【構造分析】「正しさ」が現場を止めるとき、何が起きているのかー 正しさ・善意・責任感が構造上どう固定化されるか
※本記事では「責任配置」という語を使用していますが、現在は概念整理のため、「役割構造」という表現に更新しています。
はじめに.「正しい」のに「苦しい」現場
教育や支援の現場で、こんな感覚を抱いたことはないでしょうか。私はあります。
みな善意がないわけじゃない
思いもちゃんとある
責任感はもちろん十分にある
それでも、なぜかが動かない。動けない。
情報共有はされているのに
しかし対話は深まらず
職場関係は少しずつ硬直・分断していく
それはやはり収まりが悪いので、多くの場合、その原因は「誰かの問題」に回収されていきます。それはこんな言葉で「ラベリング」されます。
・「あの人(たち)は能動的でない」
・「あの人(たち)は理解が未熟なのだ」
・「あの人(たち)には覚悟が足りない」
だから、うまくいかないのだ、というわけです。
しかし、ここで一度立ち止まって考えたいと思います。問題は「誰が正しいことを言っているか」ではなく、「関係構造」や「責任配置」が構造上、場に固定化されて「正しさ」化したときに生じる力学にあるのではないか、ということです。
本記事では、「善意」と「正しさ」をいったん分解し、私が身を置く学校現場を起点にして、支援現場から職場一般へと射程を広げながら、「正しさの固定化」がどのように起きるのかを整理していきます。
※本記事は、「問題は人ではなく構造にある」という視点を前提としています。
→ 【関連記事】問題は「人」ではなく「構造」にある──関係・役割・制度のズレが、現場を壊していく
1. 「善意」と「正しさ」
①善意とは何か
ここでいう「善意」とは、心理学的には「向社会的動機づけ」ともいわれ、他者の利益を志向する動機と整理できます。
定義のとおりに言えば、善意それ自体は、組織のパフォーマンスにおいて基本的に有益であるといえます。
②なぜ善意が「正しさ」になるのか
しかし、「有益」であるはずの善意が「自己概念」と結びついたときにややこしい構造的問題が起こります。
その発生プロセスは次のように整理できます。
他者の利益を志向する
その行為が外部から評価される
「自分=善意ある(良い)人間だ」という自己物語が形成される
異論が「人格否定」のように感じられる
防衛的な心理反応が強まる
ここで起きているのは「善意を持つ自分(正しい自分)」の「自己物語化」=「正しさの固定化」です。
人は自分を道徳的に一貫した存在として保ちたいものです。この心理的動きは自然なものですが、この自己整合性への欲求が働きすぎると、
反論は「意見への異議」ではなく、「自分の人格(=善い人間である)への否定」に感じられてしまうのです。
そのとき、生じがちな心理反応は
自己正当化バイアス
道徳的優越感
反論の過度な切り捨て
です。この反応は、「善意を持つ自分」という自己物語化をかえって進め、そこで表明される「善意」は議論停止装置になり得ます。つまり、「正しさ」が場を支配し、善意は議論停止装置・支配装置に変わりるのです。
しかし、それは悪意の産物などではなく、
「自己物語の防衛」
という、心理的防衛反応の構造なのです。
この構造を見ることが重要です。
2.学校という「正しさ製造装置」
① 可視化された善意
学校は特に「善意」が可視化されやすい場です。
子どものために〜
成長のために〜
将来のために〜
これらはどれも「正しい」言説でしょう。
しかし、ややこしい問題なのはこれらが
一般的な価値指標
手段の正当化
発話者の倫理的「正しさ」の表明
を同時に含んでいる点です。この複数の意味を内包する「〜のために」は、しばしば教育現場にズレと対立を持ち込みます。
このような倫理的価値語を扱う場では、
意見の相違が、事実認識の違いではなく、倫理観の違いへと変換されやすいことが知られています。
こういった価値語は、その人の価値観の根幹にかかわるうえに、倫理的な価値観は客観的・定量的に検証することができず、その論拠は個人的信念に基づくからです。
「それは本当に子どものためなのか?」
本来は検証可能な問いなはずです。
