の人々は宴席の残り物しか与えられません。メニューは同じですが、量は少なめです。彼らが受け取るのは自由主義教育や現代医学、政治的自由、その他もろもろの近代生活の出来損ないです。ホットドッグとチーズフライが大好きな人にきちんと弁明すると、大食い大会を全ての人に広めるというのは本当の解決ではありません。それが当てはまるのは、ホットドッグとチーズフライが有るもの全てという場合だけです。本当は、最高の料理が全部メニューから消し去られているという状況なのです。白人の宴に他の人たち全てを含めることに正義はありません。正義は、そのメニューを他の人たち全員に押しつけるのをやめ、敬意を持って他の一人一人の料理を調べて共有し、共に進化する多様な宴を作り出すことです。

もしホットドッグとチーズフライが有るもの全てなら、それを食べる方が飢えるよりましです。財産の平等がないなら、金持ちになる方が貧しいよりましです。地域共同体による土地所有制度と土地に固有の建築様式がなければ、住宅を買う方がホームレスになるよりましです。社会での振る舞いを調整する地域に根ざした方法がなければ、警察を自分の味方に付ける方がましです。民間医療のしっかりした伝統がなければ、手の届く唯一の医療から締め出されるより健康保険に入る方がましです。強靱な地域自給の食料生産システムがなければ、ホールフーズ自然食品店で買い物をする方がコンビニよりましです。しっかりしたギフトの文化がなければ、お金を持つ方が無一文よりましです。現在の状況では、特権を持っている方が持たないよりましですが、特権の議論は暗黙のうちに特権の価値を高めてしまいます。そうすると、万全の医療保険、十分な資金のある学校、安全な投資資産、味方になってくれる警察、設備の良い近代的な病院、身近に行けるホールフーズ自然食品店のある裕福な郊外居住者の暮らしを良い生活と仮定しますが、それは全員が手にできる場合だけであり、他の人たちが白人の宴に座れるように席を作れる場合だけです。

このような生活を全員に拡げるなら、エコロロジーの観点から持続不可能ですが、問題はそれより深いところにあります。それを全員に拡大するのが社会的にも不可能なのは、誰かの富が必然的に他の人々の貧困に依存しているからです。実際この問題はそれより深いものでもあります。白人の宴には実のところ本物の栄養が何もありません。それは宴会で最も上座に座っている人々の間にも、テーブルの下で捨てられたホットドッグのかけらを奪い合う人々の間にも、鬱や自殺、精神病、依存症、離婚の率が絶え間なく上昇し続けることに現れています。これは本当に私たちが全員に広めようとしている良い生活のビジョンなのでしょうか?

もし世界で最も幸福な人々を見つけたいなら、ビバリーヒルズ[カリフォルニア州ロサンゼルスの西部にある高級住宅地]やハンプトンズ[ニューヨーク州のロングアイランド島の東端にある高級リゾート・住宅地]を探さないことです。その代わりに、ハヅァ族[タンザニア中北部の先住民]やケロ[ペルーのクスコ県に住む先住民]を探すか、ガーナやブータンの村へ行きましょう。人間であることの技術を最も高度に発達させたのは、西洋ではありません。

幸福と同じことが、健康にも当てはまります。「白人の医学」と呼べるようなものが奇跡的な成功を記録し、特に緊急医療では目覚ましい成果がありました。でも全体として、私たちの社会が伝統的な社会より健康になったかどうかは議論が分かれます。増加しているのは精神的・社会的な病だけでなく、慢性の身体疾患も同様で、それらに対して現代医学が症状を緩和できることもありますが、治療法としてはほとんど役に立ちません。自己免疫疾患やアレルギー、代謝異常、そして特に小児慢性疾患はかつて無い水準に達していて、どの社会でも近代化と歩調を合わせるように増加しています。1960年には米国の小児慢性疾患の発症率は1.8%でしたが、現在では50%以上です。

近代性と健康悪化の関連を20世紀初頭に観察したのは歯科医のウェストン・A・プライスで、世界の辺境を回って近代の食生活に触れていない人々の健康状態を記録しました。アウター・ヘブリディーズ[イギリスのスコットランド沖にある島々]からポリネシアまで、イヌイットの村からマサイ族の野営地まで、そのような場所では普通にあった見事な健康状態を、彼は1万5千枚の写真と数え切れないほどの手記にまとめました。32本すべての歯が揃っている堂々とした口蓋に虫歯はほとんど無く、心臓病はなく、安産で、慢性疾患はない、などなど。私たちが普通だと思っている近代病が一般化するのは、近代の食品と生活様式を採り入れたときだけでした。白人の食生活と生活パターンが根を下ろすと、その影響に対処するため白人の医療も必要になりました。(ふたたび「白人」という言葉を使いましたが、攻撃にさらされた文化にはあらゆる肌の人々が含まれていました。)

