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【聖なる経済学】 余暇のパラドックス

訳者コメント:
省力化技術を使って生産性を上げたなら、労働時間を減らして「余暇」を手に入れるというのは、有り得ない選択でした。それは富の再分配を意味するので、富裕層はそれを望まないのです。すると唯一の選択肢は「経済成長」、つまり、もっと需要を喚起し、もっと買わせて、経済を「活性化」する以外にはありませんでした。私たちの目の前にあるはずの果実をあきらめ、将来の安心のために「財産形成」するよう勧める裏にあるのが、プラスの金利という制度です。


第14章:社会配当

ほとんどの男性は、賃金を得るためだけに、壁越しに石を投げ、それを投げ返すという仕事に雇ってやると提案されたら、侮辱されたと感じるだろう。しかし今、多くの人々はそれ以上に価値のある仕事に雇われていない。
―ヘンリー・デイヴィッド・ソロー

明らかに最も不幸な人々は、同じことを何度も何度も、毎分、あるいは毎分20回、繰り返さなければならない人々だ。彼らが最も短い労働時間で最も高い賃金を受けるのだ。
―ジョン・ケネス・ガルブレイス


余暇のパラドックス

技術の歴史は、大部分において省力化装置の歴史と言えるでしょう。油圧ショベルは、スコップを持った500人の作業員の仕事をこなせます。ブルドーザーは、斧を持った500人の木こりの仕事をこなせます。コンピューターは、ペンと紙を持った500人の昔ながらの会計士の仕事をこなせます。何世紀にもわたって技術革新を続けてきたのに、なぜ私たちは以前と変わらず働き続けているのでしょうか。なぜ地球上のほとんどの人々は、今もなお日々の生活の中で欠乏感を抱えているのでしょうか。未来学者たちは何世紀にもわたり、余暇の時代が間近に迫っていると予測してきました。なぜそれは実現しないのでしょうか。

その理由は、私たちがあらゆる機会において、労働時間を減らすよりも生産量を増やすことを選んできたからです。他を選ぼうにも、どうしようもなかったのです。

現在の制度では、何らかの富の再分配なしに余暇の増加は不可能です。想像してほしいのは、突然すべての労働者の生産性を倍にできる魔法のような技術が発見されたらどうなるかということです。同じ量の商品が半分の労働力で入手可能になります。定常状態経済や脱成長経済のように需要増加を伴わない場合、労働者の半分は余剰になります。競争力を維持するために、企業は労働者の半分を解雇するか、パートタイムにするか、賃金を下げなければなりません。雇用主のために労働者が稼ぎ出す収益以上に賃金を支払うような人は誰もいないので、総賃金は半分になります。商品が約50%安くなっているにもかかわらず、解雇された労働者には、もはや商品を購入するお金がありません。結局、より少ない労力でより多くの商品が入手可能になったにもかかわらず、それらの商品を購入するためのお金は、商品を使用できる人々に届きません。余暇は確かに増加しましたが、それは「失業」と呼ばれ、その結果は壊滅的です。第6章で説明したように、富の急速な集中、デフレ、倒産などが起こります。

結果として生じる社会経済的惨事を回避するには二つの方法があります。富の再分配か、経済成長です。前者を実現するには、雇用されている人からお金を取り上げて失業者へ分配したり、余剰人員を抱えている企業に補助金を出したり、働いているかどうかに関わらず全員に社会保障賃金を支払ったりすればよいのです。こうした再分配政策は、貨幣保有者の相対的な富と権力を低下させます。上記のシナリオにおけるもう一方の解決策は、需要を倍増させて全員の雇用を維持することです。