しかし、構造が固定化し、「善意」が場を支配するとき、それは、それ以上議論が進められないという合図になります。
② 役割と人格の未分化
学校現場では、役割と人格が強く結びつく傾向にあります。
担任=学級・生徒の責任主体
生徒指導担当=問題対応の中心主体
役割と人格が未分化な現場においては、そこで起こるトラブルはしばしば責任主体である担任や指導部に帰属させられます。
役割葛藤に関する研究では、責任が集中する環境では、人はより強く責任を引き受ける傾向が示されているようです。
善意 × 役割集中は、「正しさ」の独占を引き起こし、そうした場は周囲の沈黙を招きます。
だれも悪意を持って糾弾・沈黙しているわけではありません。
そこにあるのは、責任が過集中、または曖昧化している状態です。
③ あいまいな評価軸
学校教育は複線的に価値観を扱う場です。教育なので、そこが教育の根幹でもあります。
学力
成長
関係
将来性
人間性
これらの価値語は環境を形成し、生徒だけでなく、そこで働く教員や学校教育そのものにも向けられます。生徒を評する語彙で、教員もまた語られる文化があります。
したがって、学校現場のような評価軸が曖昧な組織においては、
「私は本気でやっている」
「使命感がある」
といった道徳的主張が評価の代替になりやすい傾向にあります。
つまり、学校現場においては、
「善意」「熱意」は、事実ではなく「正当性の根拠」
になり得るといえるでしょう。
こうして「善意」は、「正しさ」へと変換されていくのです。
「善意も熱意もあるのに、なぜかうまくいかない」という違和感は、ここから生まれます。
→ 【関連記事】善意も熱意もあるのに、うまくいかない──現場で起きているのは「気持ち不足」ではない
また、困ったことに、この現象について、「評価軸を問い直す」「役割構造の明示化要求」という、一見して適切な行動も、場の膠着を招き得ます。
いわゆる「議論を止める厄介者」の存在です。
そのメカニズムについて、構造的に整理した記事もあります。「構造視点」の実践段階の内容なので、興味のある方はお読みください。
3.支援現場──非対称の善意
支援現場では、知識と制度理解が非対称である状態が前提にあります。
つまり、
専門家は制度を認知し、使う
当事者は制度の内部にいて、認知できない
専門性は職能上不可欠なものですが、同時に専門性は影響力を伴うものでもあります。
「守る側」と「守られる側」の非対称性が固定化すると、
善意は「コントロール」に近づき、
当事者の語りは「翻訳」され、
「分かっている側」が場の主導権を握る
だれも悪意を持って場を支配しようとしているわけではありません。
あるのは構造的な非対称性です。
こういった場においては、
「分かっている側」の「善意」「熱意」が、
「行為の正当性の根拠」として「自己物語化」していきます。
支援の現場では、この「善意」が拒否・否定される事は珍しくありません。
すると心の中に、
「あなたの為にやっているのに」
「なんでやろうとしないんだ」
「何とかしようという気が見えない」
という語りが生まれていくことになります。
「善意」が「正しさ」として固定化すると、支援が手厚くても事態が動かないとき、「本人の意欲」に原因が回収されていくのです。
しかし実際には、
善意の集中が、責任の集中を招き、正しさが固定化した結果、当事者の主体性の縮小が起きる
という力学が働いている可能性を視野に入れて考えていく必要性があります。
家族システムにおける諸問題も、同じ構造です。
この構造は、支援が手厚いにもかかわらず状況が動かない場面でより顕著になります。
→ 【関連記事】支援が手厚いのに、状況が動かなくなるとき
4.職場一般へ──正しさは「力」になる
①構造の再現性
この構造はどの組織でも起こりえます。
成果責任が集中するポジションにおいては、
正論が強まる
コントロール欲求が高まる
反論は減る
一方で現場側においては、
被害者物語を固定化する
上司を道徳的に否定する
両者とも自分の側に「正しさ」を持って行動しています。
だからこそ、職場の構図は動きづらいのです。
②「老害」問題──年齢ではなく構造
「老害」という言葉があります。
しかし世代研究では、世代効果の大きさは想像より小さいことが示されています。
