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99.ただ氣づいているだけ。


鼓動や五感を感じるワーク。



「 感じる 」ということがよくわからなかったこの自我は、長い間ワークに苦手意識を持っていた。


「 感じること 」を「 難しい 」とラベリングしていたからだ。


そもそも「 感じる 」とは、いまここで身体が感じている感触( たとえば両手のひらをあわせたときの手のひらの皮膚に感じる感触 )に


「 氣づく 」


だけのことで、そこに難しいも簡単もないのだけれど、


感じることに自我独自の解釈で別の意味を与えていたりすると、それを「 できる/できない 」「 難しい/簡単 」とジャッジする、ということが起きてくるように思う( 経験者は語るw )。


そしてもうひとつ。


「 感じること 」を難しくさせているのは、現代人の脳の働きにも関係しているようで。


人間の脳には右脳と左脳があって

右脳は「 感覚、直感、イメージ 」を司り、左脳は「 言語、論理、計算 」を司ると言われている。


現代人は「 感じる 」ことより「 考える 」ことばかりしているため左脳過剰になっており、ゆえに「 感じるってどういうこと? 」となりがちなんだとか。


「 思考🟰自我 」なのであれば

これってもしかして

左脳過剰とは 「 自我過剰 」



と言い換えられるのでは?


ただ身体が感じていることに「 氣づく 」という、いたってシンプルなことをダイレクトに受けとれないのは、


そこに「 解釈 」というフィルターを挟み込んでくる自我の存在がいるからではないだろうか。


そして自我過剰によるワークあるあるが


「 しようしよう、なろうなろう 」



という動きだ。


鼓動や五感を感じる際、ただ身体の感じに意識を向けるだけのことなのに、そこに自我が介入した途端「 感じよう、感じよう 」といった働きが出てしまう。


本来の「 感じる 」は、そこにすでにある感じに「 氣づく 」→「 受け取る 」という受動的なものに対して、


エゴによる「 感じる 」は「 自分から取りに行く 」というような能動的な動きがあるように思っていて。


そこには「 感じよう 」とする主体である
「 私 」( =自我 )がいるため、いくらワークを重ねてもMr.DXの言う「 身体の輪郭が消え空間と一体になる 」とか「 鼓動になる 」という感じは起きてこないのではないかと。


これが「 ワークをしているのに変わらない 」といわれる一番の要因のような氣がしており。。。


そこで。


改善策として挙げられるのが


「 感じよう 」とする前のめりの姿勢をやめることだ。


「 鼓動を感じよう、感じよう 」「 鼓動になろう、なろう 」とする動きには、いますでにあるものをコントロールしようという意図が隠れている。


それは逆を返せば、身体がすでに「 感じているもの 」を「 それじゃない、それじゃない 」と言ってるようなもので。


そうではなく。


もうすでにそこにある「 感じ 」に、意識を向け


ただ氣づくだけでいいのだ。



身体が受けとっているものにただ「 氣づく 」だけ。


心臓がドクッ、ドクッと振動していることにただ「 氣づく 」だけ。


それが「 感じる 」の本質のような氣がしている。


ホントはとってもシンプルで難しいことなんてないのだ(  ←自分に言うとります )。


ワーク中「 感じよう、感じよう 」と氣持ちが先走っていたら、そこには自我さんがいるかも?


そんなときは


「 感じれても、感じられなくてもいいとしたら? 」でフラットにして、


そこにある身体の感じに耳を澄ましてみてはどうだろう。


それが「 ただ氣づく 」に立ち戻るコツかもしれません🍎🍎



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