植民地支配者の食料と習慣に付いて来たのは、植民地支配者の病でした。植民地支配者の宗教と世界観に付いて来たのは、植民地支配者の医療でした。もし私たちの「近代性」が世界の必然的な運命ならば、近代の病も、社会的なものであれ身体的なものであれ、必然となるでしょう。ならば「発展途上国」にとっての進歩とは、そのような病に対処するために発達してきた医療、教育、政治のシステムを途上国に届けることだということになります。

それは、中医学やアフリカの伝統医学を受け入れることが、考え方と生き方のもっと広い変化を伴っていなければならないということでもあります。このどちらも、完全に従来のままの生活にそれだけを付け足したところで、上手く働くことはありません。このため、それらは従来の生活からの分岐点となることが多いのです。

ほとんどの人が持っているメニューを考えるなら、現代生活の現実を考えるなら、病気を緩和ケアで処置するのはずっと良いことです。貧乏人や保険に入っていない人が受けられる医療は、全く無いのですから。その地平の中で特権論争に反論することはできません。しかし、それが当然と見なすのは、まさに打倒しようとしている世界の価値観と前提の大部分です。

何が現実なのか?

善意をもった人種差別反対の活動家が前に説明した存在論的帝国主義に立ち向かおうとする一つの方法として、理性に依らない経験的な「他の知り方」を称賛し、直線的で理性的、証拠に基づいた白人の科学と対比させることがあります。この試みは残念ながら、私が説明した同じ文化的な優越性のコンプレックスを秘かに持ち込んでしまいます。中医学や悪魔払いの下にある信念体系が、非論理的だとか証拠について無知だとかいうことではありません。それらはただ基づいているものが違っていて、別の前提や、変化についての別の理論、別の哲学に基づいているのです。そして、それらは直線的な論理よりもパターンの論理に力点を置き、分析的な思考法より総合的な思考法に力点を置き、還元主義よりも目的論に力点を置きます。

非西洋の、非科学的な、非白人の神話の中に浸ると、ほどなくしてそれが現実だという証拠に出会います。近代の考え方では、まず現実があって、そのあとに現実についての信念があります。そう考えることで、信念と現実、主体と客体、名前と実体の間に神秘的な関係があった他の文化との食い違いが生じます。ある世界観に入り、その名前を口にし、その儀式を行えば、その民があなたを出迎えてくれます。本当のブードゥー教の巫女みこやアンデスのシャーマンや道教の導師の世界に深く入れば、あなたは標準的な科学の世界観では不可能なものごとを体験します。

宗教としての道教を研究する偉大な人類学者、クリストファー・シペールの話を以前に聞きました。彼は長いあいだ台湾で道教の導師に弟子入りしていました。あるとき真夜中に部屋のドアをノックする音で眼が覚めました。ドアを開けると彼が見たのは、じっとこちらを見つめる三体の生ける屍キョンシーでした。「来る家を間違えてるぞ!」と彼は怒鳴り、ドアをぴしゃりと閉めると寝床に戻りました。彼はその話を私の友人に語ってこう言いました。「民間の道教信仰の世界に入ると、ときどきアンデッド(まだ死に切れていない者)の訪問を受けるのです。」その神話の中で、それは現実なのです。

私たちの(主流の)神話の中では何が現実でしょう? ウイルスはその一つです。(私たちの宗教、つまり科学には異端者がいて、SARS-CoV-2ウイルスが新型コロナを起こすのではないと信じていますが、彼らは実際に文字通りの宗教異端者として扱われていることに注目してください。)したがって、私たちはウイルスと呼ぶ悪霊を追い払う一連の儀式を執り行うのです。私たちは最も基本的な儀式の装束であるマスクを着用します。悪霊が飛び移ってくるといけないので、けがれた人々とは距離を取ります。手洗いや消毒室のような清めの儀式を行います。ひどい苦しみに陥った人々は特別な寺院(病院)に行き、そこで高度な訓練を受けた侍者じしゃが儀式用の装束を身に着けて、様々な魔法の薬や儀式の装置を使います。このような手続きが私たちにとってどれほど現実的で良識あるものであるとしても、それは別の文化の信念と行為が彼らにとってどれほど現実的で良識あるものかというのと同じことです。それは儀式などではなく、現実の因果関係に基づいていて、「科学的方法」で証明できると言って、私たちは自分に特権を与えたくなりますが、それ自身を具体化する神話の中に私たちが住んでいることには気付いていません。