この言葉は、
「行為批判」ではなく「人格批判」
「役割批判」ではなく「属性批判」
ラベリングによる「反論不能化」
を伴う、道徳化された非難語であるといえます。
ここで改めて、「老害」と呼ばれる現象を構造で見ると、
ポジションの長期固定化
成功体験の強化学習
変化コストの非対称性
フィードバックの遮断
といった要素が見えてきます。どれも、「属人性」を示すものではなく、「関係」や「責任」に由来しているものです。これは、若手がポジションを得ても同じことが起き得るということを示しています。
人は権力を持つと、
自己確信が強まる
他者視点取得が減る
ことは実証研究でも示されているところです。
つまり、
「老害」とは、年齢問題ではなく、
権限と正しさが固定化した結果の構造的問題
であるといえるでしょう。
そしてそれは、
善意と責任感を持つ人ほど起こりやすい、という逆説的な現象となります。なぜなら、
「自分は現場のためにやっている」
という自己物語的確信は、反論を道徳的にシャットダウンする力を持つからです。
ここで必要なのは、
自分が害をなしている可能性を残しておくこと。
今、権力はどこに固定しているかを見ること。
です。これは道徳論ではなく、構造理解です。
評価と関係がずれるとき、正しさはさらに硬直します。
→ 【関連記事】問題は「人」ではなく「構造」にある──関係・役割・制度のズレが、現場を壊していく
5.正しさの固定化メカニズム
これまで挙げた事例に共通する力学はこのように整理できるでしょう。
・倫理的概念を扱っている
・責任が集中している
・役割と人格が結びついている
・情報が非対称になる
・正しさが断言形式になる
このとき現場には「べき」が増えます。
「教師はこうあるべき」
「管理職ならこうするべき」
「若手はまず従うべき」
「ベテランは配慮してしかるべき」
「べき思考」はとれる選択肢を狭め、対話を硬直させます。「正しさ」は現場に必要なのですが、
「正しさ」が場に固定化すると、調整しづらい「構造」になる
のです。そして場の力は、設計されなければ自然と偏ります。関係構造や責任配置は多くの場の初期条件では偏っていることが多く、そこに埋め込まれた行動誘因は場を作る制度に支えられる合理性を持つからです。
6.正しさを固定しない
ここで押さえたいのは、「正しさを否定する」ことではなく、「動かせる状態にする」ことです。
主語を戻す
仮説として扱う
役割と人格を分離する
責任を再配置する
正しさが柔軟性をもつ時、それは場の資源になりえる
といえます。
では、個人が今日からできる最小単位のアプローチは何でしょうか。
→ 【次に読む】壊れない現場のために、個人ができる最小単位の介入
7.おわりに
「善意」も「熱意」も「責任感」も、否定する必要はありません。むしろ現場にとっては不可欠です。
しかしそれらが固定化し、特定のポジションに集中したとき、現場は静かに止まり、分断と対立が進みます。そうして停滞した現場は暗黙の力をもつ場に変貌していきます。
問題は「人の性格」にあるのではなく、「関係構造」と「責任配置」にある
のです。
正しさが動く組織は、柔軟かつ持続可能で「強い」です。
今、あなたの現場では、どこに、どの、「正しさ」が固定されているでしょうか?
⏹️本記事は、マガジン
「壊れない現場 ― 教育・支援を『構造視点』で翻訳設計する」
の一部です。教育や支援の現場で起きる出来事を、個人の資質や努力に回収せず、関係構造・責任配置・行動誘因(=構造)から読み解き、現場を構造として翻訳し直す視点を順に整理しています。
このシリーズでは、
違和感 → 構造分析 → 構造視点 → 構造翻訳 → 構造設計 → 実装
という流れで、壊れない現場を構造から考えていきます。
はじめて読む方は、以下の記事からご覧ください。① 善意も熱意もあるのに、うまくいかない
② 問題は「人」ではなく「構造」にある
■ 壊れない現場 ― 構造視点シリーズ(マガジン一覧)
⑤ 現場を「構造で見る」とき、私は何を見ているか
▶ 分析フレームを整理したい方へ
⑥ 教育・支援を「構造」として捉える3つの視点
▶ 実践したい方へ
⑦「壊れない現場のために、個人ができる最小アプローチ」