一般的に言って、物事を牛耳っているのは富裕層であり、自分たちの富が再分配されることを望んでなどいないため、過剰生産と不完全雇用の問題に対する従来の解決策は、何らかの方法で経済成長を生み出すこと、つまり新しい商品やサービスへの需要を増やすことです。その方法の一つは輸出ですが、この解決策が地球全体に通用しないのは明らかです。需要を増やすもう一つの方法は、私がもう十分に説明したように、非貨幣の領域を植民地化すること、つまりかつては無料だったものを人々に買わせることです。最終的には、戦争や浪費によって過剰生産を単純に破壊することもできます。これらの手段はみな、自然な需要が満たされた後も、すべての人を懸命に働かせることになります。

成長のイデオロギー、〈上昇〉の物語が説くのは、自然な需要は決して満たされることがなく、無限の(上方)弾力性を持つ〔多く手に入れるほど、ますます多く欲しくなる〕ということです。それは、新たな市場、新たなニーズ、新たな欲望が無限に供給されることを前提としています。しかし、私が観察してきたように、飽くことのない欲望の唯一の対象はお金です。無限のニーズ、ひいては無限の需要という前提が、今日見られる狂気、そしてそれを正当化する経済論理を駆り立てているのです[1]。

昔なら、効率の向上をどう使うか、つまり労働を減らすか、消費を増やすかという選択肢は常にありました。しかし、成長に依存する貨幣システムに駆り立てられた私たちは、一貫して後者を選んできました。労働を減らして既存のニーズをより容易に満たす代わりに、常に私たちは満たすべき新たなニーズを作り出したり、あるいは頻度を増したり、ニーズを贈与ギフトから貨幣の領域に移したり、有限の物で無限のニーズを満たそうとしたりしてきました。こうしたことが、私たちの上昇、つまり手と頭脳という天賦の才能の発達を促してきました。自然、文化、精神、そして人類への代償は大きかったものの、この発達には正当な目的がありました。今日、自然と文化のコモンズが枯渇するにつれ、労働を減らすか、消費を増やすかという選択の文脈は変わりつつあります。〈上昇〉の時代は終わりに近づいており、私たちは地球との新たな関係の中で、これまで培ってきた才能を本当の目的に活かそうとしています。成長の時代は終わりました。ジョン・メイナード・ケインズは、『平和の経済的帰結』の中で、この時代的転換を予見していました。

一方、労働者階級が受け入れたのは、…自分たちと自然と資本家が協力して生産しているケーキのごく一部しか自分たちのものと呼べない状況だった。他方、資本家階級はケーキの最良の部分を自分たちのものと呼ぶことができ、理論的にはそれを自由に消費することが許されたが、実際にはごくわずかしか消費しないという暗黙の条件があった。「貯蓄」の義務は徳の九割となり、ケーキの増大は真の宗教の対象となった。ケーキを消費しないことの周りに拡がったのは清教徒主義のあらゆる本能で、他の時代には世間から退いて生産の技と享楽の技を共に軽視してきた。かくしてケーキは増えたが、その目的については明確に考えられていなかったのだ。個人の対しては、禁欲するよりもむしろ先延ばしにし、安心と期待という喜びを育むよう勧告された。貯蓄は老後や子供のためのものだったが、これはあくまで理論上の話であり、このケーキの美徳は、誰もそれを食べることはなく、あなたも、あなたの子孫も決して食べはしないということだった。[2]