私たちが直面する現在の歴史的瞬間は、神話の移行期であり、自己と世界を知るための基本的な物語の移行期です。その神話は世界の他の文化を侵食した後で、とうとう自分自身も溶かし始めています。世界の様々な文化の数え切れない饗膳きょうぜんの素材が、厨房に散乱しています。それを使ってこれまで無かったような壮麗なものへと作り上げるために、私たちはまず自分の料理が最高だという考えを捨てる必要があります。新しい神話が手招きしています。それが現実となるために、私たちは古い神話を手放す勇気を育まねばなりません。たとえそれが絶対的な現実そのもののように見えていたとしても。さいわい、勇気には友がいます。いま現在、現実はばらばらに崩れつつあります。経済的現実と政治的現実が変化したことは間違いありません。でも解体のプロセスはここで止まりません。

長らく自明の理とされてきたものが崩壊し、科学そのものが変化しています。たとえば、私がこれまで生きてきた中で、科学・政治の支配者層は地球外からの訪問者という考えをあざ笑い、科学の権威に全幅の信頼を置き、UFOは気象観測用気球や、湿地から発生するガス、錯覚、デマに過ぎないと否定的な説明をしてきました。今ではニューヨーク・タイムズや米海軍でさえ、現在のテクノロジーの能力を遥かに超える航空現象を訓練された観察者が見たという数多くの報告の存在を認めています。科学の基本的・哲学的な前提さえも揺らいでいます。その中でもまず、誰が観察しても同じ結果が得られ、変数の影響は別々に調べられるという前提です。量子の非局在性と観測パラドックスや、非線形的な創発現象やカオスから発生する秩序に思いをせ、プラセボ効果や水の記憶、超常現象、ベングストン療法などのような問題を掘り下げるなら、医学を含む科学の様相はそれ自身が今まで潰そうとしてきた知識体系のように見えてきます。他の伝統を私たちの宴席に持ち込むのではなく、私たち自身が席を立って他の文化の宴席に招き入れられるように、未来が指し示しているのかもしれません。

科学と医学に当てはまることは、人間生活の他の部分にも及びます。私たちの政治システムが腐敗しているのに、それを世界中に押し付け続けるのでしょうか? 化学物質と機械を多用する私たちの農業システムが失敗しているのに、それをアフリカに押し付け続けるのでしょうか? そうではなく、私が先の段落で列挙したものごとが欠けているという悲痛な叫びを認め、優越性のコンプレックスを手放し、学び直しに必要な謙虚さを私たちは受け入れてもいいのかもしれません。そのとき私たちが学ぶのは、民間療法、地域に根ざした食料生産、贈与ギフト経済、体験的教育、儀礼と祈りの作法、人々と地球と調和して生きるために必要な心構えと感覚です。

確かに、この知識は有色の人々だけが持っているものではありませんが、私たちが「白人文化」と呼ぶ主流文化が長らく抑圧し無視してきたものです。さいわいにも、オーランド・ビショップが「記憶の文化」と呼ぶものの中に、それはまだ残っています。先住民文化、伝統文化、片隅に追いやられた文化や、主流文化の中に隠された血筋となって。もしかすると西洋文明は世界を結局のところ征服などしていなかったのかもしれません。征服したという見た目は一時的なものです。一見して征服されたように見える文化はまだここにあって、私たちの文化が疲弊するのを待っているのです。あるものは辺境の地で、比較的無傷のまま残っています。またあるものはインドや中国のように完全に西洋化するには巨大すぎた文化の中に残り、完全に同化されることを拒んだ少数者の中に(ブードゥー教のような営みとして)残っています。あるものは主流文化そのものの中に包み込まれ、先祖の智慧や、習慣、迷信、底辺の人々、対抗文化に刻み込まれています。完全に絶滅したと思われていた先住民でさえ、未来へと種子を託しました。大地に満たされた智慧は再び見出されるのを待っていて、古来の種子は千年に一度の洪水を待っているのです。このような記憶の文化がもたらしてくれるのは、人類の全体が本物の饗膳きょうぜんを調理するための素材とレシピなのです。


原文リンク:https://charleseisenstein.org/essays/the-banquet-of-whiteness/

【日本語訳】書籍『コロネーション』目次
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