この問いから逃げないための宣言、映画『LOST LAND』を観て考えたこと|共生社会①
ロヒンギャ難民の姉弟を描いた映画『LOST LAND』。
そこには、生まれた国を追われ、家族と離ればなれになり、大人たちの暴力や搾取に晒されながら、それでも生きようとする子ども達がいました。
組織の中で人の主体性を取り戻す変革を考えてきた自分にとって、
この映画は、その問いが根源的には
「人が、自分の人生を、自分で生きられるか」
という問題だったのだと気づかせるものでした。

自分の無力さ、それでも消えない怒り
この映画を観る直前、僕はある戦略論を読んでいました。
それは野本遼平『ゼロから創らない戦略』という本で、「あるリソースを他の場所に移すことで、いかに価値を最大化するか」という話でした。
そして、映画『LOST LAND』を観ている間、ずっと僕の中にひとつの問いが迫ってきました。
「自分というリソースは、どこに移すと社会的な価値が最大化されるのか」
論理的に考える力がある。構想力も。人の心の機微を感じられる。正しいと思った信念を、曲げない図太さも持っている。
一方で、弱いところもある。日々のオペレーションに自信はない。大きな構想を描いても、一歩一歩を地道に積み上げられるのか。感情の揺れも大きい。怒りや無力感に飲まれることも。慎重さに欠けて、勢いで走り出すこともある。
そして何より、この映画が訴える問題について、自分はまだほとんど何も知らない。
自分は何に使えるのか。映画館を出た後も、この問いは消えませんでした。
ただ、大人の都合で、子どもが人生を奪われることが許せない。そうハッキリと感じました。
主体性への関心の奥にあるもの
僕はこれまで、企業や組織の中で、人が主体性を取り戻すことに関心を持ってきました。
人が「やらされている」状態から、「自分はこうしたい」と動き出す瞬間。
組織の中で眠っていた主体性に、もう一度火が点く瞬間。
そういう場面に、自分は強く惹かれてきました。
でも、その問いを突き詰めると、僕が本当に関心を持っていたのは、「人が、自分の人生を、自分で生きられること」だったのかもしれません。
そして、子どもは、最もそれを奪われやすい存在です。
親も、民族も、生まれる国も、選べない。
悪意ある大人から逃げる術も、ほとんど持っていない。
貧困から、自力で抜け出すことも難しい。
他者に無関心な大人達の都合を、押し付けられる。
それが、どうしても許せませんでした。
この問いから逃げないために
組織変革の仕事を、すぐにやめるつもりはありません。
家族と生活していく必要があるし、
自分自身も、もっと力と信頼を積む必要がある。
でも、それとは別に、自分の中に大きな問いが生まれました。
自分の力を、残りの人生を、何に使うべきか。
これから、何に怒り続けるのか。
何なら、死ぬまで考え続けられるのか。
今日持った答えのひとつが、「大人がつくった世界で、子どもの生命と尊厳を奪わせない」ことです。
もちろん、映画を一本観ただけで、何かを語れるほど、僕はこの問題を知りません。
今日感じた怒りを、そのまま行動に移せばいいわけじゃない、とも思っています。
ロヒンギャのことも、難民のことも、世界の子どもの人道危機のことも、日本国内の子どもの貧困や虐待や孤立のことも、まだほとんど知りません。
だから、まず学ぼうと思います。
子ども達の現状。そして、その現場で変えようとしている大人たちは、何に困り、どんな支えを必要としているのかについて。
本当に、なにか自分にできるのか、まだわかりません。
でも、この問いからは逃げたくないと思いました。
これは誰かに何かを伝える文章というより、自分への宣言です。
忘れないために、ここに書いておきます。
【主体性への関心、組織変革をやる理由】
【問いの続き】