集団レベルで言えば、ケーキを消費しないことは、余暇よりも成長を選ぶことを意味します。より効率的な生産技術によって、私たちは労働時間を減らすか、あるいは同じくらい懸命に働きながらより多くのものを生産するかのどちらかを選ぶことができます。私たちの経済システムは後者の選択を必要とし、またそれを具体化します。しかし、今日「ケインズ経済学」が財政刺激策と結びつけられているにもかかわらず、ケインズ自身は刺激策を恒久的な解決策とは考えていませんでした。社会として、私たちは軍事支出、高速道路建設、そして補助金を使って採掘、建設、消費、帝国主義を加速させることで、80年間も人為的に需要を刺激してきました。経済成長を維持し、資本の限界効率を利子よりも高く保とうとするあまり、私たちは必要かどうかに関係なく、ますます多くの生産を行うというパターンに陥ってしまいました。この罠に適応した経済理論は、無限の欲求を前提として、こう言います。私たちには常に「必要」があり、ある産業でなくても別の産業で、常にますます多くのものを生産することが必要なのだと。私はこのプロセスを別の形で表現してきました。それは、自然資本、社会資本、文化資本、そして魂の資本の領域を、次から次へと枯渇させていく過程です。ケインズは〈上昇〉のイデオロギー的文脈の中で生きていたため、それを明示的に述べてはいませんでしたが、直感していたことは明らかです。上記の文章で彼が過去形を使っていることは、いつかケーキを食べる時が来る、つまり、より多くの物よりもより少ない労働を選ぶ時が来ることを示唆していると、少なくとも私には思えるのです。

リスク無しのプラス金利は、ケインズが「安心と期待という喜びを育む」と説いた「勧告」の経済的側面であり、私の言葉で言えば、現在を未来のための抵当に入れ、自由よりも安心、あるいはそのまがい物を選ぶということです。私が述べた経済論理には、個人的な側面もあるのがお分かりいただけるでしょう。過去の時代に、私たちは、お金が必要ない時でさえ、余暇よりも仕事を選ぶ動機を持っていました。なぜなら、利子によって将来さらに多くの余暇を買えるという約束があったからです。快楽と余暇を控え、そして実際には多くの場合、私たちの最良の衝動を控えることで、私たちは経済的な天国に行ける、つまり早期退職できるかもしれないのです。しかし宗教にはよくあるように、天国の約束は私たちを束縛するだけです。でも私たちの隷属の時代は終わったのです。いま地球の現状は、私たちが「ケーキの増産」から目をそらすよう、緊急に求めているのです。


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注:
1. 無限に弾力的な需要は、例えば、いわゆる労働塊の誤謬に基づいて、余暇経済の永遠の延期を正当化します。私はこれを「労働塊の誤謬の誤謬」と改名します。なぜなら、この見せかけの「誤謬」は、経済が必要とする労働量は常に増加する可能性があると述べているため、技術の進歩によって労働時間が短縮されたり、生産に費やす時間が減ったりすることはないからです。
同様の議論であるジェボンズのパラドックスも、同じ根本的な仮定に基づいています。ジェボンズのパラドックスは、効率性の向上が(労働を含む)資源使用量の減少にはつながらず、むしろ増加につながると述べています。例えば、照明が安くなれば、私たちは照明をより多く使用するでしょう。消費電力が5分の1のコンパクト蛍光灯に切り替えれば、設置する数は5倍になります。とても安いので、来年の夏にパーティーを開く場合に備えて、裏庭に新しいものをいくつか設置するかもしれません。先に述べた脱成長要因にジェボンズのパラドックスを適用すると、広告費が安くなれば広告はさらに増える、ということになります。しかし、これもまた需要の上方弾力性が無限であるという前提に基づいています。つまり、照明や広告などを利用する能力が無限であるという前提です。この議論をより洗練させた形では、ある分野で需要が完全に飽和状態になったとしても、効率性の向上によって生み出された資金は他の分野に振り向けられる、ということになります。つまり、全体的なニーズは無限であるという前提です。この前提にはもう一つ、自然や文化などを貨幣の領域に取り込む量に限界がないという前提も伴います。かつては、自然の資源は無限であるかのように思われていましたが、今日ではその限界は明らかです。経済学の知識を持つ読者は、セイの法則割れ窓の誤謬など、古典経済学の他の概念にも同様の論理を適用できます。これらはすべて、人類が自然を支配するようになるという「上昇」が永遠に続くという物語の一部です。
2. ケインズ、『平和の経済的帰結』 20頁(強調は筆者による)。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-14-the-social-dividend/


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